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マナー違反ひとつ

作者: 雉白書屋

「……ねえ、さすがにちょっとひどくない?」


 え? と顔を上げたタクトに対し、マユミはさらに眉を顰めた。


「いや、前からあれ? って思ってはいたけどその食べ方さぁ……。

汚すぎない? うん、パスタだけど別にスプーンは使わなくてもいいよ?

でも犬みたいに顔をお皿に近づけて食べるのはさ……」


「ああ、スパゲッティね。パスタって言う派なんだ。またひとつ、俺の知らないマユミはっけーん」


 と、タクトは口からパスタを一本垂らし、そう言った。

 それに対し、「私はこれと結婚? 正気か?」と、マユミは思ったが素早く深呼吸をひとつ。

 たかが食べ方じゃないか。他の点は全く問題ない。顔も稼ぎも良い。むしろなのになんでこうも食べ方が汚いのか疑問だが可愛げがあるとも思えなくもない。多分、今まで上手い具合に転がっていたのだろう。

 大丈夫……しかし、結婚すれば毎日のように、この口の周りをミートソースで赤くしたスパゲッティモンスターと相対することになる。それは避けたい。いや、それ以前にうちの親は厳格だ。食事の場での顔合わせまで時間がない……。


『と、いうわけで、あなたにマナー講師をつけることにしたからよろしくね。私との結婚のためよ。いいわよね』


 電話越しにもかかわらず「はい」以外の言葉を許さない圧を感じた。

 面倒だなぁと電話を切ったあと、行き場をなくした言葉をため息に変え、体内から出してやるタクト。その時、インターホンが鳴った。


「はい、どちら――」


「はいはいはいはーい! あなたがタクトさんね! はぁーい、私マナー講師の……と、たくとさぁぁぁん、はい、さっそくマナー違反ひとつ! 名刺を受け取る際は両手でしょ? あなた本当に社会人?」


 マナー違反ひとつ。そう言って指を一本立てたその女はチッチッチとその指を振った。

 その動作があまりにも自然かつ慣れたものであったので、タクトはこれがこの女の癖、お決まりのポーズなのだと思った。そして妙に腹が立った。

 が、文句を言えるはずもなく、いや言う間もなく上がりこんだその女はペラペラと喋り続けた。


「はい、マナー違反。来客にはお茶でしょう?」

「向きが違うでしょう? え? 湯呑だから何? 柄があるじゃない柄がぁ」

「ちょっとこの湯呑汚くない?」

「茶柱は立てるのがマナー! やり直し! 相手に良い気分になってもらいたいでしょ!」

「と、いうわけで私がタクトさんをコーチングしてあげますからね。

……ちょっとなに黙ってるのよ。はぁぁぁぁ。はい、マナー違反またまたひとつ。

言わなくてもわかるわよね? そうよね。はい、よろしくお願いします」


 初日は顔合わせということで、その女は嵐のように過ぎ去った。女が一度しか口をつけなかったお茶からはまだ湯気が立ち昇っていた。

 それは始まりの狼煙であった。タクトにとって地獄の日々の……。

 仕事から疲れて家に帰ってくればインターホンが鳴り、鬼悪魔マナー講師の登場。

 靴下の脱ぎ方から何までほとんど罵るように注意し、風呂ではドアを少し開けて中を覗き、体の洗い方まで注意した。それは就寝まで続き、いや、やがて夢の中にまで現れるようになった。

 ゆえに仕事中、営業相手との打ち合わせにまで女が現れた時には、タクトはこれが夢か幻かと思った。ホテルと併設されたカフェ。離れた席に座る女が目を光らせ、時々フリップボードを出し、タクトに注意する。


【身振り手振りが大きすぎ】

【口の中を見せて笑わない】

【今の相手の冗談、つまんなくてももっと笑うべき】

【そもそも、あなたが座るそこ、上座じゃない?】

【笑顔が硬い。もっと朗らかに】

【汗かきすぎ】

【貧乏ゆすり注意】

【イライラが顔に出ている。相手に失礼】


 耐えた。耐えた。タクトは耐えた。が、女が合鍵を使って家の中に入って来た時にはさすがに声を荒げた。しかし……。


「なによ! 夜中に大きな声を出して! それにねぇ! あなたが居留守を使うからいけないんじゃないの!

はぁぁぁぁぁぁぁもぉぉぉぉう言いたくないけどはい、マナー違反ひとつ!

大体ね、合鍵はあなたの彼女さんから頂いたのよ。正当な権利です!」


 その勢いにタクトは閉口したがその形相は沸騰寸前のヤカンのよう。

 だが、咆哮寸前で女がトイレを借りると言ったのでその機会は見送りとなった。

 そして代わりに鳴ったのはインターホン。ドアを開けるとそこにいたのはマユミだった。


「あ、どう? マナーの先生は。少しは身についた? ふふふっ。これでちょーっとはパパとママに見せられるかな?

顔合わせは来週だからね。ちゃんと行儀よくしてよね。育ちが悪いのは仕方がないけど、でも直せるものは直していかないとね。

それはそうとねーえー、何か飲み物出してくれないの? 私、疲れてるんだけど。今日は美容院にネイルも行って来たしさぁ。

タクトはただの仕事でしょ? 能天気に、ふふふっいつも楽しそうに働いているってマナーの先生が言ってたよ。周りの人に甘やかされ過ぎだってさ。

ホント感謝しなよぉ? 私だってタクトのためを思ってあの先生に依頼したんだからね?

でもいい先生でしょ? 仕事一辺倒なんだってさ。タクトも見習った方がいいよ?

まあ、私はああはなりたくないけどね。厚化粧で皺をごまかしてさ、ふふふ。あ、紅茶? ありがとう。でも向きが駄目ね。

はい、マナー違反ひとつ、ふふふふっこのポーズ気に入ってるんだ、あ――」



「ちょっとぉ、便座を上げたままはマナー違反……まっ! なにこれ!」


 タクトはその声でハッと我に返った。傍には血塗れのマユミ。床についたズボンの膝と脛は血が染み込み、肌に張り付き不快感を抱かせた。

 タクトは手に握る包丁をギュッと握り、ゆらりと立ち上がる。そして包丁をマナー講師に向ける。

 ……だがマナー講師は表情一つ変えずに言った。


「はい、マナー違反ひとつ。無理心中の際は速やかにあとを追いましょうね。

それが誠意です。結婚を相手の両親に認めて貰えないと思い、それを苦にした凶行。

うんうん、うんうんうんうんうんうんうん!

はぁぁぁぁい。自殺するのがマナーです、その包丁で、さぁどうぞ!

あ! 切腹がいいかしらね! 切腹のマナーはね――」


 タクトはその声に逆らえなかった。

 どうやらマナーは確かに骨の髄まで染みついていたらしい。

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