辺境の狼煙と、愛の誓い
武王の反乱が始まった! 追い詰められた宮廷、絶望する暁月様。私は、ただ料理を作るだけの妃ではいられない。命を賭して、彼と、この国を守ると誓う。戦火の中、私たちの心は初めて、完全に一つになる。
景王が残した捨て台詞は、悪夢のような現実となった。数日後、北の辺境を守っていたはずの武王が、突如として反旗を翻し、彼が掌握する精鋭部隊五万を率いて、帝都へ向けて進軍を開始したという報せが、王宮を震撼させたのだ。
「武王の奴……! 長年、牙を隠していたか!」
朝議は、混乱の極みに達した。帝都の防衛兵力は、三万。しかも、その中には、武王の影響下にある者も少なくない。まともに戦えば、勝ち目は薄い。大臣たちは、降伏か、遷都かと、無責任な議論を繰り広げるばかりだった。
暁月は、玉座で、静かにその光景を見ていた。その横顔は、かつてのような氷の冷徹さを取り戻していたが、私には、その奥にある深い絶望が見て取れた。父に愛されず、母を毒殺され、兄弟に裏切られ、そして今度は、叔父に国ごと滅ぼされようとしている。あまりに、過酷な運命。
私は、いてもたってもいられなかった。夜、彼の私室に、いつも以上に心を込めて作った薬膳料理を運んだ。心を落ち着かせ、決断力を高める効能を持つ食材を、ふんだんに使った献立だ。
「……食欲が、ない」
彼は、膳に目もくれず、窓の外を見つめていた。
「一口でも、召し上がってください。戦は、体力が必要です」
「……秀麗。お前は、逃げろ」
彼は、振り返らないまま、そう言った。
「朕は、おそらく、この戦で死ぬだろう。だが、お前まで巻き込むわけにはいかない。趙宇に命じて、都から逃がしてやる。だから……」
「お断りいたします」
私は、彼の言葉を、きっぱりと遮った。そして、彼の前に回り込み、その両手を取った。
「わたくしは、どこへも行きません。あなたのそばにいます。あなたが死ぬというのなら、わたくしも、ここで、あなたと共に死にます」
私の瞳に宿る、揺るぎない覚悟を見て、彼は息を呑んだ。
「……馬鹿なことを言うな」
「馬鹿ではありません。わたくしは、もう決めたのです。この命を、あなたのために使うと」
私は、私の計画を、彼に打ち明けた。それは、料理人である私にしかできない、大胆不敵な奇策だった。
数日後。武王の軍勢が、帝都まであと一日の距離に迫っていた。暁月は、自ら鎧をまとい、残った全ての兵を率いて、帝都前の平原で、武王軍を迎え撃つことを決断した。絶望的な籠城戦を選ぶより、一縷の望みを賭けて、野戦を挑む道を選んだのだ。
出陣前夜。私は、尚食局の全ての料理人を集め、最後の晩餐の準備をしていた。それは、兵士たちの士気を高めるための、盛大な宴だった。
そして、その裏で、私は、趙宇と、私を信頼してくれる数人の仲間と共に、別の作業を進めていた。それは、大量の「痺れ薬」と「眠り薬」の調合だった。どちらも、薬草から作られた、人体に害はないが、一時的に体の自由を奪うものだ。
決戦の朝。暁月率いる三万の軍と、武王率いる五万の軍が、平原で対峙した。
「甥よ、潔く玉座を明け渡せば、命だけは助けてやろう」
「叔父上こそ、今すぐ剣を収めれば、反逆の罪を問いません」
交渉は、決裂した。戦の火蓋が、切って落とされる。
しかし、その時、武王の軍勢の後方から、悲鳴と混乱が巻き起こった。
「な、なんだ!? 体が……動かん!」
「眠い……急に、力が……」
兵士たちが、次々とその場に倒れ伏していく。
昨日、私は、商人へと偽装させた趙宇たちを、武王の陣地へと潜入させていたのだ。そして、「皇帝軍からの差し入れだ」と偽り、痺れ薬と眠り薬を混ぜ込んだ酒と食料を、彼らに振る舞わせた。警戒心の薄い後方の兵卒たちは、まんまとその罠にかかったのだ。
武王軍の後衛は、戦う前に、その大半が、無力化された。
「小賢しい真似を!」
武王は激怒し、残った精鋭部隊に、総攻撃を命じた。しかし、後方の混乱で、その勢いは明らかに削がれている。それでも、敵の数は、まだ我々を上回っていた。
暁月は、自ら先陣に立ち、獅子奮迅の戦いを見せた。私もまた、後方の野戦病院で、負傷兵の治療と、兵士たちのための食事作りに奔走していた。
戦況は、一進一退。日が暮れ始め、両軍ともに疲労の色が濃くなってきた頃。
武王は、最後の勝負に出た。彼は、自ら手勢を率い、手薄になった我が軍の本陣――暁月と、私がいる場所へと、直接切り込んできたのだ。
「終わりだ、甥よ!」
武王の凶刃が、暁月へと迫る。暁月は、長時間の戦闘で、すでに満身創痍だった。
もうダメだ、と思った瞬間、私は、無我夢中で、近くにあった熱いスープの入った鍋を掴み、武王めがけて、思い切りぶちまけた。
「ぐわあああっ!」
熱いスープを顔面に浴び、武王が怯んだ、その一瞬の隙。暁月の剣が、彼の鎧を貫いた。
勝負は、決した。大将を討たれた武王軍は、降伏した。
戦いが終わった本陣で、私は、傷ついた暁月の手当てをしていた。
「……無茶を、するな」
彼は、呆れたように、しかし、愛おしそうな目で、私を見つめた。
「あなた様こそ」
私たちは、どちらからともなく、顔を寄せた。血と土の匂いがする、戦場での口づけ。それは、これまでで、最も、互いの命の温かさを感じる、誓いの口づけだった。
「秀麗。戦いが終わったら、お前を、俺の正式な皇后として迎えたい」
「……はい、喜んで、暁月様」
私の料理は、彼の体を癒し、彼の軍の危機を救った。そして、最後に、彼の命そのものを守った。
しかし、まだだ。まだ、全ては終わっていない。武王の背後には、彼に反乱を唆した、さらなる黒幕がいるはずだ。そして、それは、おそらく、この国よりも、もっと大きな存在。
私の本当の戦いは、この国の平穏を取り戻した、その先に待っている。愛する人の隣で、今度は、この世界そのものを、蝕む闇と戦うのだ。