■ 第10話「東へ」
軍議から三日後、東の駐屯地に向かうことになった。
人間側の侵攻が最も激しいのは東だ。地形が平坦で大軍が動きやすい。奇跡の壁を東にも張れれば、防衛の要になる。
朝、集落の入り口に馬が二頭用意されていた。
グラザードが腕を組んで立っていた。
「東の駐屯地まで半日かかる。日が落ちる前には着きたい」
「わかりました」
俺は馬に乗った。
シアがそこにいた。白い装束に真白の髪。小柄な身体で馬の前に立って、じっと馬を見ていた。
馬の方もシアを見ていた。
「シア、馬は乗れるか」
シアは少し間を置いてから答えた。
「……乗れない」
「乗れないのか」
「乗れないと言っている」
グラザードが口を開いた。
「シア、カインの馬の後ろに乗れ」
シアは黙った。
一拍置いて、口を開いた。
「……カインの術式と息吹の反応を移動中も観察したい。後ろに乗った方が魔力の流れを直接確認できる」
グラザードは無言でシアを見た。
シアは視線を馬に向けたまま、動かなかった。
「……そうか」グラザードは短く言った。「ではそうしろ」
俺は手を伸ばした。シアの手首を掴んで、後ろに引き上げる。シアの小柄な身体が俺の後ろに収まった。背中に、シアの重さが伝わってくる。軽い。
「掴まっておけ。落ちるぞ」
「……わかった」
細い指が、俺の外套の背中をそっと掴んだ。
―――――
グラザードは二頭の馬が駐屯地に向かって歩き始めるのを見送った。
シアが後ろでカインの外套を掴んでいる姿が、遠ざかっていく。
グラザードはしばらくその背中を見ていた。
副官のベルドが横に立った。三十代の男で、角に古い傷の痕がある。
「将軍、出発しなくていいのですか」
「少し待て」
グラザードは動かなかった。
二頭の馬が集落の外れに差しかかったとき、グラザードは小さく息を吐いた。
「ベルド」
「はい」
「シアが誰かの馬に乗るのを、お前は見たことがあるか」
ベルドは少し考えた。
「……ないですね」
「俺もない」
グラザードは腕を組んだ。
「あの子が集落に来たのは、五歳のときだ。ムルトゥス殿に引き取られて、ずっと予言の修行だけをしてきた。友達もいなかった。誰にも心を開かなかった」
「……はい」
「それが今、人間の男の馬の後ろに自分から乗った」
ベルドは黙った。
グラザードは遠くなっていく二頭の馬を見た。もう小さくなっていた。
「からかい半分で言うが」グラザードは口元をわずかに緩めた。「好きな男でもできたんじゃないか、あれは」
「……そうかもしれませんね」ベルドも苦笑した。「シア様らしくない言い訳でしたし」
「術式の観察な」グラザードは小さく笑った。「移動中にわざわざ後ろに乗って確認するような術式はない。あいつもわかっているはずだが」
しばらく沈黙が続いた。
「……よかった」
グラザードは静かに言った。
「心配していたんだ、ずっと。あの子のことが。集落の誰とも馴染めないで、一人で予言書ばかり読んでいた。このまま誰とも関わらずに生きていくのかと思っていた」
ベルドは何も言わなかった。
「魔族は家族を大切にする。仲間を大切にする。それがこの種族の根っこだ。なのにシアには長い間、それがなかった」
グラザードは目を細めた。
「人間だろうと何だろうと、あの子の隣に立てる奴がいるなら、それでいい」
二頭の馬は、もう見えなくなっていた。
―――――
馬で走ること二刻ほど。
東の景色は、集落周辺とは違っていた。
木々が少ない。草も枯れている。地面が踏み荒らされた痕が随所にある。何度も戦場になってきた土地の傷だ。
途中、丘の上から広い谷間が見えた。
そこに、何かの遺構があった。
石造りの壁が崩れかけている。低く丸みを帯びた建築様式——集落の建物と同じだ。
「あれは」
シアが背後で小さく息を吸った。
「……ヴェントルの集落跡だ」
「集落跡?」
