1 猫は、嫌い。
――猫は、嫌いだ。
胸の内でつぶやいて、ラフニカは腕に抱える書類を持ち直した。
カツカツと響く自身の靴音が気に障るのは、きっとこれから会う人物の所為だろう。
職場である王城内の廊下は、石畳が多い。周囲に鳴り響く自分の足音に追い立てられるように、ラフニカは足を急がせた。
猫が嫌いな理由なんて、いくらでも挙げられる。
可愛い顔で擦り寄ったら自分の要求が通ると思っている厚かましいところ、こっちの思っているとおりに動かない気まぐれで勝手なところ、普段はドライなくせに落ち込んでいる時にはそっと擦り寄る抜け目ない要領の良さ――そして、そのくせ本当に必要な時には姿を消してしまう無責任なところ。
くだらない物思いに耽っていたことに気がついて、首を振った。背筋を意識してしゃんと伸ばし、顔を上げる。
そうして気持ちを切り替えようとしているのに、溢れ出した思考は止まらない。
――猫は、嫌い。でも。
少しだけ足を止めて、息を吐き出す。そのため息とともに、ラフニカの最後の結論はするりと飛び出した。
――遊び人は、もっと嫌い。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「見て! フェリス様の稽古の番よ!!」
「やっぱり他の騎士の方と比べても佇まいが素敵だわ。惚れ惚れしちゃう」
「シッ、静かに。活躍を見逃したら一生の損失よ?」
着飾った女性たちの興奮に満ちた囁きが聞こえ、ラフニカは足を止めた。そこに、探し人の名前を聞いたからだ。
彼女たちの視線を追い、騎士たちの訓練場へと目を向ける。
「双方、礼。始め!」
――ちょうど試合が始まったところであった。
開始の合図を皮切りに、向き合った二人の騎士が構える。
だが、お行儀よく剣を構えたのは片方だけ。もう一人の騎士服を着崩した青年は、気怠げにほんの少し剣先を持ち上げるにとどめる。
「くそっ……いつもいつもスカした態度とりやがって! 今日こそ、ぶっ倒す!!」
やる気のない態度が、相手の神経を逆撫でしたらしい。咆哮と共に、ガタイの良い大男が全力で打ちかかる。
剣がぶつかり合う、硬質な音が鳴り響いた。
大男の剣を受け流し、青年は軽やかな動きで身をかわす。対する大男はそれを読んでいたかのように、返す太刀筋でその逃げ筋を封じた。
「おっと、やるねぇ!」
ニヤリと笑って青年はその攻撃を正面から受け止める。
ーーだが、二人の膂力の差はあまりに大きい。大男の勢いを受け止めきれず、青年の身体はよろめく。
それを逃さぬとばかりに、大男は追い詰めるように次々と剣戟を繰り出しはじめた。
降り注ぐその攻撃は、すべてを押し流す濁流のよう。防戦一方の青年はそれを紙一重で捌いているが、それもいつまで凌げることか。
風を切る鋭い音が、遠くで眺めるラフニカの耳にも届いた。
訓練用の剣が安全のために刃を潰してあることくらい、知っている。でも、あんな勢いで殴られたらそんなの関係ない。当たりどころが悪ければ、死んでしまうことだってあるだろう。
「フェリス様、頑張ってー!!」
だというのに、あろうことか青年――フェリスは打ち合いの最中に突然、相手から視線を外した。
それもまさかの、女の子からの声援に応えるために、だ。ご丁寧に手まで振り返して。
その隙を見逃すわけがない。男の剣が、フェリス目掛けて勢いよく振り下ろされる。「ひっ……」と洩れた悲鳴は、誰のものだっただろう。
――だが。
まばたきほどの、一瞬の出来事だった。
女性陣に手を振りながら、フェリスはなんの予備動作もなくぽん、と――大男の頭の上を飛び越えたのだ。
体重を感じさせない、軽快な跳躍。空中でくるりと回転しながら、フェリスは最低限の動きで男の剣先を跳ね上がる。
予期せぬ方向からの力に、剣は呆気なく男の手を離れていく。フェリスの身体が、静かに地面に着地する。
その背後で、大男の剣がカランと虚しく落ちる音が響く――。
「ダメじゃないっすか。猫は空だって駆けるんだから、ちゃんと意識して戦わないと」
淡々と告げるフェリスの言葉に同意するように、彼の腰から伸びる尻尾がゆらゆらと揺れる。日を受けて優しく金色に光る、しなやかな猫の尻尾。
