■ 第2話「救世主」
天井が、見慣れなかった。
意識が戻って最初に思ったのはそれだった。
石造りのアーチ型の天井。人間の建築とは微妙に違う、なめらかな曲線。燭台の炎が揺れて、壁に影を落としている。
俺は生きていた。
……なんで?
瘴気帯に放り込まれたはずだ。丸太に縛られたまま、霧の中に。焼かれて死ぬはずだった。なのに身体は柔らかい寝台の上にある。手首の枷は外され、縄の痕には包帯が巻かれていた。
身体を起こそうとしたとき、部屋の隅で気配が動いた。
「目が覚めましたか」
その声に、俺は固まった。
―――――
そこにいたのは、若い女だった。
膝の上に薬草の束を広げたまま、静かにこちらを見ている。
顔が、整っていた。
整っている、なんて言葉じゃ全然足りない。月の光を固めたような白い肌。夜を溶かしたような黒髪が肩の上で揺れている。切れ長の瞳は深い紫で、感情を映す水面みたいに澄んでいた。
王都の貴族街を歩かせても、誰もが振り返るような顔だ。
だが。
その頭に、角が生えていた。
額の生え際から少し上、左右に一本ずつ。長さは指二本分ほどで、主張するほど大きくはない。根元は黒く、先端に向かって深い紫に変わっていく。髪の中に半ば隠れていて、言われなければ見落とすくらいだ。
魔族だ。
頭ではわかってる。でも。
王国の教会が教えてきた「魔族」の姿がある。異形の怪物。醜く歪んだ、光の神に見捨てられた存在。
目の前にいるのは、そのどれでもなかった。
角さえなければ、完全に人間だ。
「……魔族、か」
声に出したら、彼女は静かに頷いた。
「ルナリアといいます。あなたを運んだのは私たちです」
声も普通だった。人間と変わらない言葉で、人間と変わらない声で。
……言葉が出なかった。
―――――
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは男だった。
背が高い。俺より頭一つ分は上か。広い肩幅に濃紺の軍服。歳は四十前後、顎に短い髭を蓄えて、目元に深い皺が刻まれている。
その顔も、整っていた。彫りが深く、鋭い目の下に通った鼻筋。無駄を全部削ぎ落とした、武人の顔だ。
角は二本。ルナリアのものより太く、根元から先端まで黒一色で、わずかに前方に湾曲している。
「目が覚めたか」
低い、感情の読みにくい声。
「グラザード。魔族軍の総司令だ。現在この領を統括している」
椅子を引いて腰を下ろし、値踏みするような目を俺に向けた。
「聞かせてもらいたい。なぜ人間が、息吹帯の中を生きていた」
息吹帯。人間側では瘴気帯と呼ばれている場所のことだろう。魔族には別の呼び方があるらしい。
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「わからない」
「わからない、とは」
「焼かれる覚悟はしていた。でも焼かれなかった。瘴気が温かくて、むしろ自分の魔力に馴染んでいくような感覚があった。理由は俺にも説明できない」
グラザードはしばらく俺を見ていた。
「王国から追放されたというのは本当か」
「本当だ」
「理由は」
「魔族に内通しているという、でたらめな罪をかぶせられた」
「でたらめと言い切れる根拠は」
「魔族と接触したのは、今が初めてだ。瘴気帯に投げ込まれて、お前たちに拾われるまで、魔族と話したことは一度もない」
グラザードは長い沈黙の後、立ち上がった。
「……長老を呼ぶ」
ルナリアが小さく息をついた。それが何を意味するのか、俺にはまだわからなかった。
―――――
長老は、思っていたより小さかった。
腰が曲がり、杖をついている。顔中に深い皺。角は根元から先端まで白く変色していた。
だがその目だけが違った。濁りのない、深い金色の瞳。
老人はゆっくりと俺に近づいてきた。一歩、また一歩。寝台の縁まで来て、皺だらけの手を伸ばし——俺の額に指先を触れさせた。
次の瞬間、老人の目から涙が落ちた。
「……来た」
掠れた声だった。
「来てくれた。百年、待っていた」
部屋が静まり返った。
「ムルトゥス殿、それは」グラザードが声をかける。
「予言だ」
ムルトゥスはグラザードを振り返った。涙を拭おうともせず。
「先代魔王陛下が残された言葉。『人の身でありながら我らの力と交わる者が現れる。その者が魔族を導き、偽りの光を砕く』——その者が、この人間だ」
「確かなのですか」
「この手で確かめた。魔力の質が違う。人間のものでありながら、息吹と共鳴している。このような者が人間の中に現れたことは、かつて一度もない」
息吹。またその言葉だ。さっきグラザードも「息吹帯」と言っていた。
「息吹……ですか」
ムルトゥスは俺の顔を見て、何かを察したようだった。
「人間は瘴気と呼んでおろう。呪われた毒の霧だと。だが我々にとっては違う。あれは霊脈の息吹——大地から湧き出る恵みだ。人間にとっての毒が、我々にとっては命の源になる」
息吹。瘴気ではなく、息吹。
なるほど。同じものを、人間と魔族はまるで違う名前で呼んでいるのか。
ムルトゥスはもう一度俺を見た。
「あなたの名は」
「カイン。カイン・アーヴェルだ」
「カイン殿」老人は深く頭を下げた。「あなたをお迎えできたことを、心より感謝します。どうか、この疲弊した民に、希望をもたらしてください」
俺は黙っていた。
百年前の予言に選ばれた存在、か。
正直、全然ピンとこない。ついさっきまで糞尿をかぶって丸太に縛られてた男が、だぞ。
でも。
ルナリアを見た。グラザードを見た。ムルトゥスを見た。
この三人の顔に、パーティーの連中が俺に向けていたものは、何一つなかった。
計算も、侮蔑も、演技も、ない。
ただ、縋るような真剣な目があるだけだった。
「……俺に、何をしてほしい」
ムルトゥスが顔を上げた。グラザードの眉が、初めてわずかに緩んだ。
―――――
その夜、俺は一人で天井を見ていた。
魔族を導く者。偽りの光を砕く者。
まあ、やるしかないか。
帰る場所はない。信じていた仲間は全員敵だった。王国は俺を殺そうとした。
だったら。
アルベルトの顔が浮かんだ。ザックの嘘泣きが浮かんだ。ダイゴの「足手まとい」が浮かんだ。エレナの計算の目が浮かんだ。
胸の奥で、冷たい火が灯った。
――ここで、やってやる。




