仕事をサボってヴェネツィアに行こう
月曜、午前九時半。
相良悠真の世界は、ヘッドフォンの内側の密閉された静寂と、モニターに絶え間なくポップアップする通知の明滅だけで構成されていた。
物理的な音は遮断できても、精神をすり減らすノイズまでは防げない。デュアルモニターの右側、『Slack』のウィンドウが視界の端で執拗にまたたくたび、心臓が小さく跳ねる。それは遠くで断続的に響く狙撃のようで、彼の集中を削いでいく。
左側のモニターには、地雷原のようなコードが広がっていた。創造性ではなく、慎重さだけが求められる作業。一行のミスが、Slackのメンション一つで炎上しかねないという恐怖が、彼の指先を慎重にさせ、同時に凍えさせていた。
フロアは静かだ。誰もがヘッドフォンを装着し、モニターと睨み合っている。会話も視線の交錯もない。すべてのコミュニケーションがテキストと絵文字に変換される、クリーンで息苦しい空間。
悠真は無意識に、デスクの隅に目をやった。業務マニュアルのなだれに埋もれ、一冊だけ場違いな本の背表紙がかろうじて見えている。
『図解 ヴェネツィア建築史』
三年前、現実から逃げ出すように衝動買いした本だ。今ではその美しい装丁を見ることすら、ささやかな罪悪感を伴った。
そのとき。
右のモニターに、最も見たくない名前からのダイレクトメッセージがポップアップした。
高木『@悠真さん、ちょっといい?』
ヘッドフォンをしていても、その声が鼓膜を直接揺さぶるような錯覚。悠真は深く、気づかれないようにゆっくりと息を吸った。キーボードに置いた自分の指先が、やけに冷たく感じられた。
* * *
『はい、何でしょうか?』
悠真は、当たり障りのない返信を打ち込むだけで、指先のすべての神経を使い果たしたような気がした。一秒、二秒。既読を示す小さなアイコンがついたかと思うと、すぐに返信がタイプされ始めた。
高木『昨日のA案件の件、深夜まで対応サンキュ! 俺の方で最終チェックして、さっき本番反映しといたよ』
その一行を読んだ瞬間、悠真の胃は氷の塊を飲み込んだように冷たくなった。
違う。最終チェックをしたのは俺だ。明け方、意識が朦朧とする中で、万に一つの可能性も潰すために、三度もテストを繰り返した。高木さんはただ、俺が送った「対応完了しました」という報告メールを受け取っただけのはずだ。
だが、Slackの入力欄に点滅するカーソルを前にして、指は動かない。
心の中で渦巻く反論の言葉は、テキストに変換される前に、すべて喉の奥で蒸発していく。ここで「僕がやりました」と主張すればどうなる? 簡単なことだ。「チームの和を乱す、報告もできない新人」というレッテルが貼られるだけ。
『ありがとうございます』
結局、打てたのはその一言だけだった。
そして、そのメッセージを送信した数秒後、悪夢は現実になった。より開かれた、関係者全員が参加するチャンネルに、通知のバッジが灯る。高木さんからのメンション付き投稿だ。
高木『@channel 皆様、ご心配をおかけしていたA案件のクリティカルバグですが、先ほど解消いたしました。深夜に及んだ @悠真 さんの粘り強い調査と、私の最終調整でなんとか乗り切りました! いやー、チームワークの勝利ですね。ご協力ありがとうございました!』
完璧な文章だった。
悠真の働きを「粘り強い調査」と具体的に褒め称えることで、彼に配慮しているように見せている。しかし、解決の最終工程を「私の最終調整」と断言し、手柄の核心を自分のものにしている。そして「チームワークの勝利」という、誰もが反論できない美しい言葉で蓋をする。完璧な功績の横取りだった。
悠真は、投稿の下に次々と追加されていくリアクションの絵文字を、ただ眺めていた。部長からの拍手のスタンプ。営業担当からの感謝の祈りマーク。
そして、悠真自身も、この流れに逆らうことは許されない。
マウスカーソルが、震える。
リアクション追加のボタンに吸い寄せられていく。彼は、ずらりと並んだカラフルな絵文字の中から、親指を立てたものを選び、クリックした。
その瞬間、魂がすり減る、乾いた音がした。
壁に貼られた「心理的安全性」のポスターが、皮肉な笑みを浮かべて彼を見下ろしているように思えた。
もう、限界だった。
* * *
親指を立てた絵文字が、高木のメッセージの下にちょこんと収まった。それを見届けた悠真の指は、マウスから滑り落ちた。
まるで、糸が切れた操り人形のように。
彼は、椅子を引く音さえ立てず、すっと立ち上がった。
PCの画面は点灯したままだ。右のモニターでは、今もSlackの通知が明滅を繰り返している。ヘッドフォンも、飲みかけのペットボトルのお茶も、デスクの上に置いたまま。まるで、数分でトイレから戻ってくるかのような、完璧な擬態だった。
ただ、ズボンのポケットにスマートフォンと財布を滑り込ませ、無意識にデスクの通勤カバンを掴む。その小さな、しかし決定的な行為を、誰も見てはいなかった。
フロアを横切り、自動ドアへと向かう。ヘッドフォンをした同僚たちの背中が、墓石のように規則正しく並んでいる。誰も、悠真の静かな離脱には気づかない。
プシュー、という短い圧縮音と共に、オフィスの自動ドアが開く。
生ぬるい外気が、淀んだ室内の空気ばかり吸っていた肺を不意打ちに満たした。車の走行音、遠くのサイレン、雑踏のざわめき。五感への暴力的なまでの情報量が、麻痺していた彼の思考を無理やり再起動させる。
――俺は、何をしているんだ?
