■ 第22話「丘の花」
川奪還の翌日、集落に二人の魔族が訪ねてきた。
一人は男だった。歳は二十代後半くらい。細身で、丸眼鏡をかけていた。髪は短い黒で、角は細く真っ直ぐ上に伸びている。手に分厚い術式書を抱えていて、目つきが鋭い。整った顔立ちだが、表情がずっと真剣だった。
「ソルスといいます。王都の外れで魔術の研究をしています。魔王様の封印術と息吹の共鳴現象について、ぜひ直接見学させていただきたくて」
もう一人は女だった。歳はソルスより少し下か。栗色の髪を高く結んで、大きな緑の瞳がくるくると動いている。角は短めで、先端がわずかに外側に曲がっていた。顔立ちは元気そうな印象で、俺を見た瞬間ぱっと笑顔になった。
「ミルです! ソルスの助手やってます! 魔王様、すごく若くてかっこいいですね! あと角! 水色の角はじめて見ました! 近くで見ていいですか!?」
一息で全部言い切った。
シアが俺の隣で、無言でミルを見ていた。目が少し細かった。
「歓迎します。一緒に来てください」
―――――
その日の午後、東の丘に向かった。
シアが以前言っていた場所だ。昔、息吹が濃くて春になると花が咲き乱れたという丘。ムルトゥス様が一番好きだった場所。
壁を押し広げながら、丘を目指した。
ソルスは術式の展開を見ながら、手元の術式書に何かを書き込み続けていた。
「魔王様、今の紋様の展開順、人間の術式体系には存在しない構造ですね。これは独自に開発されたものですか」
「元々は人間側の封印術です。それが息吹と共鳴して変質した感じで」
「変質、ですか」ソルスの目が光った。「つまり術式が息吹に適応して進化したということですか」
「そういう表現が正しいかどうかはわからないですが、感覚的にはそんな感じです」
「面白い。術式が生き物みたいに環境に適応する。そんな事例は文献にも存在しない」
ソルスはもの凄い速さで術式書に書き込んでいた。歩きながら。ぶつかりそうになりながら。
隣でミルが俺の横に並んできた。
「魔王様って普段どんな訓練してるんですか」「息吹ってどんな感触ですか」「角って生えたとき痛かったですか」「シアさんって魔王様の幼なじみですか」
矢継ぎ早に聞いてきた。
「ミル、魔王様が困っている」シアが静かに言った。
「あ、すみません! でも気になることが多すぎて!」
「一つずつにしろ」
「はい! じゃあまず——」
「休憩してから聞け」
ミルは「はーい」と言って大人しくなった。
俺はシアを横目で見た。シアは前を向いていた。耳が少し赤かった。
幼なじみかどうか聞かれたのが引っかかったのかもしれない。
俺は何も言わなかった。
―――――
丘が見えてきた。
まだ壁は届いていない。丘の上は枯れていた。草も木も、全部灰色だった。
でもシアが、その丘を見て立ち止まった。
「ここだ」
静かな声だった。
「ムルトゥス様が言ってた丘か」
「うん」シアは丘を見上げた。「枯れてる。全部枯れてる。でも、ここだ」
「取り戻そう」
俺は術式を展開した。壁の端を丘に向けて押し出していく。宝玉から授かった力が満ちている。息吹を引き込む。温かい。
壁が丘の麓まで届いた。
息吹が丘を包んでいく。
ソルスが息を飲んだ。
「すごい。土の色が変わっていく」
灰色だった土が、濃い茶色に変わっていった。そこから、緑が芽吹き始めた。最初は小さかった。でもどんどん広がっていく。枯れていた木の枝に、小さな緑の葉が出てきた。
そして。
丘の頂上から、色が広がった。
花だった。
紫と白の小さな花が、丘の上に一斉に咲き始めた。息吹が戻った土から、眠っていた種が一気に目を覚ましたみたいに。
風が吹いた。花びらが舞った。
ミルが「わあ」と声を上げた。ソルスが術式書を閉じて、ただ丘を見ていた。
シアは動かなかった。
丘の花を、じっと見ていた。
俺はシアの横顔を見た。白い肌に、花びらが一枚落ちてきた。銀色の瞳が、花で埋め尽くされた丘を映していた。
シアの口元が、ゆっくりと緩んだ。
本当に、はっきりと笑った顔だった。
「綺麗だ」
シアが言った。俺じゃなくて、丘に向けて。でも俺には聞こえた。
「ムルトゥス様に見せたいな」
俺はシアを見た。
「見せよう。明日連れてこよう」
シアは俺を見た。
「いいの」
「当然だ」
シアは少し黙った。それから、また丘を見た。
「……ありがとう」
その声が、今日一番柔らかかった。
―――――
帰り道、ソルスが俺の隣に来た。
「魔王様、一つお願いがあります」
「何ですか」
「魔王様の術式を、正式に研究させていただけませんか。今まで存在しなかった術式体系です。記録に残す価値がある」
「構いませんよ」
「本当ですか!」ソルスは珍しく声を上げた。「ありがとうございます。必ず後世に残る研究にします」
ミルが俺の反対側に来た。
「私も来ていいですか! 見学じゃなくて訓練に参加したい!」
「訓練は毎朝やってます。来たいなら来てください」
「やった!」
シアが前を歩きながら、小声で言った。
「賑やかになるな」
「嫌か」
「……別に」
でも、その声が嫌そうじゃなかった。
花びらがまだ、風に乗って飛んでいた。
―――――
夜、ムルトゥスのところに寄った。
「明日、丘に花が咲きました。見に行きましょう」
老長老は俺を見た。金色の瞳が、静かに揺れた。
「……花が、咲いたのか」
「シアが取り戻したかった場所です」
ムルトゥスはしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「……ありがとう、カイン殿」
その声が、震えていた。
……頷くのが精一杯だった。
―――――
ムルトゥスの部屋を出たとき、グラザードが廊下に立っていた。
いつもの無表情だったが、目つきが違った。何かあったときの目だ。
「報告が入った」
「何ですか」
「今日の夕方、丘の南東で人間の偵察兵が二人確認された。壁の外から丘を観察していた。近づく前に逃げたが——」
「こちらの動きを見ていた」
「そうだ。おそらく川の水が下流に流れ始めたことで、人間側が異変に気づいた。偵察を送ってきたのだろう」
俺は少し黙った。
「壁を広げれば広げるほど、人間側に目立つ」
「そういうことだ」グラザードは腕を組んだ。「土地を取り戻すことと、人間側を刺激することは表裏一体だ。今日の偵察は、向こうが本格的に動き出す前触れかもしれん」
「どれくらいで来ると思いますか」
「偵察の報告が王都に届くまで二日。判断と動員にさらに数日。早ければ一週間以内に、何らかの動きがある」
廊下の窓から、遠くに奇跡の壁が見えた。白と紫の光が、暗闇の中で静かに輝いている。
丘に咲いた花。戻ってきた川。取り戻した土地。
それを守らなければいけない。取り戻した分だけ、失うわけにはいかない。
「準備しましょう」
グラザードは頷いた。
「そのつもりだ」




