■ 第21話「川へ」
魔王として初めての軍議は、前と少し違った。
円卓に着いたとき、将たちが全員立ち上がった。
「魔王様」
老将が深く頭を下げた。将たちが続いた。
俺は少し戸惑いながら座った。隣にシアが座る。補佐官として地図と議事書を手元に揃えて、背筋を伸ばした凛とした表情だ。将たちの前のシアはいつもこうだ。
「着席してください。始めましょう」
グラザードが口を開いた。
「今日の議題は領地拡張の戦略だ。魔王様から方針を示していただきたい」
俺は地図を広げた。
「奇跡の壁の形を変えながら、外側に押し出していきます。一区画ずつ、少しずつ。押し出した場所に息吹が満ちて草木が戻ったら次の区画へ。これを繰り返す」
「時間がかかる」グラザードが言った。
「かかります。でも以前より速くできます」
シアが補足した。将たちの前では平坦な声で。
「魔王の宝玉から授かった力で、壁の押し出し速度が上がっている。以前は数日かけていた距離を、一日で押し出せるようになった」
将たちがざわめいた。
「一日で、ですか」
「試算では、以前の五倍以上の速度が出る」
老将が俺を見た。
「魔王様、それは本当ですか」
「まだ試してないですけど、感覚的にはそれくらいは出ると思います」
グラザードが腕を組んだ。
「では最初の目標はどこだ」
俺は地図を指した。集落から数キロ北東の場所だ。
「川です。昔ここに大きな川があったと聞きました。湧き水の川とは別の、もっと大きな川です。王国に塞がれて今は干上がっている。まずそこまで壁を押し広げる」
シアが続けた。
「川と息吹には特別な関係がある。川が流れれば息吹が水に溶け込んで、流れに乗って下流まで運ばれる。川沿いの土地が一気に回復する。川が息吹の血管になる」
「さらに」俺は続けた。「川の中に息吹の核を置く。水と息吹が合わされば核の効果が川全体に広がる。集落の広場に置いた核の、川バージョンです」
しばらく沈黙が続いた。
老将がゆっくりと口を開いた。
「百年かけて奪われた。取り戻すのに何年かかっても構わない」
その言葉に、将たちが静かに頷いた。
「異論のある者は」とグラザードが言った。
誰も立たなかった。
「では決定だ。魔王様の指揮のもと、川奪還作戦を開始する」
―――――
軍議が終わって将たちが退室した後、俺とシアだけが残った。
シアは議事書を片付けながら、ふと手を止めた。
「カイン」
「ん」
「川の話……私も聞いたことがある」
「ムルトゥス様から?」
「うん」シアは地図を見た。「小さい頃に。あの川には魚がたくさんいて、子どもたちが泳いでいたって。昔の話だけど」
「取り戻そう」
シアはちらっと俺を見た。
「どこを最初に取り戻したい? 川以外で」
「え、俺が聞こうとしてたのに」
「先に聞いた」
俺は少し笑った。
「じゃあ答える。シアが言いたそうにしてた場所」
シアは少し固まった。
「なんで知ってるの」
「知らないけど、たぶんある気がして」
シアは俯いた。耳が赤くなっていた。
「東に丘があったらしい。息吹が濃くて、春になると花が咲き乱れたって。ムルトゥス様が一番好きな場所だったって」
「じゃあそこも目標に入れよう」
「いいの」
「魔王の特権だ。好きなところから取り戻す」
シアはしばらく黙って、それからぽつりと言った。
「ありがとう」
その声が柔らかかった。将たちの前のシアとは全然違う声だった。
―――――
翌朝、夜明けと同時に北東の区画から壁の拡張を始めた。
シアが隣で術式の流れを確認しながら指示を出す。レナが後ろに立って見ている。グラザードも来ていた。
俺は壁に手を当てて、術式を展開した。
宝玉から授かった力が、身体の中に満ちている。以前とは全然違う。魔力の底が、見えない。
白銀の髪が風に煽られた。
「いくぞ」
壁を押し出した。
ずずず、と重い音がして、白と紫の光の壁が外側に動き始めた。
「速い」レナが声を上げた。「めちゃくちゃ速い!」
湧き水の壁を作ったときとは桁違いだった。あのときは百メートルで死にかけた。今は一息で数十メートル動く。あのときの地獄が嘘みたいだ。
「思ったより速いな」シアが呟いた。目が細くなっていた。術式の流れを追っている目だ。
「三重ブーストのおかげか」
「それもあるけど、それだけじゃない」シアは俺の頭を見た。角を見ていた。
「宝玉の前は、カインは全身から息吹を取り込んでいた。角はなかった。でも今は角がある。全身からの取り込みに加えて、角からも息吹を受け取っている。二重の取り込みになっている」
シアは術式書に何かを走り書きしながら続けた。
