第90話 三月三日(真鈴サイド)
ふっふっふっ。あの邪魔な女は今日もいないのよね。
学校から帰ってきた私は、ランニング用の服装に着替えて時を待つ。
今日は三月三日、ひな祭りだっけか。私が知らない風習だけど、なんにしてもあの女がいないのは大きいわ。
さあ、なんとしてもお兄ちゃんを私のとりこにしていかなきゃね。
私はお兄ちゃんが帰ってくるまでの間、とにかく体をほぐして待つことにした。
「ただいまー」
しばらくすると、お兄ちゃんが帰ってきた。
「お帰り、お兄ちゃん」
「おう、真鈴。ちょっと待ってろ。今、荷物置いてくるからな」
「うん、待ってる」
学校から帰ってきたお兄ちゃんは、ドタドタとうるさい足音を立てながら、階段を上がっていった。
再び降りてくると、私の頭に手を置いて声をかけてきた。
「それじゃ、走りに行くか」
「うん」
私は嬉しそうに微笑むと、お兄ちゃんと一緒に家を出ていく。
走り始めたお兄ちゃんは、私の足に合わせるように速度を落として走ってくれる。
お兄ちゃんは基本的に、誰にでも優しい。ああ、あの頃からあの人は変わっていないんだなって、そう思わされる瞬間だ。
こんな性格だからこそ、あの女にもあんな風に優しかったんだろう。
でも、別に恋仲に発展しているわけではないので、やっぱりそこは生まれ変わっても変わらなかったんだなと思う。
こういうところを見てしまうと、あの頃の想いが蘇ってきてしまう。
(ああ、ダメ。まだ我慢の時よ。今はあの女を排除することだけを考えておかなきゃ……)
自分のものにしてしまいたい気持ちが強まる中、私はぐっとこらえてお兄ちゃんの後ろをついて走っていく。
それにしても、沈黙がなかなか耐え切れない。
お兄ちゃんと何かを話しをしたいとは思うけれど、私の体力じゃついていくので精一杯。私の呼吸はちょっとずつ苦しくなってくる。
ちょうど信号待ちになる。
「大丈夫か、真鈴」
私の方へと目を向けたお兄ちゃんが声をかけてくる。
「へ、平気だよ……」
私は息を切らせながら、お兄ちゃんの質問に答える。
だけど、お兄ちゃんは心配した顔をしながら私をじっと見てくる。
「最近、急に走りたいなんて言い始めたからな。数日間様子を見てたが、やっぱり無理がきてるんだろう。ほらっ」
そういったお兄ちゃんは、私の前にしゃがみ込んで背中を見せてきた。どうやら背負うつもりでいるらしい。
ちょっと、ここは交差点でめちゃくちゃ目立つんだけど……。
いくら私でも、さすがにこれは恥ずかしいというものだよ。
「無理すんなっての。今日ばかりは倒れられても困る理由があるしな」
「えっ?」
お兄ちゃんの言葉に、私はどきりとしてしまう。
「そ、そうまで言うんだったら、恥ずかしいけどおぶさるわ」
結局私は、お兄ちゃんに甘えることにした。
家に帰るまでの間、私はずっとお兄ちゃんに背負われた状態だったので、なんとも恥ずかしい気分だったわ。
「うん、いい感じの負担だな」
「ちょっと、お兄ちゃん。それってどういう意味よ」
ぽつりと漏らしたお兄ちゃんの言葉に、私は思わず反応をしてしまう。今の私はこの時代の中学生なんだから、そのくらいは思っちゃうわよ。
「ははっ、真鈴は軽いから悪い意味じゃないよ」
「もう!」
私は気が付いたらお兄ちゃんをぽかぽかと叩いていた。
なにこれ……。まるで私ってば子どもみたいじゃないのよ。
はぁ……、なんだかいらいらしてくるわね。
お兄ちゃんの無神経な言葉のせいで、最後の方はなんともむくれてしまっていたわ。
もう、まじないをかけて気持ちを私の方に向くようにしたかったのに、そんな気持ちにもならないわ。
そうして、私は背負われたまま家まで戻ってきてしまった。
「ただいま」
「お帰り、海斗、真鈴。あら、真鈴ってば顔が赤くないかしら、大丈夫?」
「お母さん、大丈夫だから心配しないで」
私はぶすっとした顔のまま、部屋へと戻っていく。
「先にお風呂にしなさいよ。夕食は今用意しているから」
「分かったわよ」
お母さんに言われた私は、おとなしくお風呂に行くことにした。
「あっでも、今行くとお兄ちゃんと鉢合わせかな。いくらなんでも年頃の男女の鉢合わせはよくないでしょ」
まじないを使う私でも、一応こういうところは気を遣う。一途に思っていても、やっぱり恥ずかしいことは恥ずかしいんだから。
「真鈴、出たぞ」
「はーいっ!」
お兄ちゃんが出たのを確認すると、私もお風呂に入る。
いつもは私の方が先だから、なんともいえない緊張感があった。
(さっきまでお兄ちゃんがいた空間だわ……)
なんというか初めてだったので、私は本当に恥ずかしくなりながらゆっくりとお風呂に入った。もちろん、のぼせないように気をつけながらね。
「出たわね、真鈴。それじゃ夕食を取るわよ」
「はーい」
しっかりと髪を拭いて乾かすと、食堂へとやってくる。
「あれっ、なんだか豪華な気がするわ」
「ええ、今日はひな祭りだから、ちょっとね」
「そっか、そういう日だったわね……」
こういうことをされると、私もこの家の家族になってるんだなって実感させられる。本当は、まったく血のつながりもない赤の他人なのにね。
なんでだろう。目から何かがこぼれ落ちる気がしたわ。
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして」
その日の食事は、ちょっとだけしょっぱかったかもしれなかった。




