■ 第13話「シアの話」
南の壁は、翌日の明け方に完成した。
夕方から張り始めて、夜通し作業して、空が白み始めた頃に最後の紋様が定着した。
北、東、南。三方向に奇跡の壁が立った。集落を囲む光の線が、地図の上で繋がった。
グラザードが地図を見て、長い沈黙の後に言った。
「百年ぶりだ。この領地が守られていると、心から思えたのは」
俺は何も言わなかった。身体中が痛い。一晩中術式を使い続けて、魔力がまた底をついていた。
それでも、壁はそこにあった。それで十分だった。
―――――
少し寝て、昼前に訓練場に行くと、シアがもう来ていた。
いつも通り白い装束、真白の髪。訓練場の端に立って、術式書を開いていた。
俺が近づくと、シアが顔を上げた。
目が合った。
「おはよう」と俺が言った。昼だけど。
シアは少し間を置いてから、言った。
「……おはよう」
俺は少し驚いた。
シアから「おはよう」と返ってきたのは、初めてだった。
「今日は何をやる」
「封印術の精度を上げる。南の戦闘で南側の五十人に封印が届かなかった。範囲の均一性がまだ甘い」
「そうだな。あそこは俺も気になってた」
「わかってるなら直せ」
いつも通りの口調だった。
でも、なんか今日は違う気がした。うまく言えないけど。
―――――
【シア】
シアは訓練の指示を出しながら、内心で自分に呆れていた。
おはよう、と言ってしまった。
今まで一度も言ったことがなかった。挨拶なんて必要ないと思っていた。なのに、カインの顔を見た瞬間に、口から出ていた。
なぜだろう。
わかっていた。
南の戦闘。カインが倒れた。碧い光を放った直後に、顔から地面に突っ込んだ。
走り寄った。名前を叫んだ。顔に手を当てた。「死ぬな」と言った。
あのとき。手のひらの中にカインの顔があった。白銀の髪が土で汚れていた。碧い瞳が閉じていた。
——怖かった。
死ぬかもしれないと思った。この人がいなくなるかもしれないと思った。
そのあと目を覚ましたカインが「救世主の仕事だ」と笑ったとき、殴りたくなった。
殴らなかった。代わりに手を握った。朝まで離さなかった。
シアは術式書に目を落とした。文字が頭に入ってこなかった。
困った。本当に困った。
「シア、ここの紋様の繋ぎ目どうする」
カインが術式を展開しながら聞いてきた。肩越しに振り返って、こちらを見ている。
その顔を見た瞬間、また胸が詰まった。
シアは術式書で顔を半分隠した。
「……少し上にずらせ」
「こう?」
「そう」
カインは前を向いた。
シアはこっそり息を吐いた。
本当に、困った。
―――――
昼休みに、レナが来た。
訓練場の隅でシアが術式書を読んでいると、レナがドカッと隣に座った。距離が近い。
「シアちゃん、最近なんか変わったね」
「変わっていない」
「変わったよ。なんか、柔らかくなった」
「気のせいだ」
「カインに挨拶してたじゃん、さっき」
シアは術式書から目を上げなかった。
「……挨拶くらいする」
「今まではしなかったじゃん」
「……するようになった」
「なんで?」
シアは黙った。
レナはにやにやしていた。
「カインのこと好きになった?」
「違う」
「本当に?」
「違うと言っている」
「じゃあなんで顔赤いの」
「……暑い」
「今日涼しいけど」
シアはレナを睨んだ。レナは全く怯まなかった。
「ねえシアちゃん、素直になった方がいいよ。カインって鈍いから、言わないと一生気づかないよ」
「……余計なお世話だ」
でもその声が、いつもより少し弱かった。
レナは笑いながら立ち上がった。
「まあ、応援してるよ」
シアは何も言わなかった。
レナが行ってしまってから、シアはそっと術式書を胸に抱えた。
心臓が、まだ少しうるさかった。
―――――
夕方、訓練が終わった後。
俺が荷物を片付けていると、シアが横に来た。
「カイン」
「ん」
「……今日の訓練、よかった」
「ありがとう。シアの指示が的確だから助かってる」
「……そう」
シアは少し黙った。それから、小さな声で言った。
「あの碧い光のこと、調べている」
「何かわかったか」
「まだ何も。文献にない術式だ。白と紫の封印術とは根本的に違う」
「俺にもわからないんだよな。勝手に出てきたとしか」
「……カインが限界を超えたときに出た。つまり、通常の魔力回路の外にある力だ」
「外?」
「まだ仮説の段階だ。もう少し調べる。——ただ、名前がないと不便だ」
「名前?」
「文献にない力だから、名前もない。だから私がつける」
シアは少し間を置いた。
「——ヴェルデ。碧の力。あの光を、そう呼ぶ」
「ヴェルデ……」
「嫌か」
「いや。いい名前だ」
ヴェルデ。俺だけの碧い力。シアがつけてくれた名前。
シアは術式書を抱えたまま、俺を見た。
「……あと」
「ん」
「二度とあんな無茶をするな。倒れたとき、本当に——」
言葉が途切れた。
シアは少し俯いた。
「……心配した」
小さい声だった。術式の話をするときの冷静な声じゃなかった。ただの、心配だった。
「ごめん。でもあのとき、立たなかったらみんなが——」
「わかってる。わかってるから、余計に腹が立つ」
「……ごめん」
「謝るな」シアが顔を上げた。銀色の瞳が、夕日を受けて光っていた。「謝られると、怒れなくなる」
「じゃあどうすれば」
「……もっと強くなれ。倒れなくていいくらいに」
「努力する」
「努力じゃなくて、やれ」
「はい」
「……次もまた、ああやって無茶するんだろう」
「みんなを守るためなら、する」
シアの耳が赤くなった。
「……馬鹿」
「え、なんで馬鹿なんだ」
「なんでもない」
シアはさっさと歩き出した。
俺はその背中を見送りながら、首を傾げた。
なんで馬鹿なんだろう。
本当にわからなかった。
―――――
【シア】
集落に戻る道を、シアは一人で歩いた。
「みんなを守るためなら、する」。カインはそう言った。迷いのない顔で。
シアは胸を押さえた。
心臓がうるさい。顔が熱い。足が少し速くなっている。
シアはずっと、一人だった。
幼い頃から予言の守り手として修行してきた。誰かに守ってもらうという発想が、そもそもなかった。自分の身は自分で守るものだと思っていた。
それなのに。
カインは空っぽの身体で立ち上がった。みんなのために。自分を叱りつけながら。「やれよ俺」と叫びながら。
ヴェルデは、まだ何なのかわからない。
でも一つだけわかったことがある。
あの男は、倒れても立ち上がる。何度でも。みんなのために。
——そういう人を、放っておけるわけがない。
レナに言われた言葉を思い出した。
カインって鈍いから、言わないと一生気づかないよ。
シアは少し考えた。
……言えるわけがない。
でも。
シアは俯いて、口元を手で覆った。
顔が、まだ熱かった。
カインの「みんなを守るためなら、する」が、頭の中で何度も響いていた。
しばらく経ってから、シアはぽつりと呟いた。
「……馬鹿」
でも、その声は、思ったより柔らかかった。




