■ 第17話「息吹」
朝、集落の外れを歩いていると、奇跡の壁の周辺がいつもと違って見えた。
草が、青かった。
壁から二百メートルほどの範囲、地面が全部緑に覆われていた。昨日まで枯れていた土地が、一晩で息を吹き返したみたいだった。木々の葉が濃くなって、地面を這う草が艶々と光っている。
テオが横に来て、草を踏みしめた。
「ふかふかだ!」
「昨日までここ枯れてたよな」
「うん! でも今日起きたらこうなってた! すごくない!?」
俺はしゃがんで地面に手を触れた。湿り気がある。土が温かかった。
白銀の髪を風が撫でた。息吹の濃さが違う。魔族が霊脈の息吹——人間側が瘴気と呼ぶもの——と呼ぶ大地の恵みが、壁に近づくほど肌で感じられた。
―――――
ムルトゥスに呼ばれたのは、その日の午後だった。
老人は俺を部屋の奥に招いて、椅子に座らせた。自分も杖をつきながら向かいに座った。金色の瞳が、静かに俺を見た。
「壁の周辺の草木に気づいたか」
「今朝気づきました。息吹が濃くなっているんですか」
「そうだ」ムルトゥスは頷いた。「奇跡の壁は息吹を固定する。固定された息吹が周囲に満ちて、大地が応える。本来の魔族領はああいう土地だった」
「本来は、ということは」
「今から話す」
ムルトゥスは少し間を置いた。
「カイン殿、息吹とは何かを知っているか」
「魔族の方々が息吹と呼んでいるもの——人間側が瘴気と呼んでいるものですよね。大地から湧き出る霊脈の恵み、魔族の角が取り込んで魔力に変える」
「よく理解している」ムルトゥスは頷いた。「息吹は大地から湧き出る。その大地が豊かであればあるほど、息吹は濃くなる。草木が茂り、水が流れ、命が育つ土地ほど、息吹が満ちる。魔族はその息吹を角で取り込んで生きている。だから豊かな大地に住む魔族ほど、力が強い」
「王国はそれを知っていた」
「知っていた」ムルトゥスの声が、静かに重くなった。「百年前、先代魔王が倒れた後、王国は軍を送り込んだ。戦うためだけじゃない。大地を枯らすためだ」
俺は黙って聞いた。
「草木を焼いた。川を塞いだ。土を踏み荒らした。肥沃だった魔族領の大地を、意図的に荒野に変えていった。大地が枯れれば息吹が薄くなる。息吹が薄くなれば魔族の力が落ちる。力が落ちれば、抵抗できなくなる」
ムルトゥスは窓の外を見た。
「百年間、我々はそうやって弱らされてきた。土地を奪われただけじゃない。息吹を奪われてきた」
俺は地面を見た。
奪われた土地が三十分の一まで削られた理由が、今初めてはっきりわかった気がした。戦って負けたんじゃない。大地ごと、命ごと、削られてきたんだ。
「……だから奇跡の壁が、土地を取り戻すだけじゃなくて」
「息吹も取り戻す」ムルトゥスは俺を見た。「壁が通った場所に草木が戻り、息吹が満ちる。魔族の力が戻る。あの壁は、土地を守るだけじゃない。我々の命そのものを取り戻している」
老人の金色の瞳が、静かに濡れていた。
「カイン殿。あなたが作ったものの意味が、わかるか」
……頷くことしかできなかった。
―――――
部屋を出ると、廊下にシアが立っていた。
「待っていたのか」
「……通りかかっただけ」
「この廊下は宿舎と全然」
「通りかかっただけ」
シアは繰り返した。俺は笑った。
「ムルトゥス様に息吹の話を聞いた」
シアは少し黙った。それから、俺の隣に並んで歩き始めた。
「……知ってた?」
「大体は。小さい頃からムルトゥス様に教わってきたから」
「そうか。じゃあずっと知ってたんだな、王国がやってきたことを」
「……うん」
シアの声が少し低くなった。
「小さい頃、集落の外れまで行ったことがある。そこから見える土地が全部枯れてた。草一本ない、灰色の大地。ムルトゥス様が言った。昔はここまで緑だったって」
俺はシアを見た。シアは前を向いていた。
「あのとき、悔しかった。取り戻せないと思ってた」
「今は?」
シアはちらっと俺を見た。
「……取り戻せると思ってる」シアは少し間を置いた。「カインがいるから」
俺は何も言えなかった。
シアは前を向いて歩き続けた。
「……壁が通ったあとの草木、きれいだよね」
「きれいだな」
「緑が戻るの、好き」シアは小さく言った。「なんか、生きてるって感じがして」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
―――――
夕方、グラザードと壁の周辺を歩いた。
二百メートルの範囲、草木が青々としていた。足元が柔らかい。息吹が濃いのが、肌でわかる。
「人間側は近づけなくなっています」グラザードが言った。「偵察の報告では、壁から三百メートルの地点で息吹が濃くなりすぎて、兵士が苦しみ始めるそうだ」
「壁を広げるほど、その範囲も広がっていく」
「そうなる」グラザードは草を踏みしめた。「カイン、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜ、そこまでやる。お前は人間だ。魔族のために命を削る必要はない」
俺は少し考えた。
アルベルトのことを思い出した。ザックのことも。丸太に縛られて、霧の中に投げ込まれたあの日のことも。
でも今、頭に浮かんでいるのはそれじゃなかった。
