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ほころび

作者: 傀儡納言

野山の小道を歩いていたら、小さなほころびを見つけた。

それは、この世界の裏側へと通ずるほころびだった。どうやら、結び目のような境界線が経年劣化で朽ち始めているらしい。

ほころびはまだ小さすぎて、通り抜けることなど到底できそうになかった。

あたしは忍び足でほころびに近づいて、一番右端の目で向こう側をそっと覗いてみた。ほころびの向こう側では、おじいさんが座って俯いているのが見えた。

おじいさんの傍らには、鞄のような箱のような物が置いてあった。中には糸やら針やらが収まっているから、恐らく裁縫箱の類だろう。

俯いているおじいさんは、手元で裁縫針に糸を通していた。

「こんにちはー」

あたしは、おじいさんに声を掛けてみた。すると、おじいさんはのろのろと顔を上げて、あたしを見て目を見張った。だがそれも束の間、おじいさんはすぐに表情を和らげると、

「やあやあ、こんにちはお嬢さん」

と返してくれた。

「なにしてるのー?」

「今からそこのほころびを直そうと思ってね、その準備さ」

「えー、直しちゃうの?」

「あっはっはっは。ごめんな、お嬢ちゃん。せっかく会えたのに」

おじいさんは笑ってそう言うと、糸を通した裁縫針をつまんで、よっこいしょ、と立ち上がった。そして、腰をトントンと叩きながら、二足歩行でこちらにゆっくりと近づいてきた。


ほころび越しに向かい合うと、ようやくおじいさんの顔がよく見えた。

おじいさんの目と耳は二つずつあって、でも鼻と口は一つしかなかった。しかも、頭や顎、瞼の上には毛のようなものが生えている。あたしとは、随分と違う見た目をしていた。

「おじいさんは、ほころびを直す人なの?」

「ああ、そうさ。この仕事を始めて、もう七十年になる、御年九十歳だよ」

おじいさんはほころびに寄りかかるように、こちら側をグイッと覗き込んだ。

「そうなんだ。結構若いんだね」

「はっはっ。そうかい?」

おじいさんがこちらを見てニヤリと笑うと、おじいさんの瞳に西日がきらりと反射した。おじいさんの瞳は、それはそれは奇麗な琥珀色をしていた。

「お嬢ちゃんは、ほころびを見るのは、これが初めてかい?」

「うん。話には少しだけ聞いてたけど」

ほころびの存在自体は知っていたが、教科書の中だけの遠い話だと思っていた。神話とか都市伝説とか――そんな類のものだろうと思っていた。

「そうかそうか。なら、覚えておくといい――」

おじいさんはそこで区切って、裁縫針をほころびの端に突き通して、ガガッガガッとしゃがれた咳払いをした。

「いいかい、今度ほころびを見つけても、安易にこうやって近づくんじゃないよ?」

「えー、なんで?」

「ほころびはね、とても危険なんだ。今日はまだ、ほころびが小さかったから大丈夫だったけど、大きなほころびに近づくと怪我するからね」

「そうなの?」

「ああ、そうさ。それにね、本当は、私はお嬢ちゃんと話しちゃいけないんだ」

「どうして?」

「お嬢ちゃんの存在がこっち側の世界に知られるとね、ちょっとだけ面倒なことになるんだよ」

おじいさんは周囲に聞かれていないか確認するようにキョロキョロして、あたしに向き直り、

「だから、今日ここで話したことは、二人だけの秘密にしてくれるかい?」

と声を潜めて言った。

「うん。分かった」

おじいさんに、あまりにも真剣な顔でお願いされたから、あたしは頷くことしかできなかった。


「よし、いい子だ」

おじいさんはそう言って目を細めると、裁縫針でほころびを修復し始めた。

ほころびが縫い付けられると、世界の裏側はみるみる消えていった。

「すごいね、おじいさん」

「そうだろう? これでも、この道一本で生きてきたからね。このぐらい、お手のもんさ」

おじいさんは、少しばかり息を荒げてそう言った。

よく見ると、おじいさんの額には汗が滲んでいる。世界を修復することは簡単そうに見えて、実際はあたしが想像するよりも疲れる作業なのかもしれない。

「おじいさん、あたしに何か手伝えることって、あるかな?」

あたしが言うと、おじいさんは裁縫針から手を離して、ふー、と一息ついた。

「お気遣いありがとうね、お嬢さん。でもね、これはすごく繊細な作業だから、お嬢さんにできることは、残念ながら何もないんだ」

「そうなんだ」

「ああ。世界の縫い目をきっちり合わせないと、また簡単に裂けてしまうからね」

おじいさんはそう言うと、よいしょ、よいしょ、と修復作業を再開し始めた。


ほころびが消えていく。世界が、元通りになっていく。

あたしは、なんだか虚しい気持ちになった。

「おじいさん、名前はなんていうの?」

あたしは、もう少しだけおじいさんとお話がしたかった。このほころびが無くなったら、もうおじいさんと話すことができなくなってしまう。そのことが、哀しかった。

「私かい? 私はトシヒロっていうんだ」

「あたしは、ヴィエーナ・イウラ・ウル・カハカだよ」

「そうかそうか。長い名前だね」

「違うよ。トシヒロが短すぎるんだよ」

「そうかそうか」

疲れているからなのか、あまり話したくないからなのか、トシヒロの反応はぞんざいだった。

トシヒロは手を休めることなく、よいしょ、よいしょ、と世界を直していく。

ほころびが閉じていくにつれて、トシヒロの声も籠って聞こえるようになった。

「ねぇ、トシヒロ! あたしたち、また会える?」

あたしは、残り僅かとなったほころびに顔をくっつけて叫んだ。

「ああ、またすぐに会えるさ。まぁ、可能であれば、一生会わない方がいいんだけどな」

「なんで? どういうことなの?」

「いや、いい。お嬢ちゃんには関係ないことだ。今のは忘れてくれ」

「待って! トシヒロ!」


ほころびは完全に消え去った。

こうして、世界は元通りになった。

あたしはトシヒロとの約束を守り、今日あったことは秘密にしておこう、と決めて、再び野山の小道を歩き始めた。

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