理性の声が、頭の片隅でか細く悲鳴を上げた。
戻れ。今ならまだ間に合う。「体調が悪くて」とでも言えば、誰も咎めない。社会人として、大人として、正しい道はどちらかなんて、分かりきっている。
だが、足は止まらない。
むしろ、歩みは加速していく。駅へと向かうアスファルトの上を、プログラムされた機械のように進んでいく。
もう、どうでもよかった。
正しい道も、大人の分別も、明日の評価も。すり減って、削り取られて、もう何も残っていないのだから。
最寄り駅のホームに着く。
いつも乗る、都心方面行きのプラットホーム。ガラスの向こう側には、灰色のスーツを着た人々が、スマートフォンの画面に視線を落としながら電車を待っている。昨日までの自分、そしておそらく、明日からも続くはずだった自分の姿がそこにあった。
そのとき。
反対側のホームに、アナウンスと共に赤い電車が滑り込んできた。
行き先表示板の四文字が、彼の目に焼き付く。
『快特 羽田空港』
空港。
彼の日常とは、最も縁遠い場所。世界への出口。
悠真は、吸い寄せられるように階段を駆け下り、反対側のホームへと駆け上がった。
発車のベルが鳴り響いている。
彼は、ほとんど転がり込むように、その赤い車体へと身を投げ出した。
プシュー。
目の前でドアが閉まる。
車窓の向こうで、見慣れた駅の風景が、急速に遠ざかっていく。
その瞬間、強烈な背徳感と、魂が浮き上がるような解放感が、ないまぜになって彼の全身を貫いた。悠真は、ドアにもたれかかったまま、ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
* * *
羽田空港の国際線ターミナル。
電車のドアが開いた瞬間、悠真はオフィスとも街とも違う、独特の空気を吸い込んだ。それは消毒液のかすかな匂いと、香水の甘い香り、そして人々の期待感が入り混じった、非日常の匂いだった。
彼は、オフィスを出る際に無意識に肩にかけていた通勤カバンを握りしめた。幸いにも、いつ使うとも知れない海外出張に備えて更新したパスポートが、その中に入れっぱなしになっていた。我ながら用意周到だと自嘲しつつも、それがまるで、今日のこの日のために準備されていた運命のようで、奇妙な感覚に陥る。
行き交う人々は誰もが高揚し、これから始まる旅への期待に満ちている。それに比べて、灰色のスーツを着た自分は、この場所に迷い込んだ幽霊のように場違いだった。
どこへ行く?
何をする?
そもそも、自分は何をしているんだ?
自問自答が、頭の中でノイズのように響く。彼は、その思考を振り払うように、巨大な出発案内表示板を見上げた。
デジタルサイネージに、無数の便名と行き先が並んでいる。
ソウル、台北、バンコク。
現実的なアジアの都市名が、彼に「お前が行けるのは、せいぜいこの辺りだ」と語りかけてくるようだった。
そのとき、表示が一斉に切り替わる。
パリ、ロンドン、ニューヨーク……。そして、その中に、ひときわ異彩を放つ文字列が、彼の瞳に飛び込んできた。
『ヴェネツィア VENEZIA』
その九文字を見た瞬間、脳裏に、デスクの隅で埃をかぶっていた本の表紙がフラッシュバックした。
『図解 ヴェネツィア建築史』
本の中で見た、ゴンドラの浮かぶ運河、迷路のような路地、仮面をつけた人々が闊歩するカーニバル。それは現実の都市というより、ファンタジーの世界の地名のように彼の目に映った。
車も、高層ビルも、そしておそらく、Slackの通知もない街。
他の都市名は「旅行」を意味していた。
だが、ヴェネツィアだけは「逃避」にふさわしい、甘美な響きを持っていた。
まるで、呪文にかけられたかのように、彼はもうその名前から目が離せなくなっていた。
ほとんど無意識のまま、一番近くにあったイタリア国旗を掲げた航空会社のカウンターへと歩み寄る。グランドスタッフの女性が、にこやかに問いかけてきた。
「どちらまでご出発ですか?」
悠真は、自分でも驚くほど小さな声で、こう答えた。
「……ヴェネツィア」
「本日発の便でよろしいですか?」
「一番、早いので。お願いします」
パスポートとクレジットカードを提示する。カードの限度額も、口座の残高も、もうどうでもよかった。
夢遊病者のように手続きを終え、発券された一枚の搭乗券を手にしたとき、彼は奇妙な静けさに包まれていた。現実感のない、薄い紙切れ。だがこれ一枚が、自分をここではないどこかへと連れて行ってくれる。
それは希望というより、むしろ「これで、もう戻れない」という、心地よい絶望感だった。
悠真は、ゆっくりと振り返り、保安検査場へと続くゲートの光の中へ、一歩を踏み出した。
* * *
