■ 第18話「推挙」
息吹の核を置いた翌日から、集落が変わった。
変わり方が、想像以上だった。
朝、広場に出ると、ガラが俺を手招きした。薬師の作業場に入ると、老婆は自分の手を俺に見せた。
「見ろ」
指先まで、しっかり伸びていた。
「昨日まで、朝は指が曲がらなかった。長年の古傷でな。それが今朝、起きたら普通に動いた」
ガラは手を握って、開いた。また握った。
「七十年ぶりだ、こんなに動いたのは」
……言葉が出てこなかった。
「お前さんのおかげだ」
「息吹の核のおかげだよ」
「同じことだ」
ガラは鍋に薬草を放り込んだ。いつもより動きが速かった。
―――――
広場では、建設作業をしていた男たちが騒いでいた。
近づいてみると、一人の男が木材を抱えて走っていた。長さ三メートル、太さ三十センチはある丸太を、一人で軽々と担いでいた。
「昨日まで三人がかりだったのに!」
男が笑いながら叫んだ。
周りにいた魔族たちが、次々と木材を持ち上げ始めた。重い石を一人で運ぶ者、昨日まで二人がかりだった柱を片手で持つ者。
「三倍は軽くなってる!」
「息吹がこんなに濃いと、こんなに違うのか!」
あちこちで驚きの声が上がっていた。
老いた魔族の男が、広場の端で深呼吸をしていた。俺が近づくと、男は俺を見て頭を下げた。
「救世主様」
「どうですか」
「腰が、痛くない」男の声が震えていた。「十年間、朝起きるたびに腰が痛かった。それが今朝は何ともない」
男の目が濡れていた。
何も返せなかった。ただ頷いた。
―――――
訓練場では、もっとすごいことになっていた。
レナが俺を見て、目を丸くした。
「カイン、なんか雰囲気違う」
「そうか?」
「なんか、オーラが違う」
俺自身も感じていた。朝起きた瞬間から、身体が違った。魔力が溢れる感覚がある。頭が冴えている。視野が広い。周りの全部がはっきり見える。
「やってみよう」
レナが剣を抜いた。踏み込んできた。
俺はその動きが、はっきり見えた。
昨日までとは全然違う。レナの足の踏み込み、剣の角度、次の動きの予測。全部が、スローモーションみたいに見えた。
封印術を展開した。レナの剣が弾かれた。
レナが「っ!」と声を上げて、もう一度踏み込んできた。今度は速い。本気の速さだ。
それでも、見えた。
結界を張った。レナの剣が止まった。俺は隙をついて封印術を放った。レナが横に飛んで避けた。着地した瞬間に次の術式。
レナが剣を収めた。
息が切れていた。レナの息が。
「……カイン、今何割で動いた」
「六割くらいかな」
「六割で私がこんなに息切れするの、初めてだ」
レナは俺を見た。真剣な目だった。
「カイン、本当に強くなった。もう私じゃ全然相手にならない」
「レナが弱くなったわけじゃないぞ」
「わかってる。カインが強くなりすぎた」レナは腕を組んだ。「この集落で、将軍以外に勝てるやつ、本当にいないんじゃないかな。もしかしたら将軍にも」
「それはさすがにない」
「どうかな」
その声に、冗談の色がなかった。
―――――
昼過ぎ、シアと訓練の振り返りをしていた。
広場の端に並んで座って、術式書を開いていた。
「今日の封印術、昨日より展開が速かった」シアが言った。
「息吹の核のせいだと思う。魔力量が増えた感覚がある」
「……どれくらい増えた?」
「感覚的には、倍以上かな」
シアは少し黙った。
「……すごい」
「シアも変化あったか」
「……うん」シアは自分の手を見た。「術式の精度が上がった。今まで微妙にずれていたところが、ぴたっと合う感じがする」
「それは助かる。俺の術式の誘導、もっと細かくできそうだな」
「……できる」シアはちらっと俺を見た。「カインが強くなるの、なんか嬉しい」
「ありがとう」
「……べつに」
シアは術式書に目を落とした。でも口元が緩んでいた。
俺はその横顔を見た。
白い肌に昼の光が当たって、銀色の瞳が術式書の文字を追っている。小さな白い角が、日差しを受けてわずかに光っていた。
なんか、良い光景だな、と思った。
また思ってしまった。
―――――
夕方、広場を歩いていると、声をかけられた。
建設作業をしていた男たちの一人だった。朝、丸太を一人で担いでいた男だ。
「救世主様、少しよろしいですか」
「どうぞ」
男は少し緊張した様子で、俺を見た。
「俺一人の言葉じゃないんです。みんなで話し合って、それで」
「何を」
男は深く息を吸った。
「救世主様に、次の魔王になっていただきたい」
俺は固まった。
「俺が?」
「壁を作っていただいた。土地を取り戻していただいた。息吹の核を置いていただいた。百年間できなかったことを、救世主様は来てからずっとやり続けてくださっている」
男の後ろに、いつの間にか人が集まっていた。建設中の家から出てきた者、市場から来た者、子どもを連れた母親。みんながこちらを見ていた。
「俺たちには、救世主様しかいないと思っています」
男が頭を下げた。
後ろの人たちも、一斉に頭を下げた。
俺はしばらく、その光景を見ていた。
魔王。
その言葉の重さが、じわりと胸に落ちてきた。
「……少し、考えさせてくれ」
男が顔を上げた。その目が、真剣だった。
「もちろんです。ただ、俺たちの気持ちだけ、受け取ってほしかった」
俺は頷いた。
―――――
夜、一人で息吹の核の前に立った。
白と紫の光が、静かに脈打っていた。
息吹が満ちている。温かい。
魔王、か。
俺は人間だ。魔族の王になる、というのは——でも、ここで戦うと決めた。ここが居場所だと決めた。
シアの「カインがいるから取り戻せると思ってる」という言葉が浮かんだ。テオの「かっこよかった」が浮かんだ。グラザードの「感謝する」が浮かんだ。ムルトゥスの「百年間、信じ続けてよかった」が浮かんだ。
俺はゆっくりと息を吐いた。
答えは、もう出ていた気がした。




