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雪わり草  作者: 野口 ゆき
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世阿弥について

世阿弥(ぜあみ)


正平(しょうへい)18年/貞治(じょうじ)2年(1363年) ~  嘉吉(かきつ)3年(1443年)


室町(むろまち)時代(1336年 ~ 1573年)、『大和申楽(やまとさるがく)』の一つ『結崎座(ゆうざきざ)』の家に生まれ、父・観阿弥(かんあみ)と共に申楽(能の事。奈良時代、中国から伝来した『散楽(さんがく)』が起源とも言われている)を大成した人物。

※ 大和申楽には『結崎座(後の『観世座(かんぜざ)』)』『外山座(とびざ)(後の『宝生座(ほうしょうざ)』)』

  『円満井座(えんまんいざ)(後の『金春座(こんぱるざ)』)』『坂戸座(さかどざ)(後の『金剛座(こんごうざ)』)』と言う

  四つの座があった。

  四座(よざ)は座の存続を懸けて、立合(たちあい)で競い合った(勝ち残らなければ生き残る事が

  難しい熾烈(しれつ)な争いであった為、各座は工夫を凝らし発展し続ける必要が

  あった)。  

※ 観阿弥は演劇性の強い申楽に歌と舞を合わせた『曲舞(くせまい)』を加え、

  世阿弥は観阿弥の生み出した申楽に更に『幽玄』を加えて申楽に変化を

  持たせ、申楽の新しい境地を開いた。

  観阿弥と世阿弥は申楽を年功序列の世界から実力の世界へと導き、

  身分の低い者から高い者まで幅広い人々に愛される芸術へ、

  高みへと昇華(しょうか)させた。


幼名(ようみょう)(幼い時の名)は、『鬼夜叉(おにやしゃ)』。

通称(元服(十二歳から十七歳頃)後の通り名)は、『三郎(さぶろう)』。

実名は、『元清(もときよ)』。

公卿(くぎょう)二条良基(にじょうよしもと)から賜った名は、『藤若(ふじわか)』。

四十代以降は、時宗(じしゅう)法名(ほうみょう)である『阿彌陀佛(あみだぶつ)』に観世の『世』を付け『世阿彌陀佛(ぜあみだぶつ)』。

そして、『世阿彌陀佛』が略された『世阿彌(ぜあみ)』と言う芸名で呼ばれるようになった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鎌倉(かまくら)時代(12世紀末 ~ 1333年)、鎌倉幕府『執権(しっけん)(将軍の後見役)』北条(ほうじょう)氏は田楽(でんがく)(豊作を祈る楽と踊り)を厚遇(こうぐう)した。

鎌倉幕府『十四代執権(しっけん)』北条高時(たかとき)は田楽と闘犬(とうけん)(ふけ)り、酒色に(おぼ)れ、遂に鎌倉幕府を滅亡へと導いた。

鎌倉幕府が滅亡した後、室町幕府を開いた『初代将軍』足利尊氏(あしかがたかうじ)、『二代将軍』足利義詮(よしあきら)、『三代将軍』足利義満(よしみつ)は北条氏同様に田楽を優遇し、申楽は冷遇され続けた。

田楽では本座(ほんざ)一忠(いっちゅう)新座(しんざ)喜阿弥(きあみ)など多くの名人が輩出(はいしゅつ)されたが、申楽では極めて優れた演者がなかなか現れなかったと言う事も、申楽が(ないがし)ろにされた理由の一つであった。

世阿弥の父・観阿弥は申楽の将来を憂え、申楽を新たな境地へと導き高める為に奮起(ふんき)した。

鬼能(おにのう)を得意とする大和申楽に田楽の歌舞の美しさを加え、様々な工夫を凝らし、曲を作り、新しい申楽を生み出した。

観阿弥は、気骨(きこつ)の人であった。

世阿弥は観阿弥の背中を見て育ち、父の夢を共に叶える為に修練を重ねた。


世阿弥は天賦(てんぷ)の才に恵まれており、幼い頃から観阿弥と共に舞台に立った。


1372年(世阿弥 九歳)

醍醐寺(だいごじ)七日間公演で、父と共に舞台に立つ。

※ 申楽は元々御祭りや祭礼などの宗教行事と深く結びついていた為、

  神社などで興行される事が多かった。


1374年(または1375年) (世阿弥 十一歳 または 十二歳)