十数時間のフライトの間、悠真はほとんど眠れなかった。狭い座席で身体を丸め、自分がいかに無計画で、馬鹿げたことをしているかを繰り返し自問し続けた。しかし、後悔よりも、もう後戻りできないという奇妙な安堵の方が、わずかに勝っていた。
そして今、彼は水上バスのデッキに立ち、呆然と目の前の光景を眺めている。
空港から続く鈍色の海が、いつの間にか建物のひしめく運河へと姿を変えていた。赤茶げたレンガの壁、緑青の浮いた銅の屋根、ゴシック様式のアーチ窓。一つとして同じ形のない、歴史を吸い込んだ建物たちが、迷路のように両岸から迫ってくる。太陽の光が水面に乱反射し、きらきらと光の破片を建物の壁に投げかけていた。東京の無機質な光とはまるで違う、生命感に満ちた光だった。
遠くから、教会の鐘の音が聞こえる。カモメの甲高い鳴き声と、歌うようなイタリア語の響きが混じり合う。潮の香りに、近くのレストランから漂うニンニクとトマトソースの匂いが、不意に混ざった。
デスクの隅で埃をかぶっていた本。その中で見たどの写真よりも、目の前の風景は圧倒的に生々しく、鮮やかだった。まるで、精巧に作られた巨大な映画のセットに、一人だけ迷い込んでしまったかのような、現実感のない感動が彼の全身を包む。
――すごい。
声にならない声が、胸の奥で震えた。
そして、その感動と同時に、どうしようもない感情が胸にぽっかりと穴を開けた。
すごい、と、誰かに言いたかった。
この光の美しさを、この空気の匂いを、誰かと分かち合いたかった。
ふと周りを見渡せば、デッキは陽気な喧騒に満ちている。寄り添って同じ景色を眺めるカップル、はしゃぎながら写真を撮り合う友人グループ、退屈そうな顔の子供をなだめる若い夫婦。彼らの幸福そうな姿が、まるで自分だけがこの世界から拒絶されているかのように感じさせた。
Slackの通知も、高木の顔も、ここにはない。
望んだはずの完全な自由が、今はただ、鋭利な孤独感となって胸に突き刺さる。
やがてヴァポレットは、ひときわ賑やかなサン・マルコ広場近くの船着き場に着いた。喧騒に押し出されるように船を降りた悠真の目に、黒く艶やかな船体が、すうっと水路を滑っていくのが見えた。
ゴンドラだ。
この街の象徴。彼が、来る前から唯一知っていたヴェネツィアの姿。
一人で乗るのは、少し勇気がいった。あれは恋人たちが愛を囁やきながら乗るものだという、陳腐なイメージが頭をよぎる。
だが、すぐにその考えを打ち消した。
誰の目を気にしているんだ?
仕事をサボって、地球の裏側まで逃げてきたんだ。一人でゴンドラに乗ることくらい、何だというのだ。
彼は、青と白の縞模様のシャツを着て、客引きをしていた陽気なゴンドリエーレの元へ、意を決して歩み寄った。
かすれた声で、できるだけ平然を装って、こう告げた。
「……一人、いいですか?」
* * *
ゴンドラは、水路を滑るように進んでいた。
大運河の喧騒を離れ、観光客の声も届かない、迷路のような細い水路へと入っていく。建物の壁が両側から迫り、空は細く切り取られた青い帯になった。
世界から、音が消えた。
聞こえるのは、ゴンドリエーレが時折ハミングする鼻歌と、オールが水をかく、ちゃぷ、という気怠い水音だけ。船底を叩く水の感触が、座席を通して心地よく伝わってくる。
水面に近い低い視点から見上げる建物は、壁のひび割れや、窓辺に置かれた小さな植木鉢まで、生々しく目に映った。悠真は、この街の血管の中を、血球になった気分で漂っているようだと、ぼんやり思った。
そうだ。この瞬間のために、俺はここに来たんだ。
高木も、Slackも、息苦しいオフィスも、今はもう存在しない。初めて、心の底からそう思えた。長い逃避行が、ようやく報われた気がした。
その、静寂が最高潮に達した瞬間だった。
にゅっ、と。
視界の端から、銀色の棒のようなものが、まるで意志を持っているかのように伸びてきた。その先端には、黒いスマートフォンのレンズが、無遠慮にこちらを向いている。自撮り棒だ。
「ヘーイ! そこのお兄さーん! 一人旅ですか!? 渋い! 最高じゃないですかー!」
鼓膜を突き破るような、太陽みたいに明るい声。
悠真が驚いて声のした方を見ると、隣の水路を並走してきた別のゴンドラに、快活に笑う一人の日本人女性が乗っていた。ショートカットの髪に、大きな瞳。小さなカメラのついたマイクを口元に寄せ、こちらに満面の笑みを向けている。
「見て見て、視聴者のみんなー! ベネチアで、一人ゴンドラを満喫してる、クールな日本人を発見しちゃいましたー! お兄さん、今の気分、一言お願いしまーす!」
気分も何もない。台無しだ。
俺の静寂を返してくれ。
悠真は、言葉もなく固まった。助けを求めるように自分のゴンドリエーレを見たが、陽気な彼は「チャオ、ベッラ!」などと言いながら、楽しそうに手を振り返している。どうやら、この状況を楽しんでいるらしい。
