■ 第19話「魔王」
朝の訓練が終わった後、シアと二人で術式書を見ていた。
広場の端、いつもの場所に並んで座っている。
「ここの紋様の展開順、変えた方が速くなると思う」シアが術式書を指差した。「今は左から右だけど、中央から外側に向けて展開すると息吹の取り込みが均一になる」
「なるほど。試してみる」
「……あと」シアはちらっと俺を見た。「昨日の訓練、見てた」
「どのへん」
「レナと走り合ってたところ。あのスピード、また速くなってた」
「息吹の核のおかげかな」
「……うん」シアは術式書に目を落とした。「格好よかった、けど」
「けど?」
「……なんでもない」
シアは耳を赤くして、術式書をめくった。
そこにレナが走ってきた。
「カイン! シアちゃん! 軍議の招集だって!」
シアはすっと表情を戻した。いつもの無表情に。
「わかった」
俺はその切り替わりを横目で見た。
二人のときと、人が来たときのシア。毎回はっきり違う。
レナは俺の隣に割り込んで腕を絡めてきた。
「一緒に行こー」
「離れてくれ」
「えー」
シアがレナを横目で見た。無言で、静かに、でも明らかに視線が冷たかった。
レナは気づいていなかった。
俺はこっそり息を吐いた。
―――――
軍議の間に入ると、いつもより人数が多かった。
円卓に将たちが座り、その後ろに補佐の者たちが並んでいた。グラザードが上座に立っていた。ムルトゥスも来ていた。
全員が俺を見た。
グラザードが口を開いた。
「今日の軍議は一点だ。次期魔王の推挙について」
室内が静まった。
「数日前、集落の民からカイン・アーヴェル殿を次期魔王に推挙する声が上がった。以降、各地の駐屯地からも同様の声が届いている。今日はこれを正式に議題とする」
老将が立ち上がった。
「将一同を代表して申し上げる。カイン・アーヴェル殿は、来てから今日まで、我々が百年間できなかったことを成し遂げてきた。北、東、南の壁。土地の回復。息吹の核。そして民の希望を取り戻してくださった」
老将は俺を見た。
「人間であることは関係ない。予言が示した通り、あなたは我らの力と交わる者だ。我々将一同、カイン・アーヴェル殿を次期魔王として推挙する」
グラザードが全員を見渡した。
「異論のある者は」
沈黙。
誰も立たなかった。
「賛成の者は」
全員が、同時に立ち上がった。
満場一致だった。
グラザードが俺を見た。
「カイン・アーヴェル。受けるか」
俺は一拍置いた。
昨夜、息吹の核の前で考えた。答えは出ていた。
「受けます」
室内がどよめいた。将たちが頭を下げた。ムルトゥスが目を閉じて、唇を動かした。
グラザードは静かに頷いた。
「よかった」
その一言だけだった。でも、それで十分だった。
―――――
その日の夕方、正式な声明が出された。
広場に集落の全員が集まった。
グラザードが高台に立って、声を張り上げた。
「本日より、カイン・アーヴェルを魔族の新たな王として認める。予言の救世主にして、我らの魔王だ」
広場が揺れた。
歓声が上がった。角を持つ者たちが一斉に声を出した。子どもたちが跳び上がった。テオが俺に飛びついてきた。
「カインが魔王だ!!」
「そうなったな」
「すごい!!魔王様!!」
「テオはカインでいいよ」
「えー! 魔王様って呼びたい!」
レナが俺の肩を叩いた。
「魔王様かー。似合うじゃん」
「まだ慣れない」
「慣れろよ」レナはにやっとした。「じゃあ私は救世主様って呼ぼうかな」
「どっちでもやめてくれ」
周りから「魔王様」「救世主様」という声がどんどん上がってきた。
俺は苦笑いしながら、人混みの中でシアを探した。
―――――
シアは広場の端に立っていた。
人混みから少し離れた場所で、歓声を眺めていた。
俺が近づくと、シアが振り返った。
「おめでとう」
いつもの口調だった。でも目が笑っていた。
「ありがとう」
「魔王様って呼んだ方がいいか」
「シアはカインでいい」
シアは少し黙った。
「……うん、カインがいい」
柔らかい声だった。
俺は少し迷ってから、言った。
「シア、一つ謝らないといけないことがある」
「何」
「補佐官の人事を、相談せずに決めた。魔王補佐官に、シアを推挙した」
シアは少し固まった。
「……私を?」
「シアが一番適任だと思った。術式の知識も、予言の理解も、俺の戦い方を一番わかってる。でも勝手に決めてしまった。嫌だったら断っていい」
シアは黙っていた。
俺は続けた。
「本当に、相談なしに決めてしまってごめん」
シアはまだ黙っていた。
俺が何か言いかけたとき、シアが動いた。
一歩踏み出して、俺の胸に飛び込んできた。
小柄なシアの顔が、俺の胸元に埋まった。細い腕が、俺の外套をぎゅっと掴んだ。
俺は驚いて、固まった。
「……シア?」
答えはなかった。
でも、シアの肩が小さく震えていた。
しばらくして、くぐもった声が聞こえた。
「……嬉しい」
「え」
「嬉しいって言った」シアの声が、少し震えていた。「カインが、私を選んでくれた。ありがとう」
俺はシアの背中を見た。
白い装束に、真白の髪。小柄な身体が、俺の胸元にすっぽり収まっていた。
なんか、胸が温かかった。
「ありがとうはこっちの言葉だよ。頼りにしてる」
シアは答えなかった。
でも、外套を掴む手が、少し強くなった気がした。
しばらくして、シアがそっと離れた。
顔が真っ赤だった。目元が濡れていた。それを隠すみたいに、さっと顔を背けた。
「……補佐官として、全力でやる」
「頼む」
「……絶対に、カインの役に立つ」
その声が、いつもより少し強かった。
俺は笑った。
「知ってる」
シアはまだ顔を背けていた。でも耳が真っ赤なのは、遠目からでもわかった。
―――――
そのとき、レナが走ってきた。
「二人でなんの話してたの!」
「補佐官の話だ」
「シアちゃん顔赤くない?」
「赤くない」
「めちゃくちゃ赤いじゃん」
「うるさい」
シアはいつもの口調に戻っていた。でもまだ耳が赤かった。
レナが俺を見た。
「魔王様、シアちゃんのこと大切にしてあげてよ」
「する」
答えたら、レナが「えっ」という顔をした。
「即答した」
「何がおかしいんだ」
「いや……カインが素直に言うとは思わなくて」
レナはしばらく俺を見て、それからシアを見た。シアは前を向いていた。耳がまた少し赤くなっていた。
レナは笑った。
「いい魔王になりそう」
広場では、まだ歓声が続いていた。
息吹の核が、白と紫の光で静かに脈打っていた。
俺は魔王になった。
なんか、まだ実感がない。でも。
隣にシアがいた。
それで、十分な気がした。