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)で催された能舞台で踊っていた世阿弥は、室町幕府『三代将軍』足利義満(当時、十七歳)の目に留まる。

其の後、『結崎座』は足利幕府の庇護(ひご)を受けるようになる。

特に、美童(びどう)であった世阿弥は足利義満の寵愛(ちょうあい)を一身に受けるようになる。

世阿弥に対する義満の寵愛ぶりに、公家(くげ)達は嫉妬(しっと)した。


1378年(世阿弥 十五歳)

祇園祭(ぎおんまつり)では世阿弥が義満の背後に控えていた為、世阿弥は更に公家達に(うと)まれる事になる。

三条公忠(さんじょうきんただ)は『後愚昧記(ごぐまいき)』に、「世阿弥は乞食(こつじき)所業(しょぎょう)をする者」と記した。

世阿弥は彼らの(ねた)みや(そね)みを受けながらも其れらに耐え、義満の信頼に応える為に、寵愛を失わない為に、自らの申楽を高める為に研鑽(けんさん)を重ねた。

公家達から和歌や蹴鞠(けまり)などの教育を受け、二条良基からは連歌(れんが)を学んだ。

また演技に(みが)きを掛ける為に稽古を重ね、人間をよく観察して観察眼を養い、多くの事を学び、考え、疑問に思い、工夫し、答えを見つけ、苦しみに耐え、喜びを見つけ、努力し続けた。

そうでなければ、生き抜く事が出来なかった。


申楽が足利義満に重用(ちょうよう)されるに従い、申楽と田楽との対立も色濃くなっていった。

更に同時期、『管領(かんれい)(室町幕府将軍の補佐役)(※1)』細川頼之(ほそかわよりゆき)斯波義将(しばよしゆき)の政権争いもあり、申楽も不安定な立場となっていった。

細川頼之は『観応(かんのう)擾乱(じょうらん)(※2)』で足利尊氏方に付き、勝利後も尊氏、義詮に仕えた。

そして義詮の死後、頼之は将軍職に就いた当時十一歳の義満を育て、教育し、義満が成人してからも支え補佐し続けた。

義満にとって細川頼之は父親も同然であると同時に、室町幕府を支える重鎮(じゅうちん)でもあった。

義満と深い結び付きのある頼之が失脚(しっきゃく)すれば、幕府の中枢が変わる。

義満と頼之が目指す幕府権力確立が、頓挫(とんざ)する恐れがあった。

そうなれば、観世座の地位も危ぶまれる事になる。


足利義満と細川頼之には、『北朝』と『南朝』に分かれた二つの朝廷を一つに纏めると言う悲願があった。


1333年、『元弘(げんこう)の乱』で鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が『天皇親政(てんのうしんせい)(天皇自ら(まつりごと)を行う事)』を開始。

此れを、『建武(けんむ)親政(しんせい)』と言う。

此の新政は元々、公家と武家の統一を図ったものであった。

しかし実際は公家の方が武家よりも恩賞が多かったり、出世に差があったり、土地の所有権の決定権は天皇にあるとする(『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』では、20年間其の土地を支配していたら所有権は変更出来ない(『取得時効(しゅとくじこう)』)としていた)等、公家と武家の待遇は不平等であった。

また後醍醐天皇は頻繁(ひんぱん)に政策を変更した為、其れが更なる混乱と対立を招いた。

公家中心の時代錯誤な専制政治は武士に新政権への不信感を抱かせ、且つ激怒させた。

1335年、北条時行(ほうじょうときゆき)が鎌倉幕府再興の為に反乱を起こして一時鎌倉を占拠したが、其の20日後に足利尊氏によって鎮圧される。

此れを、『中先代(なかせんだい)の乱』または『廿日先代(はつかせんだい)の乱』と言う。

此の乱がきっかけで。

いや。

此の乱が引き金となり、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が明らかなものとなった。

足利尊氏は占拠された鎌倉を取り戻す為に、大義名分の為に、自身の『征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)(武家の首長)』就任を後醍醐天皇に求めた。

しかし、其れは認められなかった。

当時、後醍醐天皇と足利尊氏はお互い距離を置いており、世間からは『尊氏なし』と噂されていた。

足利尊氏が『征夷大将軍』就任を認められなかったのは、尊氏が『清和源氏(せいわげんじ)』の血を引いていた事だけでなく、後醍醐天皇と尊氏の当時の関係性が原因であったのかもしれない。