「あれ、もしかしてシャイな感じですか? それもまた良きー! じゃあ、ゴンドラからの景色、視聴者のみんなにも見せてあげてくださーい! はい、こっち向いて、チーズ!」
レンズが、ぐいっと悠真の顔に寄せられる。
彼は、カメが甲羅に首を引っ込めるように、思わず身を縮めた。
黒く艶やかなゴンドラ。歴史を刻んだ石造りの壁。オールを操る、伝統衣装の船頭。
その完璧なまでに調和した世界に、スマートフォンと自撮り棒、そして「視聴者のみんな」という現代的な単語が、不協和音を響かせながら、土足で踏み込んでくる。
最悪だ。
悠真は、ただただ天を仰いだ。細く切り取られたヴェネツィアの空は、先ほどまでとは打って変わって、憎たらしいほど青く澄み渡っていた。
* * *
サン・マルコ広場は、様々な言語の洪水だった。
イタリア語、英語、ドイツ語、中国語。人々の楽しげな喧騒が、悠真にとっては意味をなさない音の壁となり、彼を世界から孤立させていく。彼は、この美しい広場の真ん中で、完全に一人だった。
その時、雑踏の中から、彼の鼓膜を鮮明に打つ言葉が聞こえた。
日本語だ。
「え、うそ、なんで!? 動いてよ、お願いだから……っ」
声のした方に目をやると、少し離れた場所で、ゴンドラで会ったあの栗色の髪の女性、リナが、顔面蒼白で手にした機材と格闘していた。ライブ配信中だったのだろう、その必死な声には、プロとしての焦りと、助けを求めるような悲鳴が混じっている。
周りの観光客たちは、何事かと一瞥をくれるだけで、彼女の絶望には気づかない。この場所で、彼女の言葉の意味を、その深刻さを理解できる人間は、おそらく悠真だけだった。
(……関係ない)
彼は、一度目を逸らした。自分は、社会から、人間関係から逃げてきたのだ。見知らぬ他人のトラブルに、首を突っ込む義理などない。
(でも……)
もう一度、彼女を見る。
美しい広場、楽しげな人々。その中で、たった一人、日本語で助けを求め、パニックに陥っている同胞。もし、自分がここで彼女を無視したら? この見知らぬ土地で、技術的なトラブルと、言葉の通じない孤独に、彼女を置き去りにするのか。
それは、自分がオフィスで味わった、誰にも助けてもらえない絶望と、どこか似ている気がした。
悠真は、深く、深く息を吸った。まるで、冷たい水に飛び込む前の、最後の覚悟のように。そして、人混みをかき分けるように、彼女の方へと、一歩を踏み出した。
* * *
「……すみません」
背後からかけられた日本語の声に、リナはびくりと肩を震わせた。振り返ると、ゴンドラの時の、あの暗い表情の男が立っている。
「その機材、見せてもらっても、いいですか」
彼の声は小さく、おどおどしていた。しかし、その目は、彼女ではなく、彼女が手にしているジンバルだけを、まっすぐに見ていた。その瞳には、医者が患者を診るような、不思議な真剣さが宿っている。
リナは、何かに憑かれたように、こくりと頷き、彼に機材を手渡した。
受け取った瞬間、悠真の雰囲気が変わった。
ただ、冷静な目で端末を観察し、迷いのない指先で、驚異的な速さで操作を始める。その姿は、オフィスで無気力にキーボードを叩いていた彼とは、まるで別人だった。
いくつかのボタンの長押し、ケーブルの抜き差し、設定画面の奥深くにある隠しコマンドの入力。
数々の「おまじない」の後、死んでいたはずのジンバルが、ぶる、と小さく震え、生命を取り戻したかのように、ゆっくりと水平を保ち始めた。スマートフォンには、見慣れた配信アプリの起動画面が表示されている。
「……あ」
リナは、その一連の流れを、魔法でも見ているかのように、ただ息を呑むことしかできなかった。
* * *
「本当に、ありがとうございました……!」
広場の喧騒を離れたカフェで、リナは改めて深々と頭を下げた。
「あの時、本当にパニックで……周りに誰も頼れる人もいないし、言葉も通じないし……もう、今日の配信は諦めようって思ってたんです。悠真さんが声をかけてくれなかったら、多分、広場の隅で泣いてました、私」
「……いえ」
悠真は、彼女のあまりにも率直な感謝に、どう反応していいか分からず、ただコーヒーカップに視線を落とした。
「でも、どうして、助けてくれたんですか?」
リナは、不思議そうに首を傾げた。
「私、ゴンドラの時、すごく失礼なことしちゃったのに……」
悠真は、少しだけ逡巡した。
そして、カップを置くと、小さな声で、しかし、はっきりとこう言った。
「……日本語が、聞こえたので」
その、あまりにも素朴で、飾り気のない一言に、リナは言葉を失った。
ヒーロー然とした自己顕示欲でも、下心でもない。ただ、異国の地で、同じ言葉を話す人間が困っているのを、放っておけなかった。彼の行動の理由は、ただ、それだけだった。
