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ヴェルデ・碧の力 —パーティー全員に嵌められ魔族領に捨てられた俺、封印術が覚醒してなぜか魔族に救世主と崇められる—  作者: はやんえでぃ
第3章

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■ 第17話「息吹」

 朝、集落の外れを歩いていると、奇跡の壁の周辺がいつもと違って見えた。


 草が、青かった。


 壁から二百メートルほどの範囲、地面が全部緑に覆われていた。昨日まで枯れていた土地が、一晩で息を吹き返したみたいだった。木々の葉が濃くなって、地面を這う草が艶々と光っている。


 テオが横に来て、草を踏みしめた。


「ふかふかだ!」


「昨日までここ枯れてたよな」


「うん! でも今日起きたらこうなってた! すごくない!?」


 俺はしゃがんで地面に手を触れた。湿り気がある。土が温かかった。


 白銀の髪を風が撫でた。息吹の濃さが違う。魔族が霊脈の息吹——人間側が瘴気と呼ぶもの——と呼ぶ大地の恵みが、壁に近づくほど肌で感じられた。


―――――


 ムルトゥスに呼ばれたのは、その日の午後だった。


 老人は俺を部屋の奥に招いて、椅子に座らせた。自分も杖をつきながら向かいに座った。金色の瞳が、静かに俺を見た。


「壁の周辺の草木に気づいたか」


「今朝気づきました。息吹が濃くなっているんですか」


「そうだ」ムルトゥスは頷いた。「奇跡の壁は息吹を固定する。固定された息吹が周囲に満ちて、大地が応える。本来の魔族領はああいう土地だった」


「本来は、ということは」


「今から話す」


 ムルトゥスは少し間を置いた。


「カイン殿、息吹とは何かを知っているか」


「魔族の方々が息吹と呼んでいるもの——人間側が瘴気と呼んでいるものですよね。大地から湧き出る霊脈の恵み、魔族の角が取り込んで魔力に変える」


「よく理解している」ムルトゥスは頷いた。「息吹は大地から湧き出る。その大地が豊かであればあるほど、息吹は濃くなる。草木が茂り、水が流れ、命が育つ土地ほど、息吹が満ちる。魔族はその息吹を角で取り込んで生きている。だから豊かな大地に住む魔族ほど、力が強い」


「王国はそれを知っていた」


「知っていた」ムルトゥスの声が、静かに重くなった。「百年前、先代魔王が倒れた後、王国は軍を送り込んだ。戦うためだけじゃない。大地を枯らすためだ」


 俺は黙って聞いた。


「草木を焼いた。川を塞いだ。土を踏み荒らした。肥沃だった魔族領の大地を、意図的に荒野に変えていった。大地が枯れれば息吹が薄くなる。息吹が薄くなれば魔族の力が落ちる。力が落ちれば、抵抗できなくなる」


 ムルトゥスは窓の外を見た。


「百年間、我々はそうやって弱らされてきた。土地を奪われただけじゃない。息吹を奪われてきた」


 俺は地面を見た。


 奪われた土地が三十分の一まで削られた理由が、今初めてはっきりわかった気がした。戦って負けたんじゃない。大地ごと、命ごと、削られてきたんだ。


「……だから奇跡の壁が、土地を取り戻すだけじゃなくて」


「息吹も取り戻す」ムルトゥスは俺を見た。「壁が通った場所に草木が戻り、息吹が満ちる。魔族の力が戻る。あの壁は、土地を守るだけじゃない。我々の命そのものを取り戻している」


 老人の金色の瞳が、静かに濡れていた。


「カイン殿。あなたが作ったものの意味が、わかるか」


 ……頷くことしかできなかった。


―――――


 部屋を出ると、廊下にシアが立っていた。


「待っていたのか」


「……通りかかっただけ」


「この廊下は宿舎と全然」


「通りかかっただけ」


 シアは繰り返した。俺は笑った。


「ムルトゥス様に息吹の話を聞いた」


 シアは少し黙った。それから、俺の隣に並んで歩き始めた。


「……知ってた?」


「大体は。小さい頃からムルトゥス様に教わってきたから」


「そうか。じゃあずっと知ってたんだな、王国がやってきたことを」


「……うん」


 シアの声が少し低くなった。


「小さい頃、集落の外れまで行ったことがある。そこから見える土地が全部枯れてた。草一本ない、灰色の大地。ムルトゥス様が言った。昔はここまで緑だったって」


 俺はシアを見た。シアは前を向いていた。


「あのとき、悔しかった。取り戻せないと思ってた」


「今は?」


 シアはちらっと俺を見た。


「……取り戻せると思ってる」シアは少し間を置いた。「カインがいるから」


 俺は何も言えなかった。


 シアは前を向いて歩き続けた。


「……壁が通ったあとの草木、きれいだよね」


「きれいだな」


「緑が戻るの、好き」シアは小さく言った。「なんか、生きてるって感じがして」


 その言葉が、静かに胸に落ちた。


―――――


 夕方、グラザードと壁の周辺を歩いた。


 二百メートルの範囲、草木が青々としていた。足元が柔らかい。息吹が濃いのが、肌でわかる。


「人間側は近づけなくなっています」グラザードが言った。「偵察の報告では、壁から三百メートルの地点で息吹が濃くなりすぎて、兵士が苦しみ始めるそうだ」


「壁を広げるほど、その範囲も広がっていく」


「そうなる」グラザードは草を踏みしめた。「カイン、一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「なぜ、そこまでやる。お前は人間だ。魔族のために命を削る必要はない」


