■ 第12話「南」
集落に戻った翌日、グラザードから呼ばれた。
「南が激化している」
執務室の地図を見た。南の境界線に、赤い印がいくつも増えていた。
「東に壁を張り始めたのを察知したのか。南から一気に押し込もうとしている」
「兵力は」
「三百以上。今まで南に回していた兵を全部集めてきた。今の駐屯兵では持ちこたえられない」
俺は地図を見た。南の駐屯地は東より小さい。三百に対応できる戦力じゃない。
「すぐ行きます」
「俺も行く」グラザードは立ち上がった。「今回は総力戦だ」
―――――
南の駐屯地に着いたとき、すでに戦闘が始まっていた。
平野の向こうから、人間側の軍勢が押し寄せていた。鉄の鎧が陽光を反射して、きらきらと光っている。前衛の槍兵、後衛の弓兵、さらに後ろに魔法使いの部隊。三百——いや、もっといるかもしれない。
魔族の兵が必死に防いでいたが、数が違いすぎた。じわじわと境界線が後退している。
俺はシアと並んで丘の上に立った。
「カイン、術式の準備はできるか」
「できる。でもあの規模を全部封じるには——」
「広範囲展開だ」シアは平野を見ながら言った。「訓練でやっていただろう。封印術に息吹を乗せて、一点に集中させるんじゃなく、横に薄く広げる。威力は落ちるが、範囲が一気に広がる」
「やったことはあるけど、あの規模でやったことはない」
「できる」シアは俺を見た。「あなたならできる」
シアが断言した。
俺は一度深く息を吸った。
「わかった。やる」
―――――
術式を展開し始めた。
封印術の紋様を、今まで以上に横に広げていく。息吹を引き込んで、紋様全体に薄く均等に流し込む。
魔力が一気に削られた。
「シア、薬」
シアが即座に瓶を押しつけた。飲んだ。苦い。また展開する。
紋様が、平野の幅を超えて広がっていった。白と紫の光が、横に横に伸びていく。
十分だ。これで全員——
解き放った。
―――――
光が、爆ぜた。
白と紫の光が平野を覆い尽くした。まるで地平線が割れたみたいだった。衝撃波が地面を走り、草が根こそぎ吹き飛んだ。
前衛の槍兵が倒れた。弓兵が武器を取り落とした。魔法使いが杖を手放した。封印術が魔力回路を縛って、身体を動けなくしている。
——倒した。
……はずだった。
「カイン!」シアが叫んだ。「南側! 封印が届いてない!」
見た。
南側に、まだ立っている兵がいた。五十人以上。封印の範囲からぎりぎり外れていた。俺の展開が足りなかった。南の端が薄すぎた。
五十人が、こちらに向かって走り出していた。先頭に騎兵がいた。速い。
俺の魔力はもうほとんど残っていない。広範囲展開で全部使い果たした。
「グラザード!」
「見えている! 兵を回す!」
グラザードが剣を抜いた。魔族の兵士たちが南側に走った。レナが飛び出していった。
ぶつかった。剣と剣がぶつかる音。魔法が飛ぶ音。叫び声。
だが五十対二十。数が足りない。
レナが斬られた。腕から血が出た。脚にも。それでも剣を振っている。
グラザードが三人を同時に相手にしていた。額から血が出ていた。
魔族の兵士が一人、地面に倒れた。
——俺の封印が届いていれば、誰も血を流さなくてよかった。
俺が空っぽだから、みんなが血を流してる。
「カイン!」シアが俺を見た。「もう一発撃てるか!」
「……魔力がほとんどない。無理だ」
シアの顔が、一瞬だけ歪んだ。すぐに戻った。
「なら私が——」
「シアの魔力じゃ足りない」
「……わかってる」
シアの声が震えていた。
―――――
南側を突破されたら、その先は集落だ。
テオがいる。ガラがいる。あの湧き水がある。やっとできた畑がある。テオが「川だ!」って叫んだあの場所がある。
あの壁を作ったとき。俺は叫んだ。「救世主にだってなってやる」と。
