最初の一匙
皇帝陛下を救う決意をした私。でも、どうすれば私の料理を届けられるの? 悩む私の前に現れたのは、陛下を心から案じる一人の宦官。彼こそが、私の計画の鍵を握る人物だった!
皇帝陛下が毒を盛られている。その衝撃的な事実を知ってから数日、私は焦りと無力感に苛まれていた。翡翠宮の片隅で、ただのモブ妃である私に一体何ができるというのか。正面から「陛下は毒を盛られています!」などと訴え出たところで、たちまち不敬罪で首が飛ぶのが関の山だろう。
まずは、私の作った料理を、陛下の口に届けること。それが全ての始まりだ。
幸い、この寂れた翡翠宮にも、小さな厨房が併設されていた。私は侍女に頼み込み、最低限の食材を分けてもらうと、早速調理に取り掛かった。作るものは決めている。前世の知識を総動員した、「解毒」と「滋養強壮」を目的とした特製の薬膳粥だ。
肝臓の機能を高める緑豆や、血を補い巡りを良くする黒米、そして気の流れを整える陳皮。それらをじっくりと時間をかけて炊き上げ、最後にほんの少しの岩塩で味を調える。派手さはないが、弱った体に優しく染み渡る、滋味深い香りが厨房に満ちた。
「でも、これをどうやって……」
完成した粥を器に盛りながら、私は途方に暮れた。皇帝の食事は、毒見役によって厳重に管理されているはず。私が作った得体の知れない料理など、門前払いされるに決まっている。
その時だった。宮の庭で、一人の若い宦官がふらりとよろめき、木の根元に座り込むのが見えた。私は慌てて水の入った杯と、自分のために取り分けておいた小さな器の粥を持って駆け寄った。
「大丈夫ですか? 顔色が優れませんよ」
「……失礼。少し、立ち眩みがしただけです」
彼は気丈に言ったが、その顔色は青白く、唇も乾いている。私は彼の前に粥の器を差し出した。
「もしよろしければ、これを。お腹の足しにでもなれば」
「いえ、滅相もございません。妃殿下のお食事をいただくわけには……」
「いいのです。たくさん作りすぎてしまいましたから」
私の真剣な眼差しに、彼は根負けしたようだった。一口、また一口と粥を口に運び、やがて空になった器を名残惜しそうに見つめた。
「……温かい。こんなに体に染み渡る食事は、初めてです」
「あなた、少し栄養が偏っているようですわ。きちんと食事はとれていますか?」
私の言葉に、彼はハッと顔を上げた。彼は皇帝の側近を務める宦官の趙宇と名乗った。そして、皇帝の食事が進まないことを案じるあまり、自分もろくに食事をしていなかったのだという。
彼こそ、私が探していた人物かもしれない。私は意を決して、彼に切り出した。
「実は、陛下のお食事のことが、少し気になっておりまして……。滋養のあるものを召し上がっていただければと、僭越ながらお作りしたのですが、届ける術がございません」
私は毒のことには触れず、ただ皇帝の体を案じる一人の妃として振る舞った。趙宇は驚いたように目を見開いたが、私の瞳の奥にある純粋な憂慮を感じ取ったのだろう。彼はしばらく考え込んだ後、深く頭を下げた。
「……わかりました。この趙宇、一度だけ、お力添えをいたしましょう。夜食としてならば、私が責任を持ってお届けします」
その夜、趙宇は約束通り、私の作った薬膳粥を皇帝の寝所へと運んだ。
「陛下、翡翠宮の李妃様より、お夜食の差し入れでございます」
玉座に座る皇帝・暁月は、書を読んでいた顔を上げ、無関心に粥を一瞥した。
「……下げよ。見慣れぬものは口にせん」
やはり、だめか。趙宇が諦めかけたその時、粥から立ち上る優しい湯気が、暁月の鼻孔をくすぐった。それは、いつも彼を苛む毒の甘い匂いとは全く違う、懐かしく、そして穏やかな香りだった。
「……一口だけだ」
暁月はそう呟くと、趙宇が差し出した匙を手に取り、ほんの少しだけ粥をすくって口に運んだ。その瞬間、彼の凍てついた氷のような瞳が、ほんのわずかに、見開かれた。何年も忘れていた、ただ純粋な「美味い」という感覚。そして、体の芯からじんわりと解きほぐされていくような、温かな感覚。
「この妃……名は、何と申した?」
それは、冷酷な皇帝が、後宮に数多いる妃の一人に、初めて興味を示した瞬間だった。