天皇から『征夷大将軍』就任を認められないまま足利尊氏は鎌倉へ向かい、鎌倉で時行と戦い敗れた弟の足利直義(なおよし)(乱の中、後醍醐天皇の皇子であり天皇と対立していた護良親王(もりよししんのう)を殺害)と共に鎌倉を奪還。

足利尊氏は其の後、鎌倉に拠点を置いた。

後醍醐天皇は鎌倉に残った足利尊氏の存在を脅威(きょうい)と考えるようになり、再三(さいさん)尊氏に京へ戻るよう命じた。

しかし、尊氏は従わなかった。

此の行為を謀反(むほん)と判断した後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)を尊氏討伐へ向かわせた。

尊氏自身は天皇と直接争うつもりはなく、剃髪(ていはつ)して寺で謹慎を続けた。

しかし尊氏の弟である足利直義は新田義貞と戦う事になり、劣勢となった直義を助ける為に尊氏は出陣。

尊氏軍は新田軍を破り、1336年1月に兵を率いて入京。

後醍醐天皇は、比叡山(ひえいざん)へ逃れる。

其の後、新田義貞と楠木正成(くすのきまさしげ)に攻勢を仕掛けられ、尊氏軍は京から退く。

撤退後、尊氏軍は各地で敗北と勝利を繰り返す事になる。

5月、『湊川(みなとがわ)の戦い』で新田・楠木軍を打ち破った尊氏軍は再び入京。

尊氏は、光明天皇(こうみょうてんのう)擁立(ようりつ)

しかし『三種(さんしゅ)神器(じんぎ)』は比叡山に居た後醍醐天皇が所持しており、尊氏は其れらを奪還する必要があった。

『三種の神器』とは『八咫鏡(やたのかがみ)』『天叢雲剣あめのむらくものつるぎ草薙剣(くさなぎのつるぎ))』『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』の事であり、此の三つを所持している者が皇統(こうとう)天皇の(あかし)とされた。

尊氏は後醍醐天皇に和議を提案し、京へ戻った後醍醐天皇から『三種の神器』を取り返した。

其の後、後醍醐天皇は幽閉されたが脱出し吉野へ逃れた。

後醍醐天皇は「光明天皇に渡した『三種の神器』は偽物であり、吉野に持って来たものが本物である」と明言して新しい政権『南朝』を樹立した。

『北朝(持明院統(じみょういんとう))』と『南朝(大覚寺統(だいかくじとう))』と言う二つの朝廷が創立され、此処から『南北朝時代』が始まる(『南北朝時代』は、1392年の合一まで約60年続く)。

そして、後醍醐天皇方と足利尊氏方との争いを『建武の乱(足利尊氏を英雄とする場合、こう呼ばれる。尊氏が使用した元号が『建武』であった為)』または『延元(えんげん)の乱(足利尊氏を謀反人(むほんにん)とする場合、こう呼ばれる。後醍醐天皇が新しく定めた元号が『延元』であった為)』と言う。

1339年、後醍醐天皇崩御(ほうぎょ)享年(きょうねん)五十二歳)。

足利尊氏は後醍醐天皇の為に京に天龍寺(てんりゅうじ)建立(こんりゅう)し、菩提(ぼだい)を弔った。


後醍醐天皇が崩御された後も、『北朝』『南朝』の二つの朝廷は互いの皇位正統性を主張。

そして『北朝』『南朝』それぞれに様々な思惑を持った武士が味方し、各地で戦乱が起こる。

決着がつかないまま時は流れ、一つの国に二つの朝廷が並存する状態が暫く続く。


多くの戦を経て武士を掌握(しょうあく)していった『北朝』側が次第に優勢となっていったが、『北朝』を支持する室町幕府にとって『南朝』の存在自体が脅威であった。

何故なら幕府に不満を持った者達が、『南朝』へ寝返る事があったからである(『観応の擾乱』など)。

室町幕府の『南北朝合一』は、急務であった。


足利義満と細川頼之は『北朝』と『南朝』を和解させて皇統を統一し、早期の戦乱終息を目指した。

其のため細川頼之は、父・楠木正成と同様『南朝』の代表であり『北朝』との和睦(わぼく)を宿願としていた楠木正儀(まさのり)(※3)を『南朝』から離反させて、『南北朝合一』を画策する事にした。 