「四十年前に、人間に奪われた集落。住民は全員追い出された。家は壊された。墓地は……」
シアの声が止まった。
俺は目を凝らした。崩れた壁の向こうに、土を掘り返された跡が見えた。魔族の墓標だったのだろう、石柱が倒され、割られていた。土の中身を漁ったような痕跡もあった。
「墓まで荒らしたのか」
「魔族の遺骨には、角が残る。角には息吹が蓄積されている。人間はそれを素材として売った」
シアの声は平坦だった。でも俺の外套を握る指先に、力が入っていた。
谷間の遺構が後ろに流れていく。壊された家。荒らされた墓。四十年間、誰も戻れなかった場所。
俺は人間の側にいた。ついこの前まで。人間として戦っていた。王国の冒険者として。
こういうことが行われていたのを、俺は知らなかった。知ろうともしなかった。
「ここも昔は豊かだったのか」
俺が聞くと、背後のシアが少し間を置いて答えた。
「……らしい。私が来る前の話だから、直接は知らない」
「そうか」
「ムルトゥス様から聞いた。東には大きな川があって、魚がたくさんいたと。子どもたちが泳いでいたと」
俺は枯れた地面を見た。
その川がどこにあるのか、今はわからなかった。人間側の領土になっているのか、干上がってしまったのか。
「取り戻すよ」
俺が言うと、シアは黙った。
しばらくして、背中に少しだけ力が込められた。
シアが外套を握る力が、わずかに強くなっていた。
それだけだった。
でも俺には、それで十分だった。
―――――
駐屯地に着いたのは昼過ぎだった。
石造りの砦が丘の上に建っていた。魔族の兵が五十人ほど駐屯している。全員、疲弊した顔をしていた。
砦の指揮官が出迎えた。三十代の女性だった。短い黒髪、鋭い目元、鎧に古い傷の痕がいくつもある。角は左右で長さが違った。戦闘で片方が折れたのだろう。
「グラザード将軍から話は聞いています。カイン殿ですね」
「カイン・アーヴェルです。よろしくお願いします」
指揮官は俺をじっと見た。値踏みする目だった。でも敵意ではない。確かめようとしている目だ。
「奇跡の壁、本当に張れるのですか」
「やってみます」
「……頼みます」指揮官は深く頭を下げた。「うちの兵はもう限界です。三年間、ここで戦い続けている。早く終わらせてやりたい」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
三年間。俺が勇者パーティーにいた期間と同じだ。
俺は頷いた。
「必ずやります」
―――――
夕方、砦の見晴らし台に上がった。
東の平野が一望できた。広大な平地が、地平線まで続いている。その向こうに、人間側の陣営の明かりが見えた。
シアが横に立った。白い装束が夕風に揺れている。肩がぎりぎり俺の腕に触れそうな距離だった。シアは気づいていないのか、気にしていないのか、動かなかった。
「広いな」
「ここに壁を張れれば、東からの侵攻は完全に止められる」シアは平野を見ながら言った。「でも北より規模が大きい。時間がかかる」
「シアに手伝ってもらえれば早い」
「……当然、手伝う」
「ありがとう」
シアは黙った。
夕日が平野を赤く染めていた。枯れた草が風に揺れている。かつて川があった場所を、俺はなんとなく目で探した。
「カイン」
「ん」
「さっき、取り戻すと言っていた」
「言ったよ」
「……本当にできると思っているのか」
俺はシアを見た。シアは平野を見たまま、こちらを向かなかった。でもその横顔が、いつもより少し柔らかかった。
「できるよ」
「根拠は」
「北でできたから」
シアは少し黙った。
「……それだけか」
「それだけで十分じゃないか」
シアはまた黙った。
しばらくして、小さく鼻を鳴らした。
「……そうかもしれない」
それだけだった。
でもシアの肩から、少しだけ力が抜けた気がした。
夕日が沈んでいく。
明日から、東の壁を張り始める。