彼女は、目の前の、この不思議な男を、もう一度、じっと見つめた。
そして、初めて、花が綻ぶような、心からの笑顔を見せた。
「……悠真さん、て言うんですね。私、リナです」
二人のヴェネツィアは、今、この瞬間から、全く新しい色で輝き始めた。
* * *
「悠真さんって、一体、何者なんですか?」
カフェのテーブル越しに、リナが心からの疑問といった表情で問いかける。その大きな瞳には、もう警戒心はなく、純粋な好奇心だけが揺れていた。
「……システムエンジニアです。古い機械の、保守とか」
悠真は、彼女のまっすぐな視線から逃れるように、コーヒーカップに目を落とした。自分の仕事が、ひどくちっぽけで、退屈なものに思えた。
「へえー。でも、すごい技術を持ってるのに、なんだか……あまり楽しそうじゃないですね」
リナは、核心を突くような、しかし不思議と嫌味のない口調で言った。
彼女の言葉に、悠真の心臓が小さく軋む。
「……正しく、動かすことだけが、すべてなので。新しいものを作るわけじゃ、ないですから」
自嘲気味に、そう答えるのが精一杯だった。
すると、リナは「あ」と小さく声を漏らし、何かを深く納得したように頷いた。
「……分かります、それ。すごく。私も、新しい企画を考えても、結局は再生回数とか、コメントとか……そういう『正しさ』みたいなものに、合わせなきゃいけない時があって。自分が本当に撮りたいものって、何なんだろうなあって、時々」
リナは、そこで言葉を切ると、少し寂しそうに笑った。
悠真は、驚いて彼女の顔を見た。
全く違う世界にいると思っていた。光の中にいる彼女と、日陰にいる自分。しかし、その魂が抱えている痛みは、驚くほど似ていた。
その沈黙を破るように、リナがわざと明るい声を出した。
「じゃあ、行きましょうか! 私の『本当に撮りたいもの』、探すのを手伝ってくださいよ、コンサルタントさん!」
それは、先ほどのビジネスライクな響きではなく、二人の間だけで通じる、親密な冗談のように聞こえた。
カフェを出ると、午後の日差しが柔らかく街を包んでいた。
二人は、あてもなく、隣り合って歩き始めた。先ほどまでのぎこちなさは、もうない。時折、腕が触れ合いそうになる距離が、悠真の心を落ち着かなくさせた。
やがて、小さな橋の前にたどり着く。石の壁に囲まれた、窓に鉄格子のはまった橋だ。
「ため息の橋、ですね」と悠真が呟くと、リナが「恋人たちの有名なパワースポットですよね!」とカメラを構えようとする。
「……昔、囚人が、牢獄に入る前に、この橋の窓からヴェネツィアの景色を見て、これが最後かと、ため息をついたそうです」
悠真は、誰に言うでもなく、静かに言った。
リナは、カメラを構える手を、ぴたりと止めた。
そして、橋と悠真の顔を交互に見比べると、少し頬を膨らませて、わざと文句を言うような口調で言った。
「あーあ! もう、悠真さんのせいです!」
「え?」
「せっかく『ここでキスしたカップルは永遠に結ばれるんですよー!』って、ロマンチックなレポートをしようと思ったのに! もう、この橋がただの悲しい囚人の橋にしか見えなくなっちゃったじゃないですか! どうしてくれるんですか、これ!」
彼女は、ぷん、と拗ねたような表情で、悠真の腕を軽く叩いた。
予想外の反応に、悠真は狼狽する。
「あ、いや、すみません、そんなつもりじゃ……」
すると、リナは、こらえきれなくなったように、くすくすと笑い出した。その笑い声は、ヴェネツィアの空に弾ける、楽しげな音楽のようだ。
「うそうそ。面白いです、その話。すごく」
彼女は、涙目になりながら言った。
「でも、私がいつか好きな人とここに来たら、その話は内緒にしておきます」
その、悪戯っぽい笑顔に、悠真は、ただ顔を赤くすることしかできなかった。
西日が、楽しそうに笑う彼女の横顔と、戸惑う自分の顔を、同じオレンジ色に染めていた。
* * *
夢のような時間は、空港の無機質な白い光によって、強制的に終わりを告げられようとしていた。
帰国日の朝。ヴェネツィア・マルコポーロ空港の出発ロビーで、悠真とリナは、保安検査場の入り口を前に、言葉少なに立っていた。
「……フライト、遅れてないですか」
「はい、大丈夫みたいです」
「そっか」
「……はい」
昨日、あれほど弾んでいた会話が嘘のように、今は途切れ途切れの単語だけが、二人の間に落ちては消える。腕が触れ合いそうだった親密な距離は、今や、決して越えられない透明な壁に隔てられているかのようだ。
連絡先を。
その一言が、悠真の喉まで出かかっては、何度も泡のように消えていく。日本に帰れば、灰色の日常が待っている。この、太陽のような女の子とは、もう二度と会うことはないのかもしれない。その現実が、鉛のように彼の体を重くする。