(※1)細川家、斯波家、畠山(はたけやま)家は『三管領(さんかんれい)』と呼ばれ、此の三家が

    『管領』職を交代で務めた。

    そして此の三家は、後の『応仁(おうにん)の乱(1467年~1477年)』でも

    深く関わる。


(※2)1350年に起きた室町幕府の内紛。

    『将軍』足利尊氏・室町幕府『執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)派と

    尊氏の弟である足利直義派との対立。

    師直と直義が死亡し、最終的に尊氏が勝利した。


(※3)楠木正儀は正成の三男であり、観阿弥の従兄弟(いとこ)(観阿弥の母は、

    『湊川の戦い』で自決した楠木正成の妹であると言われている)。


1379年(世阿弥 十六歳)

幕府の権力強化の為に『守護大名(しゅごだいみょう)』を厳しく統制した細川頼之は多くの『守護大名』に怨まれ、『康暦(こうりゃく)の政変(※4)』で失脚。

代わりに『管領』職に就いたのは、頼之と対立していた斯波義将であった。

斯波義将は、細川派の放逐(ほうちく)を開始。

細川派であった楠木正儀は『北朝』での後ろ(だて)であった細川頼之を失い、『南朝』へ帰参(きさん)

将軍家と親密であった細川派弾圧、そして義満に仕えていた楠木正儀の『南朝』への復帰などの為、観世座は微妙な立場となった。

楠木正儀の血族と疑いをもたれていた観阿弥は『北朝』からは間諜と疑われ、『南朝』からは裏切り者の家の人間と(さげす)まれたに違いない。


(※4)『康暦の政変』は細川派と斯波派互いを戦わせ、膨大化(ぼうだいか)しつつ

     あった両派の力を抑制させると言う義満の思惑があったとも

     言われている。


1384年(世阿弥 二十一歳)  

父・観阿弥が巡業先の静岡で急逝(きゅうせい)し、世阿弥は二代目『観世太夫(かんぜだゆう)』を引き継ぐ。

『世阿弥』は父の跡を引き継いだ後も、精進(しょうじん)を重ねた。

面白(おもしろ)き能』であった『大和申楽』に、『近江申楽(おうみさるがく)太夫(たゆう)は、犬王(いぬおう)道阿弥(どうあみ)))』の『天女舞(てんにょまい)』の『幽玄(ゆうげん)』を取り入れた(当時、公家や武家は『幽玄』を愛していた)。


其の後も世阿弥は様々なものを取り入れ、手を加え、変化させ、一つに(まと)め、新しいものを作り出していった。

其れらは、決して模倣(もほう)ではなかった。

多くのものを組み合わせ変化発展させた世阿弥は、大衆的・宗教的要素の強かった申楽を文化的・芸術的・美へと昇華させた。

そして、『夢幻能(むげんのう)』を生み出した。

申楽には、『現在能』と『夢幻能』がある。

『現在能』は現実の世界で物語が進み、登場人物は現実に生きているものだけである。

対して『夢幻能』は現在と過去、現世界と異世界が交錯しながら人間と霊的存在(霊、神、鬼など)を中心に物語が進む。

『夢幻能』では為手(シテ)(主役)は主に霊的存在を演じ、(ワキ)(相手役)は生きている人間を演じる。

『夢幻能』は、脇の見た夢や幻が物語の主である。


1391年(世阿弥 二十八歳)

