■ 第16話「二人と一人」
朝の訓練で、レナに初めて勝った。
正確には、引き分けに近かった。でもレナが「参った」と言ったのは間違いなかった。
レナは剣を収めながら、俺を見た。
「カイン、本当に強くなったね」
「ようやくだな」
「もうこの集落でカインに勝てるやつ、いないんじゃないかな」
「グラザードさんには勝てない」
「将軍は別格だから」レナは腕を組んだ。「でも将軍以外なら、もう誰も勝てないと思う」
俺は少し考えた。集落に来てから何ヶ月経っただろう。最初はレナに三回やって三回とも剣を喉元に突きつけられていた。それが今日、初めて勝てた。
「シアのおかげだな。術式の精度が上がった」
「レナのおかげでもあるよ」
「それはそうだな。ありがとう」
レナはにっと笑った。
「強い人好きー!」
そう言って、俺の胸元に飛び込んできた。
背が低いレナの顔が、俺の胸元にすっぽり埋まった。豊かな胸元が押しつけられる感触があった。俺は少し困った。
「離れてくれ」
「結婚しよー!」
「しない」
「えー。強くてかっこいいのに」
「それとこれとは話が別だ」
レナは離れなかった。俺の外套をしっかり掴んで、ぶら下がるみたいにしていた。
そのとき。
バッ、と音がした。
シアが走ってきて、レナの腕を掴んで引きはがした。
一瞬の出来事だった。
レナが「わっ」と声を上げて、俺から離れた。シアがレナとカインの間に割り込む形で立っていた。
沈黙。
レナが目を丸くしてシアを見た。俺もシアを見た。
シアは、自分が何をしたか気づいたみたいだった。
白い頬が、みるみる赤くなっていった。
「……シア、どうした」
シアは口を開いた。閉じた。また開いた。
「……なんとなく」
「なんとなく?」
「……なんとなく、引きはがした」
レナがにやっとした。
「シアちゃん、嫌だった? 私がカインに抱きついたの」
「……別に」
「別に、って言いながら走ってきたじゃん」
「……走ってない」
「走ってたよ。めちゃくちゃ速かったよ」
シアは黙った。耳まで赤かった。
俺はシアを見た。
「シア、もしかして——」
「訓練を続けるぞ」
シアは遮って、訓練場の中央に歩いていった。背中がまっすぐだった。でも耳の赤みは遠目からでもわかった。
レナが俺の耳元に来た。
「カイン、今気づいた?」
「何に」
「本当に鈍いね」
レナは盛大にため息をついた。
―――――
昼休み。
レナが先に食事に行って、俺とシアが二人になった。
訓練場の端に並んで座っていた。
シアはずっと黙っていた。膝の上に手を置いて、前を向いていた。耳の赤みは少し落ち着いていた。
「シア」
「……なに」
「さっきはありがとう」
シアはちらっと俺を見た。
「……何が」
「レナを引きはがしてくれたこと」
「……べつに」
「気になったのか、やっぱり」
シアは少し黙った。
「……少し」
俺は少し驚いた。シアが認めた。
「正直に言ってくれてありがとう」
「……うるさい」
でも全然怒った声じゃなかった。むしろ少し恥ずかしそうだった。
「カイン」
「ん」
「レナのこと、好きなの」
俺はシアを見た。シアは前を向いていた。でも手が膝の上でわずかに握られていた。
「好きじゃない。仲間として好きだけど、そういう意味じゃない」
シアは少し黙った。
「……そう」
「なんで聞いたんだ」
「……気になっただけ」
シアはそれ以上何も言わなかった。でも、さっきまで握っていた手が、そっと開いた。
俺たちはしばらく並んで座っていた。
シアがぽつりと言った。
「ねえ、カイン」
「ん」
「今日の勝負、見てた」
「そうか」
「……すごかった。レナに勝ったの、初めてだよね」
「初めてだよ」
「……嬉しかった」シアは前を向いたまま言った。「なんか、私まで嬉しくなった」
俺はシアを見た。シアは前を向いていた。でもその口元が、少し緩んでいた。
「ありがとう、シア」
「……べつに」
いつもの「べつに」だった。でも今日の「べつに」は特別柔らかかった。
―――――
夕方、シアと一緒に市場の近くを歩いていた。
魔族の子どもたちが走り回っていた。新しく建った家の前で、家族が話し合っている。賑やかだった。
「最近、本当に町みたいになってきたな」
「うん」シアは周りを見た。「前は考えられなかった」
「壁を張る前は、こういう景色はなかったのか」
「なかった。みんな、いつ攻めてくるかわからないから、あまり外に出なかった。子どもも、夕方になったら家の中に入ってた」
俺は子どもたちを見た。今は日が落ちかけているのに、まだ元気に走り回っている。
「それが今は」
「今は外で遊んでる」シアは小さく言った。「夜になっても、明かりがついてる。笑い声が聞こえる」
シアが俺を見た。二人だからか、いつもより目が柔らかかった。
「カインが来てから、全部変わった」
「俺だけじゃない」
「でも、カインがいなかったら変わらなかった」
……返す言葉が見つからなかった。
シアは前を向いて歩き続けた。
「……ありがとう、カイン」
「何回目だ、ありがとうは」
「何回でも言う」シアはちらっと俺を見た。「いけない?」
「全然いけなくない」
シアはまた前を向いた。でも今度は、はっきりと口元が緩んでいた。
笑った顔だった。
一瞬だったけど、確かに笑っていた。
俺はそれを見て、なんか胸のあたりがじわっとした。
……なんだろうこれ。悪くない。全然悪くない。
―――――
夜、宿舎に戻る前に、グラザードと少し話した。
「次の壁の拡張は来週から始める。準備はいいか」
「できてます」
「シアも同行させる。あいつがいると術式の展開が速い」
「助かります」
グラザードは少し間を置いた。
「……シアの様子が変わったな」
「そうですか」
「昔はあんなに笑わなかった」
俺は少し驚いた。
「笑ってましたか、今日」
「夕方、お前と市場の近くを歩いているとき。遠くから見えた」
俺は今日のシアの顔を思い出した。口元が緩んでいた、あの一瞬。
「……そうか」
「よかった」グラザードは静かに言った。「本当に、よかった」
それだけ言って、グラザードは執務室に戻っていった。
俺は夜空を見上げた。
星が出ていた。
奇跡の壁が、遠くで静かに光っていた。