なのに今、空っぽの身体で丘の上に座ってる。仲間が血を流してるのを見てるだけ。
——何やってんだよ俺。
——立てよ。
——足手まといのままでいいのかよ。
レナが血を流しながら剣を振っている。退かない。
グラザードが歯を食いしばって三人を捌いている。退かない。
兵士たちが、数で押されながらも一歩も退かない。
——この人たちが退かないのに、俺が座ってるのか。
——この人たちは、後ろに俺がいるから退かないんだ。
——救世主がいるから。まだ希望があるから。
立ち上がった。
「カイン!?」シアが目を見開いた。
「シア」
俺はシアを見た。
「——救世主が座ってたら、誰が立つんだ」
シアが息を飲んだ。
身体の底を探った。魔力回路の奥の奥。もう空だと思っていた場所。
——あった。
ほんの少し。火種みたいに小さな魔力が、回路の一番深いところに残っていた。使ったら回路が焼ける。たぶん意識も飛ぶ。
でもある。
術式を展開した。
激痛が走った。空っぽの回路に無理やり魔力を通している。血管に砂利を流すみたいな痛み。視界が白くなった。涙が出た。
「カイン!! 止まれ!!」シアが叫んだ。
止まらない。
紋様が宙に浮かんだ。白と紫の光。
——弱い。
光がぼんやりしていた。魔力が足りない。さっきの広範囲展開とは比べ物にならないくらい薄い。こんなので五十人は止められない。
「足りない……」
声が漏れた。白と紫の紋様が揺れていた。消えかけていた。
——足りねぇのかよ。これが俺の全部なのかよ。
レナが血を流している。グラザードが三人相手にしている。兵士が倒れた。
あいつらが命をかけてるのに、俺のこれが「全部」なのか。
「——ここで折れたら、信じてくれたあいつらの気持ちまで折れる」
「——信じてくれた人の前で、足りないなんて言葉は使わない」
「——やれるだろ……!! もっとやれるだろ俺ぇぇぇえええ!!」
叫んだ。自分に。身体の底に向かって。もっと出ろ。足りないなら絞り出せ。空っぽの先にまだ何かあるだろ。
——そのとき。
応えるように。
碧い光が、混じった。
俺の瞳から。碧い瞳の奥から、光が溢れ出していた。
見たことのない光だった。白と紫じゃない。もっと深い。もっと透き通った。碧い光が紋様に流れ込んで、消えかけていた術式を塗り替えていく。
弱かった紋様が、碧い光を帯びた瞬間に強くなった。脈打つように。生きているように。
シアが凍りついた。
「……何だ……あの光は……」
俺にもわからない。身体の奥から勝手に出てきた。限界を超えた先の、何か。
でも——温かかった。この光は味方だ。
碧い紋様が浮かんでいた。小さかった。さっきの広範囲とは比べ物にならない。でもいい。あの五十人に届けばいい。血を流しながら戦っている仲間の向こうに見える、人間の兵に向けて。
「——守りたいものがある奴は、限界の先にいけるんだよ」
「——こんな逆境乗り切らないでなにが救世主だバカ野郎! これが俺のありったけだぁぁぁあああ!!」
碧が、爆ぜた。
一瞬だった。丘を中心に碧い衝撃波が走って、南の平野を呑み込んだ。
五十人の脚が止まった。
全員が、同時に膝をついた。封印術が魔力回路を縛った。立てない。走れない。
レナが駆け抜けた。
「今だ!!」
グラザードが剣を振り上げた。
「押し返せ!!」
魔族の兵士たちが突進した。動けない人間の兵を次々に拘束していく。
終わった。
三百の軍勢が、全員動けなくなった。
―――――
俺は丘の上で倒れた。前のめりに。顔から地面に突っ込んだ。
「カイン!!」
シアの声が聞こえた。遠かった。
身体が動かない。指一本動かない。魔力回路が完全に空。空を通り越して焼けてるかもしれない。
でも。
勝った。
守った。