明徳(めいとく)の乱』が起きる。

室町幕府は『守護(鎌倉・室町幕府が国ごとに配置した軍事・行政を司る官)』を『北朝』側に味方させる為、『守護』に様々な権限を与えた。

其れにより『守護』は領国(りょうこく)支配を強めていき、幕府に脅威をもたらす程の強大な力を持つ『守護大名』へと成長していった。

室町幕府は、次第に『守護大名』の統制が困難となっていった。

将軍の権力を強化し幕府を盤石(ばんじゃく)にする為に、室町幕府は『守護大名』と言う不安要素を払拭(ふっしょく)する必要があった。

其処で義満は復権を果たした細川頼之(※5)と共に、勢力を拡大しつつあった土岐(とき)氏などの有力『守護大名』を次々と制圧し、弱体化させる事にした。

そして、(つい)に大大名である山名(やまな)氏の勢力を弱める事に着手。

山名氏は新田氏の血を引いていたが、『南北朝の乱』では足利軍に付き軍功を立てた。

其の後は離反(りはん)帰順(きじゅん)を繰り返し、日本の約六分の一である十一か国を守護する程の権勢を誇った。

其の為、山名氏は『六分一殿(ろくぶんのいちどの)』とも呼ばれた。

山名氏の勢力削減は喫緊(きっきん)の課題であり、必須(ひっす)でもあった。

義満は山名氏の内紛を利用し、山名氏に反乱を起こさせた。

そして義満は(わず)か一日で山名氏を打ち破り、所領を三か国まで削減する事に成功した。


(※5)1389年、異母弟であり養子でもある細川頼元(よりもと)の尽力により、

    細川頼之は赦免(しゃめん)

    そして1391年、斯波義将は足利義満との関係悪化により『管領』を

    辞す。


1392年(世阿弥 二十九歳)

武士を掌握した足利義満は『北朝』を優位な立場に立たせ、『南朝』と『明徳の和約(※6)』を締結(実質的には、『北朝』が『南朝』を吸収)。

『三種の神器』も、『南朝』から『北朝』へ譲渡された。

和約締結の際には、細川頼之も楠木正儀もこの世にはいなかった。

しかし細川頼之は細川頼元を義満の片腕として遺し、楠木正儀は『南朝』にて再び『北朝』との和平を画策して和約締結の土台を作っていた。

二人の遺志を引き継いだ義満は、遂に悲願であった『南北朝合一』を実現。


(※6)和約では『両統迭立(りょうとうてつりつ)(『北朝』と『南朝』が交代で天皇の位に

    就く事)』としていたが、『北朝・第六代天皇』後小松(ごこまつ)天皇は

    自身の皇子である称光(しょうこう)天皇に譲位。

    其の後も和約を反故(ほご)にされ、『南朝』は激しく反発。

    1443年、『後南朝(ごなんちょう)(『南朝』復興を目指す人々による政権)』が

    御所を襲撃し、『三種の神器』のうち『天叢雲剣』『八尺瓊勾玉』を

    奪取して比叡山(ひえいざん)へ逃亡(『禁闕(きんけつ)の変』)。

    数日で変は鎮圧され、変に関与した者達は捕えられ

    処刑・流罪に処された。

    ただ、室町幕府は持ち去られた『天叢雲剣』を取り戻す事は出来たが、

    『八尺瓊勾玉』を奪い返す事は出来なかった。

    1457年、『嘉吉(かきつ)の乱』で取り潰しとなった赤松家の遺臣が、

    『後南朝』の行宮(あんぐう)仮宮(かりみや))を襲撃。

    『嘉吉の乱』とは1441年、赤松満祐(あかまつみつすけ)父子が

    室町幕府『六代将軍』足利義教(あしかがよしのり)(義満の子。『四代将軍』足利義持(あしかがよしもち)

    の同母弟)を暗殺した事件であり、赤松父子は其の後殺害された。

    赤松家再興を目論んだ赤松家の遺臣は、『禁闕の変』で奪われた

    『八尺瓊勾玉』の奪還に成功。

    そして、『南朝』の皇胤(こういん)を殺害。

    此れを、『長禄(ちょうろく)の変』と言う。

    其の後、吉野の民が赤松家の遺臣によって奪われた皇胤の首級と

    『八尺瓊勾玉』を取り戻す。

    1458年、再び赤松家の遺臣が『八尺瓊勾玉』を奪い返す。

    

1399年(世阿弥 三十六歳)

六度の落雷や戦乱によって火災焼失し復興を遂げた興福寺(こうふくじ)落慶法要(らっけいほうよう)で、世阿弥は舞を奉納。

興福寺と強く結ばれる事により、申楽は隆盛を極める事になる。


1408年(世阿弥 四十五歳)