ピクピクと得意そうに動く頭の上の耳は、尻尾よりも少し濃い茶色だ。
獣の耳と、尻尾――猫の名残りを持つ獣人、フェリス。
その色合いを見るとどうしても「あのコ」のことが思い出されて、ラフニカはそっと目を逸らした。
彼女の感傷とは正反対の、明るい歓声が観客たちの間で上がる。
「すごい、さすがですわ、フェリス様!」
「なんて美しい身のこなし……私、夢を見ているのかしら……」
「はいはい、お嬢様がた。俺のためにこんなところまで来てくれて、光栄ですよー。
……あれ、アリス嬢。口紅の色を変えたんですね。色の白いアナタに、よくお似合いだ。
シリー嬢、先日の菓子美味しかったですよ。酒に合う俺好みの味つけにしてくれたなんて、その心遣いがニクいですねぇ。
おっと、コットン嬢、目元が赤いけど、もしかして婚約者殿と喧嘩でも? 可憐なアナタを泣かせるなんて、ひどい男だ。いつでも相談に乗りますよー。それからジェシカ嬢……」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「失礼します」
いつまで経っても終わらぬ女性陣への声掛けに痺れを切らし、ラフニカは遮るように声を上げた。思っていたより刺々しい声が出るとともに、周囲の視線が一斉にこちらを向く。
その視線に気圧されて一瞬言葉が止まったが、咳払いで誤魔化してラフニカはあらためて用件を切り出した。
「フェリス補佐官。来年度の予算の件のお返事をまだ頂けていないのですが、状況いかがでしょうか。広い交友関係をお持ちなのは大変結構なことですが、なすべきことは果たしていただかないと」
「ああ、ごめんごめん」
嫌味に満ちたラフニカの言葉にも気分を害した様子を見せず、さらりとフェリスは謝罪の言葉を述べた。
軽薄な振る舞いとは裏腹に、この男――フェリスは、剣の腕一本で第二騎士団の補佐官まで上り詰めた実力派の男である。
補佐官と言えば、騎士団長のすぐ下の役職。貴族の後ろ盾のない平民がそこまでのし上がるのは、並大抵のことではない。
ただでさえ珍しい獣人ということで目立つというのに、剣の腕前は騎士団でも上位の実力。すらりとした長身に、バランスよくついた筋肉。無造作に後ろで束ねたやや長めの金色の髪はサラサラで顔も良いとくれば……女性たちが放っておかないのも無理はないだろう。
前髪を透かして見える明るい緑の瞳。
その瞳孔は、昼の光の所為で糸のように細い。ラフニカに向ける彼の眼差しは、完全に猫のものだ。
まるで獲物を見るかのような視線に少したじろいだが、フェリスはすぐに目を細めてにこりと笑った。
それだけで彼の気配はがらりと変わり、人好きのする青年のものへと戻る。
「その件だったら、うちの隊長がオタクの室長さんに直接相談に行ってるはずですよー」
「そうでしたか。それは情報共有ができてなくて、すみません。帰って室長に確認します」
「いーえ。むしろ担当のラフニカちゃんに伝えてなくて、申し訳なかったですねぇ」
では、と踵を返したところで「ラフニカちゃん」ともう一度呼びかけられ、振り返った。
「はい、なんでしょうか」
目が合った途端、呼び止めたくせにフェリスは気まずそうに視線を逸らす。そして、何度も迷うように口を開いては閉じてを繰り返しはじめた。
パタパタと、後ろの尻尾が落ち着かなそうに地面を叩く音が聞こえる。そうして随分と躊躇ってから、彼はようやく口を開いた。
「その……今日も可愛い、ですね」
「無理に気遣っていただく必要はありませんよ。可愛げのない女だということは自覚しています」
さんざん待たせておいて、出てきたのは何のひねりもないその言葉。
普段は流れるように気障なセリフを口にしていると知っているからこそ、却って腹立たしい。
周囲の女性も生ぬるい目でこちらを見ているのが伝わってきた。フェリスからこんなつまらない世辞しか引き出せない自分はきっと、彼女たちからライバルとすら思われていないのだろう。
――仕事さえ関係なければ彼と関わる気はないので、その方がありがたいけれど。
これ以上付き合ってはいられないと、あらためて背を向ける。「本気で言ってるんですけどねぇ……」という困ったような声はきっぱりと黙殺した。




