10.約束
この前、彼女が忘れていった本、『温羅退治伝説』をカバンから出して、机に置いた。
「これ、桃花ちゃんのだよね」
彼女の肩がビクンと跳ねた。
しばらく視線を泳がせたあと、小さな声が返ってきた。
「……ありがとう」
大切そうに受け取る。
「これ、桃太郎の元になった民話だよね」
軽くそう言うと、彼女は唇をギュッと噛み、かすかに首を振った。
「……民話じゃない」
その横顔は、溢れかけた言葉を、無理やり飲み込んでいるように見えた。
「鬼の呪い?」
あえて軽い口調で言った俺の言葉に、彼女の瞳が大きく見開かれた。
驚きと、どこか怯えた色を浮かべて、彼女が俺を見つめる。
「村瀬さんに会ったんだ」
その名を口にした瞬間、彼女の肩からふっと力が抜けた。
そして諦めたように長く息を吐き出した。
「じゃあ……私が鬼になるって――」
「いや、君は鬼になんかならない」
食い気味にそう言うと、彼女の唇が小さく震えた。
「でも――」
「俺が、させない」
静かに言い切ると、救いを求めるような彼女の視線が俺に向けた。
けれど、それは一瞬のこと。
彼女は口を閉ざしてしまった。
長い沈黙が図書室に流れる。
「私が……どうして夜に学校に来るのか、不思議に思ったことはありませんか?」
か細い声が沈黙を破った。
それはずっと聞きたくて、でも聞けずにいたことだった。
「夢が怖くて……眠れないんです」
彼女はギュッと手を握り、俯いたまま続ける。
「夢の中で私は鬼で……たくさんの人を傷つけていくんです。両手は真っ赤に染まって……」
爪が食い込むほどに手を握る彼女の震える声を黙って聞きながら、胸の奥が傷んだ。
こんなにも苦しい思いを抱えて、ひとりで夜を過ごしてきたのか。
彼女はずっと孤独の中で戦ってきたんだ。
「……桃花ちゃん」
思わず名前を呼ぶと、彼女はハッとしたように顔を上げた。
「両親が死んだのもきっと……私のせい、私が……」
「違う!」
思わず声を荒げてしまった。
彼女がびくりと身をすくめるのを見て、俺は慌てて声を落とした。
「それは違うよ」
彼女は首を横に振った。
「でも、鬼になる運命は変えられない」
絞り出すような声。
視線はずっと下を向いたままだ。
「だからもう――」
「俺は、諦めないよ」
彼女の動きが一瞬だけ止まった。
そしてゆっくりと顔を上げ、揺れる瞳で俺を見る。
「私が、怖くないんですか?」
その問いかけに、俺はまっすぐに彼女を見つめ返した。
「どうして怖がるんだ? 俺は一度だって君のこと……桃花ちゃんのことを怖いなんて思ったことはない」
「それより、もっと話がしたい。君と一緒にいたいんだ」
言葉を重ねるたび、彼女の瞳の奥にあった怯えが、少しずつほどけていくように見えた。
「怖い夢を見るなら、その時は俺が隣に居るよ。夜でも、図書館でも……桃花ちゃんがひとりで震えなくてもいいように」
言葉にしてしまうと頼りなく聞こえるけど、それでも今の俺にできることを伝えたかった。
「一緒に海を見に行こう。約束だ」
俺の言葉を胸の奥で噛みしめるように、しばらく黙っていた彼女は、涙で頬を濡らしながらもゆっくりと頷いた。