世阿弥を寵愛していた足利義満が、病没(享年五十一歳)。

義満の死と同時に、申楽は凋落(ちょうらく)の運命を辿(たど)る事になる。

義満が亡くなった後、世阿弥は室町幕府『四代将軍』足利義持(義満の子)から疎まれる。

義持は申楽よりも田楽の方に興味があり、其の名手であった増阿弥(ぞうあみ)を厚遇した。

また義満と義持の間には確執(かくしつ)が在り(義満が、義持の異母弟である義嗣(よしつぐ)を溺愛)、其れが申楽を遠避けた理由とも言われている。

世阿弥の舞う機会は増阿弥に奪われたが、世阿弥は諦めなかった。

世阿弥は『冷えに冷えたり』と評した『尺八の能』を増阿弥から学び、自身の芸の糧とした。 


1422年(世阿弥 六十歳)

世阿弥は出家し、『観世太夫』を長男・観世十郎元雅かんぜじゅうろうもとまさに譲って隠居生活を送る。

※ 元雅は『観世大夫』を譲られるも、正式には三代目『観世太夫』の地位には

  就いていないと看做(みな)されている。


1428年(世阿弥 六十五歳)

室町幕府『六代将軍』足利義教の代になると(※7)、世阿弥は迫害されるようになる。

足利義教は、世阿弥の甥である観世三郎元重かんぜさぶろうもとしげ音阿弥(おんあみ)。世阿弥の四歳下の弟である観世四郎元仲(かんぜしろうもとなか)の子)を寵愛した。


(※7)『四代将軍』足利義持は、1428年死去。

    1423年に将軍職を義持から譲られた『五代将軍』足利義量(よしかず)

    (義持の子)は、1425年に病の為十九歳で死去。


1429年(世阿弥 六十六歳)

仙洞御所(せんとうごしょ)上皇(じょうこう)の為の御所)への出入り禁止。


1430年(世阿弥 六十七歳)

醍醐清滝宮(だいごせいりょうぐう)の『楽頭職(がくとうしょく)(申楽の主催権)』を罷免。


1432年(世阿弥 六十九歳)

京での仕事が無くなった世阿弥の長男・観世元雅(三十二歳)は、地方巡業途中の伊勢安濃津(いせあのうつ)(三重県津市)にて死去。

元雅の遺児は当時幼過ぎた為、『観世座』を継がせる事が難しかった。

足利義教は、音阿弥に『観世座』を継がせようとした。

しかし、世阿弥は其れを拒んだ。

世阿弥は、娘婿の『金春禅竹(こんぱるぜんちく)』を後継者にするつもりであった。

世阿弥は、足利義教の不興(ふきょう)を買った。


1434年(世阿弥 七十二歳)

世阿弥は将軍に謀反を起こした罪で佐渡(さど)(新潟県)に流刑。

しかし、此れは冤罪(えんざい)であった。


1441年(世阿弥 七十八歳)

『嘉吉の乱』で足利義教が暗殺され、世阿弥は恩赦(おんしゃ)一休和尚(いっきゅうおしょう)の尽力により配流を解かれる。

其の後は、娘夫婦と共に余生を過ごした。

補巌寺(ふがんじ)(奈良県)に帰依きえし、世阿弥夫妻は『至翁禅門(しおうぜんもん)』『寿椿禅尼(じゅちんぜんに)』と呼ばれた。

そして、寺に田地各一段を寄進。


1443年(世阿弥 八十歳)

世阿弥 死去


世阿弥は権力に(おもね)るのではなく、純粋に芸の道を追求し高みを目指した。

世阿弥の信念が、申楽を芸術へと昇華させた。


『厳格』

『義務』

『責任』

『信念』

『覚悟』

『意志』

『忍耐』

『自信』

『誇り』

『情熱』

『美学』


此れらは全て天賦の才から生まれるものではなく、世阿弥が努力を重ね、困難を乗り越えて得たものである。


世阿弥の申楽も生き様も、三代目『観世太夫』となった音阿弥に、そして後世に引き継がれた。


世阿弥は、申楽のみならず現在を生きる人々にも多くの影響を与え続けている。

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≪世阿弥の著作≫


現在、二十一種あると言われている。


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風姿花伝(ふうしかでん)


・ 全七編

・ 1400年から約二十年の歳月を掛けて記された能楽論書

・ 父である観阿弥の教えが基

・ 『花』『幽玄』『物真似』が中心

・ 一子相伝(いっしそうでん)の秘伝書であり、明治まで表舞台に出る事は無かった

・ 『花伝』『花伝書』とも言う


第一【年来稽古條々ねんらいけいこのじょうじょう

   七歳から五十歳過ぎまでに心得(こころえ)るべき事について記したもの。



第二【物学條々ものまねのじょうじょう

  『物真似』の演じ方について記したもの。

  『物真似』・・・〚女〛〚老人〛〚直面(ひためん)〛〚物狂(ものぐるい)〛〚法師(ほうし)

