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受験生応援三部作『青いマフラーと、冷たい缶コーヒー』

作者: 明石竜
掲載日:2026/02/20

 2月25日。

 午前7時30分。駅のホームは、鋭い刃物のような冬の空気に満ちていた。


 相原航平は、凍える手で参考書を握りしめていた。英単語帳の角はボロボロに丸まり、付箋の山がこれまでの「戦いの跡」を物語っている。けれど、どれだけ詰め込んでも、頭の中のバケツには穴が開いているんじゃないかと思えるほど、自信がこぼれ落ちていく。


(もし、失敗したら。もし、あの一問が解けなかったら……)


 心臓の鼓動が、ダウンジャケット越しに伝わるほど速い。隣に立つ人々がみんな自分より賢そうに見え、吐き出す息の白ささえ、自分だけが薄いような気がした。


 ――昨日の夜、母が言っていた言葉が、ふいに浮かぶ。


「体だけは冷やさないでね。結果はどうであれ、ここまで来た航平は、もう誇りだから」


 父は多くを語らなかった。ただ、玄関で靴を履く航平の背中に、少し不器用に手を置いて、「行ってこい」と一言だけ言った。その重みが、今になって胸に沁みる。


 高校最後のホームルームで、担任が黒板に大きく書いた言葉も思い出す。


『努力は、試験の席で君を裏切らない』


 分かっている。分かっているはずなのに、不安は容赦なく胸を締めつけてくる。


「……あの、それ。去年の私と同じです」


 不意に横から声をかけられ、航平は肩を震わせた。


 隣に立っていたのは、紺色のコートを着た、大学生くらいの女性だった。彼女は穏やかに微笑みながら、航平の持っている参考書を指差した。


「その単語帳。私もボロボロになるまで使ってました。最後の方は、もはや紙の塊みたいになっちゃいますよね」


 航平は戸惑いながらも、「あ……はい」と短く答えた。


 彼女はカバンから、大学のロゴが入ったストラップのパスケースを取り出した。


「私は今、あそこの坂の上にある大学の2年生です。2年前の今日、私も今の君と同じ場所で、同じくらい震えてました。足の先まで冷えて、鉛筆を握る感覚もなくて。世界で自分だけが置いていかれるような、変な孤独感があって」


 航平は驚いて彼女を見た。彼女の凛とした佇まいからは、そんな弱気な過去は想像もできなかった。


「でもね」


 彼女は自販機の方へ歩き出し、戻ってくると、一本の缶コーヒーを航平の手に握らせた。

 ――温かい缶だった。


「大丈夫。今日まで君が積み上げてきたものは、君が思っているよりずっと、君の味方をしてくれるから」


 缶の熱が、かじかんだ指先から、胸の奥へとゆっくり染み込んでいく。


「試験中、もし真っ白になったら、そのボロボロの参考書を思い出して。あれをやり遂げた自分を、誰よりも自分が信じてあげて」


 一瞬、言葉に詰まったように笑って、彼女は続けた。


「大学で待ってるよ。春、このキャンパスで君に会えるのを楽しみにしてるから」


 電車の入線音がホームに響く。

 彼女は「頑張れ!」と小さく拳を握ってみせると、反対側のホームへと歩いていった。


 航平は、温かい缶を両手で包み込んだ。

 不思議と、さっきまでの震えは止まっていた。


 電車に揺られ、試験会場に向かう。

 問題用紙を開いた瞬間、胸が一度だけ強く鳴った。


 ――大丈夫だ。


 分からない問題はあった。それでも、手は止まらなかった。

 夜遅くまで机に向かった自分。眠気と戦いながら覚えた単語。先生の声。家族の背中。

 そして、あの朝の、青いマフラーの彼女の声。


 すべてが、今の自分の背中を押していた。


     *


 合格発表の日。

 三月の風は、もう冬ほど冷たくなかった。


 大学の掲示板の前で、航平は自分の受験番号を探していた。

 指が、無意識に震える。


 ――あった。


 一瞬、理解できなかった。

 次の瞬間、これまで「大丈夫だよ」と言い続けてくれた家族の声が、全部まとめて胸に押し寄せてきて、視界が滲んだ。


「……あ、あった……」


 声が、かすれていた。


 スマートフォンを取り出し、母に電話をかける。

 出た瞬間、言葉にならなかった。


『航平? どうだった?』


「……受かって、た」


 一拍置いて、受話器の向こうで、嗚咽が漏れた。

 父の「よくやったな」という低い声も聞こえる。


 電話を切ったあと、航平は掲示板を見上げた。

 ふと、あの日のホームを思い出す。


 青いマフラー。

 温かい缶コーヒー。

 名前も知らない、けれど確かに背中を押してくれた人。


「春、会えるかな」


 そう呟いて、航平は笑った。


 カバンの中の参考書は、相変わらず重い。

 けれどそれは、もう不安の重さではなかった。


 未来へ進むために――確かに自分が積み上げてきた、誇りの重みだった。

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