4.君の名前
相変わらず、彼女は部屋の隅で静かにページを捲っている。
あの日以来、彼女と言葉を交わすことはないけれど、この空間が前よりも心地よいものになっているのは確かだった。
月明かりが図書室の窓から差し込み、本棚や机を淡く照らしている。
その光の中で、彼女は読んでいた本をそっと膝の上に置いた。
横顔には、どこか戸惑いのような表情が浮かんでいる。
気が付けば、俺は口を開いていた。
「……君の名前、教えてくれない?」
彼女の肩がわずかに揺れる。
いつもなら「関係ない」と突き放されてもおかしくない。
けれど、今夜の彼女は少し違った。
「……どうして?」
その声は、これまでよりもずっと柔らかかった。
「だって……こんなに会っているのに、”君”とか”あなた”って呼ぶの、寂しいだろ?」
自分でも照れくさい言葉だった。
頬が熱くなるのを感じながら、それでも続けた。
「君ともっと話がしたいんだ」
彼女は長い沈黙のあと、ふっと小さく笑った。
その笑みはすぐに消えてしまったけれど、それでもこれまでの冷たさは感じられなかった。
「……吉備津、吉備津桃花」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
今まで遠くに居た存在が、ようやく手の届くところに近づいた気がしたから。
「桃花ちゃん……」
名前を呼んでみると、彼女は少しだけ視線を逸らし、耳を赤く染めた。
「勝手に呼ばないでください」
言葉とは裏腹に、その声に棘はなかった。
ふと彼女の本に目がとまった。
彼女が手にしていたのは、古びた和綴じの本。
表紙には『温羅退治伝説』と書かれていた。
「すごく難しそうな本読んでるんだね」
「……鬼退治の伝説です」
急に声が硬くなった。
どこか重みのある響きがあった。
「鬼退治っていうと、桃太郎の話がすぐ思い浮かぶよね」
何気なく言ったひと言だったが、彼女の身体がピクリと強張った。
しまった、と心臓がざわつく。
調子に乗ってしゃべりすぎたかもしれない。
そんな俺の心配をよそに、彼女は小さく呟いた。
「……鬼なんて、大っ嫌い」
これまでにないハッキリとした拒絶の言葉。
けど、何故だか俺は、その言葉を肯定する気にはなれなかった。
「でもさ、鬼も可哀そうだよね」
彼女の大きな瞳が、驚いたように俺をじっと見つめる。
慌てて言葉を継いだ。
「鬼だって、最初から鬼だったわけじゃないかもしれないだろ? 恨みとか哀しみを抱えて誰にも理解されずに『鬼』になっちゃったのかもしれない。そう考えると、少し可哀そうじゃない?」
口にしてから、自分でも何を言っているんだろうと驚いた。
でも、彼女は信じられないものでも見るように目を見開いていた。
「……可哀そう?」
ポツリとこぼれた声は、今までで一番人間らしい揺らぎを帯びていた。
「うん。だって、なりたくてなったわけじゃないのに、怖がられて倒されるしかない存在って、寂しすぎるだろ?」
沈黙が図書室の空気を張り詰めさせる。
彼女は何かを堪えるように唇をかみしめ、やがてゆっくりと視線を逸らした。
「……そんなことを言う人は……初めてです。」
かすかな震えとともに紡がれた言葉には、拒絶よりも戸惑いが混じっていた。
そして、初めて彼女の表情が柔らかくほどけていくのが見えた。
月明かりに照らされた彼女の横顔は、もう最初に会った時の冷たい表情はなかった。