リナもまた、何か言いたげに唇を噛み、床のタイルを意味もなく見つめている。彼女のそんな表情を、悠真は初めて見た。
やがて、無情にも時間は過ぎていく。
「……じゃあ、そろそろ」
悠真が、意を決して切り出した。これ以上、この気まずい時間を引き延ばすのは、お互いにとって苦しいだけだ。
「あ、うん……」
リナは、寂しそうに頷いた。
悠真が、別れの言葉を告げようと背を向けかけた、その瞬間だった。
「あ、そうだ!」
リナが、何かを思いついたように、ぱっと顔を上げた。その笑顔は、必死に作り上げたように、少しだけ揺れている。
「あの、もし……もしですよ? 今回の動画が、すっごくバズったら……その時は、コメント欄で、悠真さんのこと、呼び出しますから!」
「え……」
「『あの神対応のイケメンは今!?』みたいな感じで、続編、撮らなきゃじゃないですか! ね?」
彼女は、早口でそうまくし立てた。それが、お互いの気まずさを打ち破るための、彼女なりの精一杯の照れ隠しなのだと、悠真には分かった。
インターネットの気まぐれに委ねられた、あまりにも曖昧な約束。
しかしそれは、悠真にとって、暗い日常に戻るための、たった一つの、しかし何よりも強い光の糸に思えた。
「……分かりました」
悠真は、ようやく、小さな笑みを浮かべることができた。
「期待しないで、待ってます」
「ちょっと! そこは期待して待ってるところですよ!」
リナは、そう言って頬を膨らませると、自分の腕を軽く叩いた。
悠真は、その仕草を目に焼き付けると、今度こそ、きっぱりと背を向けた。
一度も、振り返らなかった。
ガラスの向こう側へと消えていく自分の背中を、彼女がどんな目で見送っているのか、知らないままでいたかった。
* * *
週末は、存在しなかったかのように消え去った。
時差ボケの重い頭痛と、ヴェネツィアの風景の断片が、悠真の意識の中を無秩序に漂い続ける。そして月曜の朝、彼は再び、あの自動ドアの前に立っていた。
プシュー、という気の抜けた音。
澱んだリサイクル空気。青白い蛍光灯の光。
何もかもが一週間前と寸分違わず、悠真の帰りを待ち構えていた。まるで、彼の短い逃避行など、始めからなかったことにするかのように。
自席に着き、PCの電源を入れる。
彼は儀式のようにヘッドフォンを装着したが、耳を塞いでも、記憶の中の音は消えなかった。自分の名前を呼ぶリナの声、彼女の楽しげな笑い声が、頭の中で繰り返し再生される。
モニターに映る、無機質なログイン画面の青。
その向こうに、夕日に染まる大運河のオレンジ色が、幻のように重なって見えた。
あれは、本当に現実だったのだろうか。
あまりにも鮮やかで、美しすぎたせいで、長いフライトの間に見た、都合のいい夢だったのではないか。
空港で交わした、あの約束。
ヴェネツィアの太陽の下では、それが確かな希望に思えた。だが、この青白い蛍光灯の下では、あまりにもか弱く、非現実的なおとぎ話にしか感じられない。動画がバズる? コメント欄で連絡が来る? そんな奇跡が、この灰色の現実の延長線上で起こるはずがない。
彼の理系的な思考が、その確率の低さを、無慈悲に弾き出していた。
「重度の胃腸炎」という嘘も、鉛のように彼の肩にのしかかる。これから、同僚たちの憐れみと、高木の疑いの視線に、一日中晒されなければならない。
悠真は、深くため息をつくと、Slackのアイコンをクリックした。
溜まった未読メッセージの数々。プロジェクトの進捗報告。見慣れた日常が、彼を再び檻の中へと引きずり込んでいく。
夢の時間は、終わった。
彼は、完全に元の、無力な自分へと、引き戻されようとしていた。
* * *
悠真は、ヘッドフォンで耳を塞ぎ、ひたすらキーボードを叩いていた。意識を仕事だけに集中させ、記憶の中のヴェネツィアを、リナの笑顔を、頭の隅へと追いやろうと必死だった。見えない人間になろう。ここにいない人間になろう。
「おー、相良。生きてたか」
不意に、ヘッドフォンの上から、ねっとりとした声が降ってきた。
悠真がびくりと顔を上げると、デスクの横に高木が立っていた。腕を組み、値踏みするような視線で、彼を見下ろしている。
「重い胃腸炎だったらしいな。大変だったな」
その口調には、心配の色など微塵もなかった。あるのは、獲物を見つけた蛇のような、冷たい好奇心だけだ。悠真は声が出せず、ただ小さく頷いた。
「まあ、無理もないか。慣れない海外旅行と、『撮影』で、忙しかったもんなあ」
イタリア、という単語すら使わない、遠回しで、しかし致命的な一言。
悠真の全身の血が、一瞬で凍りついた。
高木は、悠真の狼狽を心底楽しむように眺めると、ゆっくりと自分のスマートフォンを取り出した。そして、その画面を、ほとんど押し付けるように悠真の目の前に突きつける。