 俺は少し考えた。


 アルベルトのことを思い出した。ザックのことも。丸太に縛られて、霧の中に投げ込まれたあの日のことも。


 でも今、頭に浮かんでいるのはそれじゃなかった。


 テオが草の上を走り回っていた光景。シアが「生きてるって感じがして」と言った声。南の駐屯地で泣いていた兵士の肩。ルナリアが壁を見て涙を流していた顔。


「守りたいものがここにあるから、です」


 グラザードは俺を見た。


「それだけか」


「それだけで十分じゃないですか」


 グラザードはしばらく黙って、草の上に立っていた。


「……そうだな」


 静かに言った。


「百年間、我々は誰かに守ってもらうということを忘れていた。それをお前が思い出させてくれた」


 グラザードは壁を見た。白と紫の光が、夕日の中で輝いていた。


「感謝する、カイン」


 グラザードが俺に直接礼を言ったのは、初めてだった。


 俺は頷いた。


「俺こそ、ここに拾ってもらいました。ありがとうございます」


 グラザードは何も言わなかった。


 ただ、壁を見ていた。


 その横顔が、いつもより少し柔らかかった。


―――――


 夜、集落の外れに一人で出た。


 壁の周辺の草が、月明かりに照らされて光っていた。昼とは違う、静かな緑だった。


 息吹が満ちている。温かい。馴染む。


 俺は手を伸ばした。掌に息吹が集まってくる。紫の光が、指の間から漏れた。


 王国が百年かけて奪ったものを、取り戻していく。


 まだ三十分の一しか戻っていない。でも、始まった。


 俺はゆっくりと拳を握った。


 やることは、決まっていた。


―――――


 翌朝、俺は広場の中央に立った。


 シアが横にいた。グラザードも、ムルトゥスも、レナも、テオも、集落の人たちも、みんなが周りに集まっていた。


「何をするんだ」とレナが聞いた。


「息吹を集落全体に満たす。壁と同じ仕組みで、広場の中央に息吹を固定するオブジェを作る」


「オブジェ?」


「壁みたいなもの。でも防衛じゃなくて、息吹を湧き出させるためのものだ」


 レナは首を傾げた。シアが補足した。


「息吹の核を作る。大地から湧き出る息吹を一点に集めて固定すれば、そこから永続的に息吹が満ちていく。集落全体が常に濃い息吹の中で生活できるようになる」


「……つまり?」


「みんなの力が、常に最大に近い状態になる」


 レナの目が輝いた。


「それすごくない!?」


「やってみないとわからないけどな」


 俺は地面に向かって術式を展開した。封印術の紋様を地面に刻んでいく。壁を張るときとは違う、内側に向かって収束する紋様だ。同時に息吹を引き込む。集める。固定する。


 魔力が一気に削られた。


「シア、薬」


 シアが即座に瓶を押しつけた。飲んだ。続ける。


 紋様が地面に刻まれていく。息吹が集まってくる。温かい。いつもより濃い。大地の奥から、どんどん湧き出てくる感覚があった。


 そのとき、地面から光が漏れた。


 白と紫の光が、地面の紋様に沿って走った。光が収束して、広場の中央に柱のように立ち上がった。


 高さは俺の腰くらい。形は壁の光を凝縮したような、小さな光の塊。


 白と紫の光が、静かに脈打っていた。


 息吹が、そこから溢れ出してきた。


 温かい霧が、広場全体に広がっていく。足元から、じわじわと満ちてくる。


 集まっていた魔族たちが、静かに息を飲んだ。


 老いた魔族の男が、両手を広げた。目を閉じて、息吹を全身で受け止めるみたいに立っていた。


「……体が、軽い」


 掠れた声だった。


 その一言で、周囲がざわめいた。


「本当だ、力が入る」


「息吹がこんなに濃いの、初めてだ」


「角が、温かい」


 あちこちから声が上がった。子どもたちが笑い声を上げた。テオが光の塊に駆け寄って、手を伸ばした。指先に光が触れて、紫の光が弾けた。


「わあ!」


 テオが振り返って俺を見た。目が輝いていた。


「カイン! すごい! 角が温かくなった!」


「そうか。よかった」


 俺は地面に膝をついた。かなり魔力を使った。でも、悪くない消耗だった。


 シアがすぐに来た。膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。


「顔色悪い」


「そうか」


「薬、最後の一本」


「くれ」


 シアは瓶を渡しながら、光の塊を見た。


「……きれい」


 その声が、柔らかかった。


「気に入ったか」


「……うん」シアは少し間を置いた。「ここに住んでてよかったって、初めて思った」


 俺はシアを見た。


 シアは光を見ていた。白と紫の光が、シアの白い肌と銀色の瞳に映っていた。


 その顔が、静かに笑っていた。


 グラザードが俺の横に立った。光の塊を見上げて、しばらく黙っていた。


「名前をつけよう」


「何てつけますか」


「息吹の核、でいい」グラザードは静かに言った。「シンプルな方が、長く呼ばれる」


 息吹の核。


 広場の中央で、白と紫の光が静かに脈打っていた。


 集落の全員が、その周りに集まっていた。笑い声と、泣き声と、驚きの声が混ざり合っていた。


 ムルトゥスが俺の前に来た。深く頭を下げた。


「カイン殿。予言は本当だった」


 老人の声が震えていた。


「百年間、信じ続けてよかった」


 俺は何も言えなかった。


 ただ、広場を見た。


 笑っている人たちがいた。泣いている人たちがいた。角を両手で押さえて、息吹の濃さに目を閉じている老人がいた。テオが光の周りを走り回っていた。レナが「すごい!すごい!」と叫んでいた。シアが光をじっと見ていた。


 これが、俺が守りたかったものだ。


 俺はそう思った。

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