          〚修羅(しゅら)〛〚神〛〚鬼〛〚唐事(からごと)


第三【問答條々もんどうのじょうじょう

   世阿弥の問いに対する父・観阿弥の答えについて記したもの。


第四【神儀(しんぎ)()わく】

   申楽の歴史について記したもの。


第五【奥義(おうぎ)に云わく】

   流儀の異なる様々な芸能について記したもの。


第六【花修(かしゅう)に云わく】

   実際に、どの様に申楽を演じるべきかについて記したもの。


第七【別紙口伝(べっしのくでん)

   申楽に於ける『花』とは何かについて記したもの。   


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花鏡(かきょう)


・ 全一巻

・ 1400年から1424年に纏められた能の芸術論

・ 世阿弥が四十歳頃から六十歳頃までに会得した知識などを記述 

・ 『花習(かしゅう)』とも言う。


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九位(きゅうい)


・ 『花鏡』の少し後に書かれた芸位を九つの段階で記した能楽論書

・ 『九位次第』とも言う。


【上三位】

妙花風(みょうかふう)』『寵深花(ちょうしんか)風』『閑花(かんか)風』


【中三位】

正花(しょうか)風』『広精(こうしょう)風』『浅文(せんもん)風』


【下三位】

強細(ごうさい)風』『強麁(ごうそ)風』『麁鉛(そえん)風』


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至花道(しかどう)


・ 1420年に申楽を修得する為に必要な事について記された能楽論書


二曲三体(にきょくさんたい)

【二曲】とは、舞と音曲(おんぎょく)(うたい))の事。

【三体】とは、『老』『女』『軍』の事。


闌位(らんい)

 ()ける位(最高の位)の事。


皮肉骨(ひにくこつ)

 和歌、連歌、俳諧、書道などの芸道を『皮の体』『肉の体』『骨の体』の

 三種類に分けたもの。

 

体用(たいゆう)

 基礎的な芸と其処から生まれる趣の事。


 「能に『体』『用』の事を知るべし。

 『体』は『花』。

 『用』は『(にほい)』のごとし」


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金島書(きんとうしょ)


・ 1436年に佐渡での事について(つづ)った小謡曲舞集こうたいくせまいしゅう  

・ 佐渡は当時、(こがね)の島とも言われていた。

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≪世阿弥の言葉≫


〖稽古は強かれ 情識(じょうしき)はなかれ〗 

(『風姿花伝』「序」)

 たとえ人々から称賛されても、努力は続けなければならない。

 決して慢心してはならない。


〖上手は下手の手本 下手は上手の手本〗 

(『風姿花伝』第三「問答条々」)

 上手な人は、下手な人の手本である。

 下手な人は、上手な人の手本である。 

 上下関係なく学びなさい。


衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)〗 

(『風姿花伝』第五「奥義に云わく」)

 特定の人ではなく、多くの人に愛されるようになりなさい。


男時(をどき)女時(めどき)〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 人には、良い時も悪い時もある。

 其れは、自分では抗う事の出来ない宿命である。

 抗う事が出来ないのならば全てを受け容れ、今、己の為すべき事をしなさい。

 無駄な事など何一つない。


〖時に用ゆるをもて花と知るべし〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

『其の時に必要とされるもの』こそが、『花』である。

『其の時に必要とされるもの』が、いつも同じとは限らない。

『其の時』を見極める事が出来るようになりなさい。

『其の時』に用ゆる事の出来る『花』を持ちなさい。 


年々去来(ねんねんきょらい)の花を忘るべからず〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 今まで歩んできた人生の時々に咲いた『花』を、決して忘れてはならない。

 其れらは、此れからの自分や未来の為の糧となる。 


(じゅう)する所なきを まず花と知るべし〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 其処に留まり続ける事なく変化し続ける事が、『花』を咲かせ続ける事であると

 心に留めておきなさい。

 安住していては、何も変わらない。

 変われない。


〖秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 取り留めのないものでも秘め事にしていれば、『花』となれる。