「これ、お前だろ?」
悠真の視線が、画面に吸い寄せられる。
動画サイトの、見慣れた再生画面。背景は、陽光に満ちたヴェネツィア。
そしてサムネイル画像の中央には、ぎこちなく固まる自分と、その隣で太陽のように笑うリナの姿があった。
その上には、彼の尊厳を打ち砕くにはあまりにも無邪気な、しかし、だからこそ残酷なタイトルが躍っていた。
『【放送事故】配信中に機材が全滅……イタリアで絶望してたら、現れた謎の日本人が神すぎたwww』
世界から、音が消えた。
心臓が、肋骨を内側から叩きつける。呼吸が、喉の奥で止まる。学生時代、大勢の聴衆の前で声が出なくなった、あの日の記憶が、鮮明に蘇る。無数の視線が、ナイフのように突き刺さる感覚。
「おい、みんな、ちょっとこれ見ろよ!」
高木の大きな声が、静かなオフィスに響き渡った。
「うちの相良が、会社休んでイタリアでユーチューバーとデートしてたぞ!」
その下品な声に、墓石のように並んでいた同僚たちの背中が、一斉にこちらを向いた。一人、また一人と席を立ち、好奇の視線を隠そうともせず、悠真のデスクの周りに集まってくる。
狭いデスクスペースが、あっという間に、円形の晒し台に変わる。
悠真は、動けなかった。声も出ない。
ただ、高木のスマートフォンの中で、自分とは別人のように生き生きと笑っている自分の顔と、それを囲む同僚たちの、値踏みするような視線との間で、身動き一つできずに、囚われていた。
* * *
円形闘技場の、晒し台。
悠真は、同僚たちの視線に、ただ黙って射抜かれていた。高木の、歪んだ笑顔。他の者たちの、好奇と侮蔑が入り混じった眼差し。学生時代の、あの悪夢。頭の中で、警報が鳴り響いている。
――ああ、まただ。また、ここで、俺は何もできずに……。
その時、高木が、嘲笑うように動画の再生ボタンを押した。
スマートフォンの小さなスピーカーから、ヴェネツィアの音が溢れ出した。リナのパニックに陥った声。そして、静かで、落ち着いた自分の声。
画面の中の自分が、リナの機材を修理する様を、まるで他人事のように見ていた。その時の自分の指先は、迷いがなく、的確だった。その横顔は、自分でも知らないほど、真剣だった。
「うわ、コメントやば」
同僚の一人が、高木の手からスマートフォンを覗き込み、声を上げた。
「『機材トラブル直すとこ、普通に惚れるわ』だってよ」
「『「日本語が聞こえたので」は名言すぎる』とか書かれてるぞ」
「『この人、最初と最後で顔つき全然違う。いい旅だったんだな』……ほんとだ」
顔も知らない、誰かの言葉。
その一つ一つが、悠真の耳に、クリアに届く。
ヘッドフォンが遮断できなかったオフィスの中のノイズが、遠のいていく。代わりに、温かい言葉の数々が、彼の周りを見えない盾のように、そっと取り囲んでいくようだった。
世界の中心は、この息苦しいオフィスではない。
自分の価値は、高木が決めるものではない。
「で?」
高木は、場の空気が自分の意図とは違う方向に流れていることに苛立ったのか、下品な声で言った。
「結局、この女とはどうなったんだよ。ヤったのか?」
最悪の侮辱だった。
しかし、悠真の心は、不思議なほど静かだった。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
スマートフォンの画面ではない。好奇の目に晒す同僚たちでもない。
まっすぐに、高木の目を見据える。
そして、静かに、しかし、凛と響く声で言った。
「……高木さんには、関係ないことです」
オフィスに、時間が止まったかのような沈黙が落ちた。
高木は、予想外の反撃に、一瞬、虚を突かれた顔をしている。周りの同僚たちも、驚いたように目を見開いている。
悠真は、もう彼らを見てはいなかった。
ただ、心の内で輝き始めた、小さな、しかし確かな光を感じていた。彼は、自分の魂の処刑台の上で、たった一人で、しかし確かに、立ち上がっていた。
* * *
しんと静まり返ったオフィスで、悠真はもう誰のことも見ていなかった。
虚を突かれた高木の顔も、戸惑う同僚たちの視線も、彼の意識からは完全に消え去っていた。彼は、円形闘技場の真ん中から、ただ静かに自席へと戻る。そして、まるで何事もなかったかのように、自分の椅子に深く腰掛けた。
その悠然とした態度に、周りの者たちは逆に居心地が悪くなったのか、一人、また一人と、蜘蛛の子を散らすように自分のデスクへと戻っていった。
悠真の心臓は、まだ激しく脈打っていた。しかし、それはもはや恐怖からではなかった。
生まれたての、熱い希望が、彼の心臓を叩いていた。
彼は、震える指でブラウザを開き、動画サイトにアクセスした。検索窓に「ヴェネツィア 配信者」と打ち込むと、真っ先に、あのサムネイルが表示された。