「しかも角は息吹を魔力に変換する器官だ。全身から取り込んだ息吹を、角が効率的に魔力に変えている。以前は取り込んだ息吹をそのまま術式に流していたけど、今は角で変換された高純度の魔力も乗っている。出力が跳ね上がるのは当然だ」
「宝玉+全身取り込み+角の変換か」
「三重のブーストだ。湧き水のときの五倍どころじゃない。十倍は出てる」
シアは少し悔しそうな顔をした。
「集中しろ。まだ川まで距離がある」
「はいはい」
レナが「魔王様がはいはいって言ってる」と笑っていた。
グラザードは無言で壁を見ていた。その目が、静かに光っていた。
―――――
一日目の夕方までに、川の手前二キロまで壁を押し出した。
以前の速度なら一週間かかる距離だった。
俺は地面に膝をついた。さすがに魔力を使い果たした。今日はここまでだ。
シアがすぐに来た。膝をついて俺の顔を覗き込む。
「顔色悪い」
「そうか」
「薬」
「くれ」
シアが瓶を押しつけた。飲んだ。苦い。
「明日、川まで届く」
「届く」シアは頷いた。「今日の速度なら午前中には」
「じゃあ午後に息吹の核を置こう」
「準備してある」
俺はシアを見た。
「昨日の夜から準備してたのか」
「軍議が終わってから」
つまり俺が「取り戻そう」と言った直後から準備していた、ということだ。
「シア」
「なに」
「ありがとう」
シアは顔を背けた。耳が赤かった。
「補佐官の仕事だ」
レナが後ろで「えっかわいい」と言っていた。シアがレナを睨んだ。
―――――
二日目の朝、夜明けと同時に再開した。
昨夜の回復で魔力が戻っていた。宝玉の力のおかげか、回復も以前より速い気がする。
壁を押し出す。息吹が満ちる。草木が戻る。その繰り返し。
午前中に、壁が川の跡まで届いた。
湧き水の川とは規模が全然違った。かつてここを流れていた川は、幅が十メートルほど、深さは大人の腰くらい。今は乾いた溝になっている。底に石が積み重なって、長い間水が流れていなかったことがわかった。
壁が溝を覆った瞬間、息吹が溝の中に満ちていった。
しばらくして、溝の底から水が滲み出してきた。
最初はほんの少しだった。でも少しずつ増えていった。
「水が出てきた」レナが声を上げた。
「息吹の核を置こう」
シアが石を取り出した。川底の中央に固定するための、息吹の核だ。昨日準備していたやつだ。
「カインがやれ。あなたの魔力で固定した方が息吹との親和性が高くなる」
「わかった」
俺は溝に降りた。川底の中央に息吹の核を置いて、封印術で固定する。息吹を込めていく。
石が光った。白と紫の光が、滲み出した水の中で揺れた。
次の瞬間、水量が一気に増えた。
細い流れが、太くなった。石の間から水が溢れ出して、溝を満たしていく。水が流れ始めた。
せせらぎの音が、乾いた大地に響いた。
川が戻ってきた。
周りにいた魔族の兵士たちが、誰も声を出せなかった。
一人が水に手を入れた。
「冷たい……本物の水だ」
声が震えていた。
老兵士が川べりに膝をついた。両手で水を掬って、顔を洗った。そのまま、肩を震わせた。
川沿いの枯れた土が水を吸って、色が変わっていく。茶色から濃い黒へ。そこから小さな緑が顔を出し始めた。
息吹が水に乗って、川の流れに沿って広がっていく。下流に向かって、どこまでも。
グラザードが川を見下ろしていた。
「川が、戻ってきた」
その声が、珍しく掠れていた。
シアが俺の隣に立っていた。川を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
水の音だけが聞こえていた。何十年も枯れていた溝に、今、水が流れている。息吹を含んだ水が光を帯びて、川べりの草を揺らしている。
シアの口元が、わずかに震えた。
「……ムルトゥス様が」
声が小さかった。
「この川の話を、何度もしてくれた。私が小さい頃。夜、眠れないとき」
俺は黙って聞いていた。
「魚がたくさんいたって。子どもたちが泳いで遊んでいたって。水がすごく綺麗で、川底の石が全部見えたって」
シアは川を見たまま、続けた。
「私はそれを聞くのが好きだった。見たことのない景色だけど、ムルトゥス様が話すと、目の前に見えるような気がした」
風が吹いた。川面が揺れた。
「でもいつも最後に、ムルトゥス様は悲しそうな顔をした。もう見せてあげられないな、って」
シアの声が、掠れた。
「私は……ずっと予言書を読んでいた。予言の者が来れば、全部変わると書いてあった。だから待っていた。ムルトゥス様と二人で、ずっと」
その白い頬を、一筋の涙が伝った。
シアは拭おうとしなかった。
「……本当に来た」
