■ 第11話「東の壁」
翌朝から、壁を張り始めた。
東の平野は広い。北の境界線の三倍以上の距離がある。一日で終わる話じゃない。
シアが横に立って、術式の展開を見ながら指示を出す。
「左の紋様がずれている。もう少し上だ」
「こうか」
「そこだ。息吹の引き込みを強めろ」
俺は術式を広げながら、同時に息吹を引き込む。温かい。馴染む。でも規模が大きい分、魔力の消耗も早い。
一時間ほどで、魔力が底を突き始めた。
「シア、薬」
シアはすでに小瓶を取り出していた。俺が手を伸ばすより先に、瓶を押しつけてくる。
飲んだ。苦い。でも魔力が戻ってくる。
「もう一本」
「飲みすぎると頭痛がする」
「今は必要だ」
シアは少し黙ってから、もう一本取り出した。
「三本目はない」
「わかった」
二本目を飲んで、また術式を広げる。息吹が紋様に定着していく。白と紫の光が、少しずつ東の境界線に沿って伸びていく。
砦の兵士たちが、作業を遠巻きに見ていた。
壁が少しずつ伸びるたびに、誰かが小さく声を出した。驚きとも、安堵とも取れる声だった。
ベテランらしい兵士が、壁の光を見つめたまま動かなかった。三年間ここで戦ってきた顔だ。傷の痕が多い。その目が、じわりと潤んでいた。
俺は前を向いたまま、術式を続けた。
―――――
昼過ぎ、一度休憩を取った。
砦の中庭に座り込んで、携帯食を食べた。身体が重い。魔力回復薬の飲みすぎで、頭の奥がじんじんしていた。
シアが隣に座った。俺との距離は一人分ほど。いつもより少し近い気がしたが、シアは気にしていない様子だった。
「頭痛がしているだろう」
「少しな」
「言ったはずだ」
「必要だったから仕方ない」
シアは小さく息を吐いた。懐から小さな瓶を取り出した。さっきとは違う、青みがかった液体が入っている。
「頭痛薬だ。飲め」
「色々持ってるな」
「準備しておくのは当然だ」
俺は瓶を受け取った。飲んだ。ほんのり甘かった。さっきの魔力回復薬とは大違いだ。
「これ美味しいな」
「褒めるな。薬だ」
シアはそっぽを向いた。でも耳が少し赤かった。
俺は中庭を見渡した。駐屯地の兵士たちが、思い思いに休憩を取っている。みんな疲れた顔をしていた。でも昨日より、どこか表情が明るい気がした。
「壁が伸びるのを見て、安心しているんだろうな」
「そうだろう」シアは兵士たちを見た。「三年間、ここで戦い続けた人たちだ」
「シアはここに来たことがあったのか」
「一度だけ。ムルトゥス様と一緒に。兵士たちを励ますために」
「そのとき何歳だった」
「……十歳くらいだったと思う」
俺はシアを見た。十歳で、戦場に来た。予言の守り手として。
「大変だったな」
シアは俺を見た。何か言おうとして、やめた。
「……そうでもない」
そうでもない、の声が少し低かった。
俺はそれ以上聞かなかった。
―――――
三日かかった。
三日間、朝から夕方まで術式を展開し続けた。魔力回復薬を毎日四、五本飲んだ。夜は泥のように眠った。
四日目の朝、東の壁が完成した。碧い瞳に、白と紫の光が映っていた。
北の壁と同じ、白と紫の光の壁が東の境界線に沿って立っていた。高さは木々を超えて、横幅は視界の端から端まで。
砦の見晴らし台から見ると、壁が朝日を受けて輝いていた。
駐屯地の兵士たちが、壁を見上げていた。
最初は静かだった。
誰かが、息を飲んだ。
次の瞬間、一人が「ああ」と声を出した。言葉にならない声だった。そこから崩れるように、あちこちで声が上がった。歓声とも嗚咽とも取れる声が重なって、砦の中庭に広がっていった。
膝をついた兵士がいた。地面に手をついて、肩を震わせていた。隣にいた仲間が、その背中にそっと手を置いた。
古参らしい兵士が壁を見上げたまま、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。三年間ここで戦ってきた顔だ。その目が、壁の光をただ映していた。