集落は無事だ。テオは無事だ。湧き水も、畑も、川も。
……立ったからには、やれよ。
自分で自分に言った言葉が、まだ胸に残ってる。
恥ずかしい台詞だ。でも立った。やった。
意識が遠くなっていく。
「カイン! 目を開けろ! カイン!!」
シアの声だった。近い。顔の横で叫んでいる。
手が触れた。小さくて冷たい手。シアの手だ。俺の顔に触れていた。
「死ぬな! 死ぬなカイン!」
シアが叫んでいた。あの無表情のシアが。
死なないよ。まだやることが山ほどあるんだから。
口が動かなかった。だから心の中で言った。
大丈夫だ、シア。俺は——
意識が、落ちた。
―――――
目が覚めたら、天井があった。
駐屯地の寝台だった。身体中が痛い。指先に感覚がない。
横を見た。
シアが椅子に座っていた。
俺の寝台の横に。術式書を膝の上に置いて。でも読んでいなかった。俺の顔を見ていた。
目が合った。
シアの目が赤かった。泣いた痕だった。
「……起きたか」
「起きた」
「……ばか」
シアの声が震えていた。
「二度とあんなことをするな」
「みんな無事か」
「無事だ。レナも怪我を手当てした。兵の死者はいない。お前が一番重傷だ」
「そうか」
「そうか、じゃない」
シアは俺を睨んだ。銀色の瞳が、怒りと安堵と、もう一つ何かが混じった目で俺を見ていた。
「……さっきの碧い光。あれは何だ」
「……わからない。勝手に出てきた」
「見たことがない。白と紫の封印術と全く違う。あんな色の術式は、文献にもない」
「本当にわからないんだ。でも——悪いものじゃなかった。温かかった」
シアは少し黙った。
「……調べる。あの光が何なのか」
「頼む」
「あと」
「ん」
「……ありがとう。守ってくれて」
シアが言った。小さく。
俺は少し笑った。笑うと全身が痛かった。
「救世主の仕事だ」
シアは何も言わなかった。
ただ、俺の手を握っていた。小さくて冷たい手で。
強く。
―――――
夕方、身体を引きずって外に出た。シアに止められたけど聞かなかった。
南の壁を張り始めた。
戦闘の後で魔力がほとんどないのは辛かった。回路がまだ悲鳴を上げている。でも今張らなければまた攻めてくる。シアが術式の展開を誘導して、俺が息吹を引き込む。
日が落ちる頃には、南の壁の半分が完成していた。
魔族の兵士たちが、伸びていく壁を見ていた。
一人が隣の仲間に小声で言った。
「本当に救世主様だな」
俺に聞こえていると思っていないのか、普通の声量だった。
俺は前を向いたまま、術式を続けた。
救世主、か。
あのとき、グラザードに「なれますかね」と聞いた。
今は——少しだけ、そうかもしれない、と思えた。
―――――
夜、焚き火の前に座っていた。身体中が痛い。
シアが横に来た。毛布を一枚持っていた。俺の肩にかけた。無言で。
「ありがとう」
「風が冷たい。魔力が減っているときに体が冷えると回復が遅くなる」
「そうか」
シアは俺の隣に座った。焚き火の火が、シアの真白の髪を橙色に染めていた。
しばらく二人で火を見ていた。
「カイン」
「ん」
「さっきの碧い光……あれで、みんなを守った」
「……勝手に出てきただけだ」
シアは少し黙った。
「……ありがとう」
シアが礼を言った。今日二回目だった。
「あと」
「ん」
「あんなに叫ぶカインを初めて見た」
「……恥ずかしいからやめてくれ」
「恥ずかしくない。……かっこよかった」
シアはそれだけ言って、火に目を戻した。耳が赤かった。焚き火のせいかもしれない。でも絶対そうじゃない。
「気にするな。当然のことをしただけだ」
シアは何も言わなかった。
ただ、毛布の端をそっと掴んだ。
俺にかけてくれた毛布の、端っこを。
それだけだった。
でもその指が、離れなかった。朝まで。




