12.君は君のまま
ひとり残された図書室で、俺は傷口を抑えながら立ち尽くしていた。
月光が床に垂れた血を照らしている。
彼女が最後に診せた、あの絶望に満ちた瞳が頭から離れない。
机の上に置かれた『温羅退治伝説』に目がとまった。
俺はそれを手に取り、ページをパラパラとめくった。
両親と一緒に写っている写真が、まだそこに挟まっていた。
屈託なく笑う彼女の笑顔。
この笑顔を取り戻したい。
「鬼の指は三本……貪欲、嫉妬、愚痴」
さっき彼女が震える声で言った言葉が蘇る。
「でも、人間は五本指。残りの二本は仁と愛」
俺は自分の手をジッと見つめた。
五本の指がある。
彼女にも、五本の指があった。
俺を傷つけたことで、自分自身を責める彼女には、まだ思いやりの心がある。
「まだ、間に合う」
傷の痛みを堪えながら、俺は窓の外を見上げた。
満月が雲に隠れ、闇が深くなっていく。
きっと彼女はひとりで苦しんでいる。
俺は本を胸に抱き、図書室を出た。
まずは彼女の家に行った。
シンと静まり返った家は、不気味な佇まいを見せていた。
けれど、ここに彼女の気配はない。
その時、遠くから女性の悲鳴が聞こえてきた。
慌てて駆け付けると、鬼がすごい勢いで走っていったと通りがかりの人が、震える声で教えてくれた。
逃げていった方向は――海。
ふたりで一緒に行こうと約束した場所だ。
夜空に目をやる。
いつの間にか雲が切れ、満月が不気味に輝いている。
冷たい月の光が、まるで急かすように地面を照らしている。
「……今度こそ、俺が連れ戻す」
傷口を押さえていた袖をきつく巻きなおし、俺は駆け出した。
夜の海は、静かにうねっていた。
砂浜の先――そこに、彼女はいた。
雲が月を隠すと、彼女は人の姿を取り戻す。
彼女はバシャバシャと音を立て、沖へと向かって行く。
慌てて彼女の腕を掴んだ。
「放してッ! 今なら人間のまま死ねるの」
「ダメだ! 死なせない」
「……お願い」
泣きながらせがむ彼女を、俺は抱きしめた。
彼女は力の限り俺を突き放そうとするけれど、俺は彼女を放さなかった。
必死に抗っていた彼女の力がふっと弱まった。
「……もう、疲れたの。抗う事に……諦めるしかないの」
「俺は、諦めない。たとえ君が諦めても、俺は、俺だけは諦めない!」
そう宣言した俺をあざ笑うかのように、雲間から月が姿を現す。
彼女の身体がガクガクと震えだす。
「……早く、逃げて……私はもう――」
その言葉を最後に、彼女の瞳が赤く濁る。
爪が鋭く伸び、獣のようなうなり声を上げる。
「桃花ちゃんッ! 君は鬼なんかじゃない!」
叫んだ。
けれど、波が砕ける音にかき消される。
その時、怨霊の声が頭に響く。
『無駄だ。桃太郎の血は呪いだ。完全に鬼と化し、人を滅ぼす』
「違う! 血が呪いだというのなら、その呪いごとすべて俺が受け止める!」
低いうなり声をあげ、彼女が俺の首を掴んだ。
「……ぐっ」
爪が喉に食い込む。
苦しくて痛くて、でも何故か怖いとは思わなかった。
赤く濁った瞳に、涙が宿っているのが見えたから。
「……桃花ちゃん……、君は……鬼なんかじゃない」
さらに首を絞める力が強くなる。
それでも、俺は声の限り叫んだ。
「……桃花ちゃんは……鬼にはなれない」
首を絞める彼女の指にそっと手を添えた。
「だって、……ほら、君の指は五本ある」
一瞬だけ、彼女の動きが止まった。
俺はすかさず言葉を重ねた。
「桃花ちゃんにはまだ思いやりの心がある」
「一緒に朝日の昇る海を見ようって約束、覚えてる?」
「クッキーも一緒に食べたよね。俺たちの冒険はこれからだ」
「……桃花ちゃん、帰ろう。あの図書室に」
彼女の手が震え、首を絞める力がふっと抜けた。
次の瞬間、赤い瞳から、ひとすじの涙が零れ落ちた。
鋭かった爪が、ゆっくりと細い指に戻っていく。
「……そんな……」
怨霊が愕然とした声を上げる。
「血は呪いなんかじゃない。優しさを受け継ぐものなんだ」
「バカな……」
その言葉を最後に、怨霊は夜の風に溶けるように消えていった。
彼女は膝から崩れ落ち、泣いていた。
「もう大丈夫、桃花ちゃんは桃花ちゃんのままだ」
冷たい海風の中で、その体は微かに震えていたけれど、人の温もりを取り戻していた。