 取り留めのないものを秘め事にしなければ、其れは『花』とはなれない。


〖家 家にあらず 継ぐを(もっ)て家とす

 人 人にあらず 知るを以て人とす〗 

(『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 家とはただ続くから家なのではなく、先人の意志を継ぐ事により家となる。

 人とはただ生きるから人なのではなく、人としての道を知る事により人となる。


〖よき(こう)の住して 悪き劫になる所を用心すべし〗 

(『花鏡』)

『其れが良いものである』とされていた『時』に留まり続ければ、

 悪い結果をもたらす事になるであろう。

 嘗ての自らの功績に執着(しゅうちゃく)していれば己の力を其れ以上高める事は出来ず、

 更には元々持っていた能力さえも失いかねない。

 (おご)らず、精進を重ねなさい。


離見(りけん)(けん)〗 

(『花鏡』)

 相手の立場になって自分を見なさい。

 自分では見る事の出来ない自分を見る事が出来る。


〖命には終りあり 能には果てあるべからず〗 

(『花鏡』)

 命に終わりはあるけれど、能には終わりがない。

 己の命が尽きようとも、其の心は生き続ける。


時節感当(じせつかんとう)〗 

(『花鏡』)

『今が其の時』と思った時に、為すべき事をせよ。


初心(しょしん)忘るべからず〗 

(『花鏡』/『風姿花伝』第七「別紙口伝」)

 何事も、初めての時の心を忘れてはならない。

 苦しかった時の心も、辛かった時の心も、悲しかった時の心も、

 其れらを乗り越えた時の心も、全ての時の初心を決して忘れてはならない。

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≪世阿弥作の謡曲(ようきょく)(脚本)≫


世阿弥の謡曲は、改作も含めて五十曲以上あると言われている(不確かなものもあるが)。

現在演じられている能の演目は二百四十曲あり、世阿弥作の謡曲も含まれている。


能の演目は、為手が演じるものにより五種類に分けられている。

江戸時代まで、能は此の五種類を一日中上演されていた。

一番初めに演じられた能は『一番目物』、最後に演じられた能は『五番目物』と言われた。


●一番目物〖脇能物(わきのうもの)(神能物)〗

 ※ 神が主人公

老松(おいまつ)

高砂(たかさご)

難波(なにわ)

弓八幡(ゆみやわた)

養老(ようろう)



●二番目物〖修羅物(しゅらもの)

 ※ 武士が主人公

敦盛(あつもり)(平家物語)』

清経(きよつね)(平家物語)』

実盛(さねもり)(平家物語)』

忠度(ただのり)(平家物語)』

八島(やしま)(平家物語)』

頼政(よりまさ)(平家物語)』


●三番目物〖鬘物(かつらもの)

 ※ 女性が主人公

井筒(いづつ)(伊勢物語)』

采女(うねめ)

江口(えぐち)

姨捨(おばすて)

西行桜(さいぎょうざくら)

関寺小町(せきでらこまち)

東北(とうぼく)

野宮(ののみや)

檜垣(ひがき)

松風(まつかぜ)

熊野(ゆや)


●四番目物〖雑能物(ざつのうもの)

 ※ 狂女が主人公

葵上(あおいのうえ)

葦刈(あしかり)

蟻通(ありどおし)

浮舟(うきふね)

雲林院(うんりんいん)

柏崎(かしわざき)

葛城(かづらき)

(きぬた)

恋重荷(こいのおもに)

高野物狂(こうやものぐるい)

桜川(さくらがわ)

春栄(しゅんねい)

土車(つちぐるま)

木賊(とくさ)

錦木(にしきぎ)

花筐(はながたみ)

班女(はんじょ)

船橋(ふなばし)

水無月祓(みなづきはらえ)


●五番目物〖切能物(きりのうもの)

 ※ 人ならぬものが主人公

鵜飼(うかい)

鍾馗(しょうき)

須磨源氏(すまげんじ)

泰山府君(たいさんぷくん)

当麻(たえま)

(とおる)

野守(のもり)(万葉集の歌が典拠)』

(ぬえ)(平家物語)』

山姥(やまんば)


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〖参考文献〗


世阿弥 著 野上豊一郎(のがみとよいちろう)西尾実(にしおみのる)校定『風姿花伝』(1958年)岩波文庫


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