それだけの三年間だったんだ、と俺は思った。
言葉にならないほどの疲弊と、喪失と、それでも諦めなかった時間が、この人たちの中に積み重なっていた。
俺は何も言えなかった。言う必要もなかった。
ただ、壁を見上げていた。
―――――
指揮官が俺の前に立った。昨日より目元が柔らかかった。
「カイン殿」
「はい」
「……ありがとうございます」
深く、頭を下げた。
「三年間、ここで死んでいった仲間がいます。もっと早くこの壁があれば、死なずに済んだ者もいた」指揮官の声が、わずかに揺れた。「でも、あなたが来てくれた。本当によかった」
「俺にできることをやっただけです。守ってきたのは、ここにいる全員です」
指揮官は顔を上げた。目が潤んでいた。
「南にも、お願いできますか」
「必ず行きます」
―――――
その日の午後、東の壁を北の壁とつなげる作業をした。
二つの壁の端が、集落の北東の角でわずかに離れていた。そこを封印術でつなぎ合わせる。息吹が橋渡しのように流れて、二つの壁が一本の線になった。
シアが術式の継ぎ目を確認した。
「つながった。息吹の流れも安定している」
「これで北と東は一続きだな」
「あとは南だ」シアは地図を見た。「南をつなげれば、集落を三方向から囲める」
俺は地図を見た。集落を囲む壁の線が、少しずつ完成に近づいている。
「南が終わったら、壁の内側を広げていく」
「三十分の一を、少しずつ取り戻す」
「そうだ」
シアは地図から目を上げて、俺を見た。
何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
―――――
帰り道、砦の入り口に馬が二頭用意されていた。
シアは二頭の馬を見た。それからカインの馬を見た。
「シア、今日は一人で乗れるか。穏やかな馬を選んでもらったから」
シアは少し黙った。
「……カインの後ろに乗る」
「え、でも馬が二頭あるぞ」
「魔力の流れを確認したい。移動中も観察が必要だ」
また同じ言い訳だった。
俺は少し考えてから、手を伸ばした。シアの細い手首を掴んで、後ろに引き上げる。シアの小柄な身体が、俺の後ろにすっぽり収まった。背中に、シアの重さが伝わってくる。軽い。
細い指が、俺の外套の背中をそっと掴んだ。
「掴まっておけ。落ちるぞ」
「……わかった」
俺は二頭目の馬の手綱を砦の兵士に返した。兵士が何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
夕日が二人の横顔を照らしていた。
シアが前を向いたまま、ぽつりと言った。
「カイン」
「ん」
「……東の壁、きれいだった」
俺は少し驚いた。シアが自分から感想を言うのは珍しい。
「そうか」
「白と紫が混ざって、朝日に光っていた。あんなものは見たことがなかった」
途中、小川のそばで馬を止めて休憩を取った。
シアが先に降りた。俺も降りて、馬の手綱を木に結んだ。
振り返ったとき、シアが水筒に水を汲んでいるところだった。
夕日を背負って立っている。白い装束が風に揺れていた。白い肌が夕日を受けて淡く染まっていた。銀色の瞳が水面を映している。小さな白い角が、風の中でわずかに揺れていた。背が小さくて、胸元は薄い。それでも、その立ち姿には目を引く何かがあった。
集落一番の美女というのは、こういう顔のことを言うんだろうな、と思った。
「何を見ている」
シアが振り返った。目が合った。
「いや、何でもない」
「また同じことを言う」
シアは水筒を俺に渡した。俺は受け取って、一口飲んだ。
「また見られるぞ。南にも張るから」
シアは少し黙った。
「……そうだな」
その声が、いつもより柔らかかった。
二頭の馬が、夕日の中を走り続けた。