もう一筋、涙が落ちた。
「本当に、川が戻った」
俺はシアを見た。
いつもの無表情が、崩れていた。泣いているのに、口元が笑おうとしていた。泣き方がわからないみたいに、顔がぐちゃぐちゃになっていた。
この子は、泣き慣れていないんだ。
「シア」
「うん」
「泣いてるぞ」
「泣いてない」
「泣いてる」
シアは川から目を離さなかった。
「目に、水が入っただけだ」
「川の水はそこまで飛んでこないだろ」
「……うるさい」
声が震えていた。
俺は何も言わずに、シアの隣に立ち続けた。
しばらくして、シアの肩が俺の腕に触れた。少しだけ、寄りかかるように。
俺はそれを受け止めた。押し返さなかった。何も言わなかった。
シアは川を見ていた。涙を拭かないまま。
「……ムルトゥス様に、見せたい」
「見せよう。連れて来よう」
「うん」
その一言が、やっと泣き止んだ後の、最初の言葉だった。
川の音が、静かに広がっていった。
まだ三十分の一しか取り戻せていない。でも川が戻った。息吹が流れ始めた。
大地が、生き返っていく。
―――――
日が傾き始めていた。
本来ならここで切り上げるべきだった。魔力は使い果たしているし、身体も重い。
でも、川が流れているのを見たら、止まれなくなった。
「もう少しだけ広げておく」
「カイン、今日はもう——」
「川の下流側をあと五百メートルだけ。息吹を川に乗せておけば、明日までに自然に定着する」
シアが何か言おうとした。でも俺はもう術式を展開していた。
壁に手を当てる。息吹を引き込む。押し出す。
三百メートル。四百メートル。
五百——
視界が、白くなった。
膝が折れた。地面に手をついた。呼吸が荒い。心臓が変な速さで打っている。指先の感覚がない。
「カイン!」
シアの声が遠くに聞こえた。
目の前が二重に見える。身体の中を何かが逆流しているような感覚。宝玉の力と、自分の魔力と、息吹が、身体の中でぐちゃぐちゃに渦を巻いている。制御できない。
地面に倒れた。
空が見えた。夕焼けだった。
「カイン! カイン!」
シアの顔が上から覗き込んできた。さっきまで泣いていた顔が、今度は青ざめていた。
「動くな。魔力回復薬を——いや、これは魔力切れじゃない」
シアの手が俺の額に触れた。冷たくて、気持ちよかった。
「魔力回路に負荷がかかりすぎている。宝玉の力と自分の魔力が衝突している。角からの取り込みと全身からの取り込みが同時に暴走して——馬鹿。馬鹿。なんでもう少しだけとか言うの」
シアの声が震えていた。怒りなのか、恐怖なのか。
「大丈夫。ちょっと休めば——」
「大丈夫じゃない」シアは俺の胸に手を当てた。「魔力回路が熱を持っている。無理に動いたら回路が焼き切れる可能性がある。今夜は絶対に術式を使うな」
レナが走ってきた。
「カイン! 何があった!」
「魔力回路の過負荷だ」シアがレナに向かって言った。声は平坦に戻っていたが、俺の胸に当てた手だけが震えていた。「運ぶのを手伝って。集落に戻る」
「了解」
レナが俺を担ぎ上げた。軽々と。レナの腕力に助けられるのはこれが初めてだった。
「カイン、重いね」
「今それ言う必要あるか」
「あるよ。反省してほしいから」
レナの声はいつも通りだったが、表情は笑っていなかった。
運ばれながら、俺は空を見ていた。夕焼けが消えかけている。
シアが横を歩いていた。俺の手を握っていた。小さくて冷たい手だった。
握る力が、強かった。
「……ごめん」
「謝るなら二度とやるな」
「やらない」
「嘘。カインは絶対またやる」
「……やらないように努力する」
「努力じゃなくてやるな」
シアの声は怒っていた。でも手は離さなかった。
集落に戻ったとき、ガラが玄関先で待っていた。
「また無茶したか、この馬鹿者」
「すみません」
「すみませんで済んだら薬師はいらん」
ガラはシアを見た。
「シア、手を離さなくていい。魔力回路が安定するまで、誰かの魔力に触れていた方がいい」
シアは何も言わなかった。手を離さなかった。
俺はガラの作業場に運び込まれて、寝台に転がされた。
苦い薬を三種類飲まされた。身体が重い。でも意識ははっきりしていた。
「ガラさん、明日には——」
「三日は術式禁止だ」
「三日!?」
「文句があるなら倒れるな」
ガラは容赦なかった。
シアはまだ手を握っていた。寝台の横に座って、俺の手を膝の上に置いたまま、じっとしていた。
「シア、もう大丈夫だから——」
「黙れ。寝ろ」
俺は黙った。
寝ることにした。
シアの手の温度が、じわりと伝わってきた。
冷たかった手が、少しずつ温かくなっていた。




