6.不穏な影
隣の席の健太が、風邪をひいて学校を休んだ。
家が近いのもあって、健太の家にプリントを届けに行ったその帰り道。
何度も通ったことのある道なのに、今日初めて古びた家に目が留まった。
表札を見ると「吉備津」と書かれていた。
すぐに図書室の彼女のことが、頭に浮かぶ。
もしかして、ここは彼女の家?
吉備津なんて珍しい名前、そうそうあるものじゃない。
でも、人が住んでいるようには思えない。
庭は全く手入れされず、背の高い草が生えているし、まだ明るいのに雨戸も閉めっきりだ。
ひとり暮らしの家でさえもう少し活気がある。
「この家に何か?」
突然、背後から声をかけられた。
振り向くと、白髪の老人が立っていた。
杖を持ち、深いしわが刻まれた顔には、何か重いものを背負ったような影がある。
「この家の方ですか?」
「このあたりに住む者だが、君、この家の娘さんに用があるのかな?」
老人の口調は丁寧だったが、どこか俺を訝しむような光が宿っていた。
「い、いいえ、知り合いの家かなって思っただけです。吉備津なんてちょっと珍しい名前だから……」
不審者に思われたかな、そう思った時、老人の目が鋭く光った。
「興味本位でこの家の者に関わるな」
低く重い声に、心臓を掴まれたような気がした。
けれど、すんなり言うことを聞く気になれない。
俺はもう、彼女との関わりを断つ気はない。
「どういう意味ですか?」
毅然とした態度で質問した時、心配する声が割って入った。
「じいちゃん、またここにいたの?」
20代くらいの男性が老人に駆け寄ってきた。
視線を向けられて、軽く会釈する。
すると、老人が激しく咳き込んだ。
「安静にしてなきゃだめだって、医者からも言われただろ? ほら、帰ろ」
そう言うと、男性は老人を支えるようにその場を去っていった。
質問はかき消され、ひとりその場に取り残される。
関わるな、ってどういうことだ?
答えを得られるはずはなく、胸に暗い影が渦を巻く。
胸の奥で、老人の言葉が何度も繰り返される。
――興味本位でこの家の物に関わるな。
あの家に、彼女は住んでいるのか?
だとしたら、荒れ果てた庭と、閉ざされて雨戸が余計に気になる。
もし彼女があの家で孤独に暮らしているのなら、なおさら放っておくことはできない。
俺は迷わず、今夜も図書室へ向かった。
扉を開けた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
いつもと同じ席に座っている彼女。
でも、その雰囲気は明らかに違っていた。
落ち着きなく視線を彷徨わせ、そわそわと落ち着かない。
まるで見えない何かに怯えているようだ。
今夜は満月ではなかったけれど、妙に明るい。
雲間から指す光を嫌うように、彼女は影に身を潜めていた。
老人の言葉と彼女の様子が、俺の不安を煽る。
「大丈夫?」
思わす声をかけると、彼女の肩が大きく跳ねた。
その直後、雲が流れ、月が姿を現す。
すると、強い光の筋が図書室に差し込んだ。
「――っ!」
彼女の瞳が赤く光り、全身から冷たい気配が溢れだした。
息が止まるほどの迫力に、思わず足がすくむ。
次の瞬間、抑えきれない衝動にかられたように、彼女は椅子を弾き飛ばすように立ち上がると、俺へ飛びかかろうとした。
咄嗟に目を閉じた俺に、爪の風圧が迫る。
けれど、痛みは来なかった。
気づけば、彼女は俺の目の前で立ち止まり、苦しそうに唇を噛んでいた。
肩を震わせ、必死に自分を抑えている。
その瞳には恐怖と自責が入り混じり、自分自身を睨んでいるように見えた。
「……ごめん……なさい」
かすれた声でそれだけ言うと、彼女は耐えきれないとばかりに走り去った。
扉の向こうに消えた足音が、いつまでも耳に残る。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何が起きたのだろう。
突然のことに思考がついていけない。
ふと彼女が居た席に目を向けると、床に何かが落ちているのに気づいた。
小さな紙袋だ。
中には、粉々になったクッキー。
原型はとどめていなかったけど、いつか話をした物語に出てきたクッキーだとすぐにわかった。
俺が食べたいって言ったから……。
胸の奥が締め付けられる。
そして、『温羅退治伝説』と記された和綴じの本も一緒に落ちていた。
彼女がいつも手にしていた本だ。
中をパラパラめくると、鬼が討たれる場面に写真が挟まっていた。
その写真はよれてしわくちゃだったけど、これまで見たことのない屈託なく笑った彼女を真ん中に、優しそうな笑みを浮かべた両親が写っていた。
俺は本を胸に抱き、強く拳を握った。
彼女が何を抱えているのかわからない。
でも、このまま彼女をひとりにしておくなんてできない。
脳裏をかすめたのは、昼間見た古びた家。
俺は、駆け出していた。
古びた家の前まで来ると、辺りは不気味なくらい静まり返っていた。
「桃花ちゃん!」
呼びかけてみたが、返事はない。
胸の奥がざわつく。
怯えた彼女の表情が頭から離れない。
俺は持っていた紙袋ギュッと握った。
「クッキーありがとう。もし……よかったら、また作ってほしいな。今度は一緒に食べよう」
静寂の中、かすかに風が吹き、木々の葉がそよぐ。
返事はなかったけど、ほんの少しだけ、彼女の気配を感じた気がした。
これ以上、ここに居ても彼女を追い詰めるだけのような気がして、俺は家を後にした。