テオが草の上を走り回っていた光景。シアが「生きてるって感じがして」と言った声。南の駐屯地で泣いていた兵士の肩。ルナリアが壁を見て涙を流していた顔。
「守りたいものがここにあるから、です」
グラザードは俺を見た。
「それだけか」
「それだけで十分じゃないですか」
グラザードはしばらく黙って、草の上に立っていた。
「……そうだな」
静かに言った。
「百年間、我々は誰かに守ってもらうということを忘れていた。それをお前が思い出させてくれた」
グラザードは壁を見た。白と紫の光が、夕日の中で輝いていた。
「感謝する、カイン」
グラザードが俺に直接礼を言ったのは、初めてだった。
俺は頷いた。
「俺こそ、ここに拾ってもらいました。ありがとうございます」
グラザードは何も言わなかった。
ただ、壁を見ていた。
その横顔が、いつもより少し柔らかかった。
―――――
夜、集落の外れに一人で出た。
壁の周辺の草が、月明かりに照らされて光っていた。昼とは違う、静かな緑だった。
息吹が満ちている。温かい。馴染む。
俺は手を伸ばした。掌に息吹が集まってくる。紫の光が、指の間から漏れた。
王国が百年かけて奪ったものを、取り戻していく。
まだ三十分の一しか戻っていない。でも、始まった。
俺はゆっくりと拳を握った。
やることは、決まっていた。
―――――
翌朝、俺は広場の中央に立った。
シアが横にいた。グラザードも、ムルトゥスも、レナも、テオも、集落の人たちも、みんなが周りに集まっていた。
「何をするんだ」とレナが聞いた。
「息吹を集落全体に満たす。壁と同じ仕組みで、広場の中央に息吹を固定するオブジェを作る」
「オブジェ?」
「壁みたいなもの。でも防衛じゃなくて、息吹を湧き出させるためのものだ」
レナは首を傾げた。シアが補足した。
「息吹の核を作る。大地から湧き出る息吹を一点に集めて固定すれば、そこから永続的に息吹が満ちていく。集落全体が常に濃い息吹の中で生活できるようになる」
「……つまり?」
「みんなの力が、常に最大に近い状態になる」
レナの目が輝いた。
「それすごくない!?」
「やってみないとわからないけどな」
俺は地面に向かって術式を展開した。封印術の紋様を地面に刻んでいく。壁を張るときとは違う、内側に向かって収束する紋様だ。同時に息吹を引き込む。集める。固定する。
魔力が一気に削られた。
「シア、薬」
シアが即座に瓶を押しつけた。飲んだ。続ける。
紋様が地面に刻まれていく。息吹が集まってくる。温かい。いつもより濃い。大地の奥から、どんどん湧き出てくる感覚があった。
そのとき、地面から光が漏れた。
白と紫の光が、地面の紋様に沿って走った。光が収束して、広場の中央に柱のように立ち上がった。
高さは俺の腰くらい。形は壁の光を凝縮したような、小さな光の塊。
白と紫の光が、静かに脈打っていた。
息吹が、そこから溢れ出してきた。
温かい霧が、広場全体に広がっていく。足元から、じわじわと満ちてくる。
集まっていた魔族たちが、静かに息を飲んだ。
老いた魔族の男が、両手を広げた。目を閉じて、息吹を全身で受け止めるみたいに立っていた。
「……体が、軽い」
掠れた声だった。
その一言で、周囲がざわめいた。
「本当だ、力が入る」
「息吹がこんなに濃いの、初めてだ」
「角が、温かい」
あちこちから声が上がった。子どもたちが笑い声を上げた。テオが光の塊に駆け寄って、手を伸ばした。指先に光が触れて、紫の光が弾けた。
「わあ!」
テオが振り返って俺を見た。目が輝いていた。
「カイン! すごい! 角が温かくなった!」
「そうか。よかった」
俺は地面に膝をついた。かなり魔力を使った。でも、悪くない消耗だった。
シアがすぐに来た。膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。
「顔色悪い」
「そうか」
「薬、最後の一本」
「くれ」
シアは瓶を渡しながら、光の塊を見た。
「……きれい」
その声が、柔らかかった。
「気に入ったか」
「……うん」シアは少し間を置いた。「ここに住んでてよかったって、初めて思った」
俺はシアを見た。
シアは光を見ていた。白と紫の光が、シアの白い肌と銀色の瞳に映っていた。
その顔が、静かに笑っていた。
グラザードが俺の横に立った。光の塊を見上げて、しばらく黙っていた。
「名前をつけよう」
「何てつけますか」
「息吹の核、でいい」グラザードは静かに言った。「シンプルな方が、長く呼ばれる」
息吹の核。
広場の中央で、白と紫の光が静かに脈打っていた。
集落の全員が、その周りに集まっていた。笑い声と、泣き声と、驚きの声が混ざり合っていた。
ムルトゥスが俺の前に来た。深く頭を下げた。
「カイン殿。予言は本当だった」
老人の声が震えていた。
「百年間、信じ続けてよかった」
俺は何も言えなかった。
ただ、広場を見た。
笑っている人たちがいた。泣いている人たちがいた。角を両手で押さえて、息吹の濃さに目を閉じている老人がいた。テオが光の周りを走り回っていた。レナが「すごい!すごい!」と叫んでいた。シアが光をじっと見ていた。
これが、俺が守りたかったものだ。
俺はそう思った。