クリックする。
自分のPCのモニターに、ヴェネツィアの風景が広がる。リナの笑い声が、今度は彼自身のヘッドフォンから、クリアに、そして温かく響いた。
空港で交わした、あの約束。
『もし、すっごくバズったら……』
画面の右側に表示された再生回数は、彼の想像をはるかに超える数字を叩き出していた。
ということは。
悠真は、ゴクリと唾を飲んだ。
マウスのホイールを回し、画面をコメント欄へとスクロールさせる。そこには、温かい言葉の奔流があった。だが、彼の目は、そのどれにも留まらない。必死に、一つの名前を探している。
どこだ。どこにあるんだ。
何千というコメントの中に、埋もれてしまったのか。それとも、あれはただの、優しい嘘だったのか。
希望の光が、再びかき消えそうになった、その時だった。
彼は、コメント欄の一番上に、他とは違う、特別な一角が設けられていることに気がついた。
【Rinaによって固定されています】
それは、投稿者である彼女だけが設定できる、王の玉座のような場所。
そこに、一つのコメントが、すべての賞賛の言葉の頂点に、王冠のように鎮座していた。
> Rina『悠真さんへ! 約束通り、過去最高の再生回数です! これも全部、あの時、助けてくれた悠真さんのおかげです! 本当にありがとう! つきましては、日本で「あの人は今」企画、ガチでやりませんか? ご連絡、お待ちしてます!笑』
悠真は、その文章を、一文字ずつ、貪るように読んだ。
そして、もう一度。また、もう一度。
熱い何かが、胸の奥からこみ上げてくる。彼は、思わず手で口元を覆った。
灰色のオフィス。青白い蛍光灯。何も変わらない現実の世界。
しかし、モニターに映るその数行のテキストだけが、彼の世界を、祝福の光で、あたたかく、あたたかく照らしていた。
* * *
祝福の光は、すぐには消えなかった。
悠真は、その後も数分間、ただモニターのコメントを眺めていた。まるで、乾いた砂が水を吸い込むように、その言葉を心に染み込ませていた。
不意に、Slackの通知がポップアップした。高木からだった。
『例のB案件の件、急ぎで仕様変更の対応お願い。今日中』
一週間前の彼なら、この一文だけで、胃が縮み上がっていたはずだ。理不尽な短納期。高圧的な文面。しかし、今の悠真の心は、不思議なほど穏やかだった。
彼は、一度、目を閉じる。
ヴェネツィアの風の匂いと、リナの笑い声を思い出す。そして、目を開けた。
目の前にあるのは、相変わらずの灰色の日常だ。だが、世界の色彩は、明らかに変わっていた。
彼は、キーボードに指を置いた。
以前のような、凍えるような感覚はない。
彼は、冷静に、しかし、確かな意志を持って、返信を打ち始めた。
『承知いたしました。そちらの件、現在対応中のタスク完了後、明日の午前中に着手いたします。なお、先週私が対応いたしましたA案件の修正に関する報告書を添付いたしましたので、念のため、ご確認いただけますと幸いです』
それは、反逆ではない。プロとしての、ごく当たり前の業務連絡だ。
しかし、これまで一方的に搾取されるだけだった彼にとっては、それは、自分の仕事と尊厳を守るための、静かで、しかし力強い「始まりの一打」だった。
送信ボタンを押す。
彼は、もう、返事を恐れてはいなかった。
* * *
高木への返信を終えた悠真は、もう一度、動画サイトのページを開いた。
彼の心は、もうオフィスにはなかった。
リナの、固定されたコメント。
『ご連絡、お待ちしてます!笑』
その最後の、少し照れたような笑顔の絵文字が、彼の心を温かくする。
彼は、コメントへの返信欄をクリックした。白い入力ボックスが、彼を待っている。
どんな言葉を返すべきだろうか。
気の利いた、面白いことを言うべきだろうか。それとも、真面目に、感謝の言葉を綴るべきか。
少しだけ、迷う。
しかし、すぐに、その必要はないのだと気づいた。
彼女は、自分の、あの不器用な誠実さを受け入れてくれたのだ。ならば、自分も、ありのままの言葉を返せばいい。
悠真は、ゆっくりと、しかし、迷いのない指で、キーを叩いた。
たった、六文字。
『はい、喜んで。』
Enterキーを押す。
その指は、もう震えていなかった。
それは、徹夜で修正パッチを作っていた指であり、ヴェネツィア行きのチケットを買った指であり、彼女の機材を直した指であり、そして今、新しい人生への扉を開いた、彼の指だった。
悠真は、椅子の背にもたれかかり、そっと目を閉じた。
窓のないオフィス。青白い蛍光灯。
しかし、彼のまぶたの裏には、アドリア海に沈む、どこまでも美しい夕日のオレンジ色が、鮮やかに広がっていた。
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