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雪わり草  作者: 野口 ゆき
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『雪わり草 ~芽~』

「第一.【年来稽古條々ねんらいけいこのじょうじょう


此の条項では、七歳から五十歳過ぎまでに心得(こころえ)るべき事について記した。


申楽(さるがく)の世界では、七歳が初稽古となる事が多い。

此の頃の稽古は、子供の思うがままにさせるのが良い」


「子供の思うがまま・・・?

幼い頃から色々と教えれば、上達が早いのではないでしょうか?」


「事細かに指示して注意すれば、子供はやる気を失い稽古が嫌になる。

嫌になって稽古をしなくなれば其の子が本来持つ申楽の才能も向上しなくなるだけでなく、元々持っていた其の子の才能をも(つぶ)す事になる。

心のままに自然に舞う舞には、其の子が生まれながらに持つ美しさ・・・『花』が表れる。

其の舞には、其の子の個性が表れる。

其の子の元々持っている才能を、大切にしなければならない。

勿論、何も教えない訳では無い。

音曲(おんぎょく)(うたい)(ふし)(音楽)と(ことば)台詞(せりふ)))や所作(しょさ)、舞と言った基礎的な事を教える必要はある」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「基礎的な事は教えるけれど、其れ以外の事は子供の思うようにさせた方が良い。

其れは、其の子の生まれ持った才能や美しさを活かす事に(つな)がるから。

と、言う事ですね」


「うむ。


また此の頃の子供には、大舞台で演技を演じさせてはならない。

三番目の〚女の舞〛や四番目の〚世話物の舞〛などの丁度良い頃合いに、其の子の得意とする演技を演じさせるべきである」


「其の子の好きな演技や得意な演技を小さな舞台で演じさせ、少しずつ慣らすと同時に自分の演技に自信を持ってもらう。

と、言う事でしょうか?」


「うむ。


親は、子供にとって何が大切であるかを考えなければならない。

親は、自分の思う通りに子供を育ててはならない。

親は親であり、子は子である。

たとえ親であろうとも、子供の才能を潰すような事をしてはならない。

咲こうとする花に水を与え過ぎれば根は湿(しめ)った状態となり、やがて根は腐ってしまう。

根から水を吸収出来なければ、花は枯れる。

愛しいからと言って、水を与え過ぎてはならないのだ。

其れを、花が望んでいるとは限らない。

適度な水を与えれば、花は自然のまま美しく咲く。

『適度な水』、此れが重要なのだ」


「花に水を与え過ぎれば枯れてしまうように、其の子の才能・・・『花』に他者が過度(かど)に手を加えようとすると、其の『花』を枯らしてしまう事もある。

親は適度に水を与え、其の子の『花』がありのまま咲くのを見守るべきである。

と、言う事ですね」


「うむ。


では、続けよう。


十二、三歳頃になると、(うた)う声も申楽の音階に合わせる事が出来るようになり、演目の内容も理解出来るようになる。

此の頃から、少しずつ申楽の演目を教えていくのが良い。

先ず此の歳の稚児(ちご)の姿は美しく、其れだけで『幽玄(ゆうげん)』である」


「『幽玄』・・・?」


「気品があり・・・(しと)やかで・・・優美で・・・柔和(にゅうわ)で・・・(みやび)で・・・(はかな)く・・・気高く・・・神秘的で・・・そして・・・美しい・・・。

其れが、『幽玄』である。


何をどう演じようとも稚児は美しく、声は良く通るものだ。

『若さ』と『幽玄』、此の二つの美点があれば悪い所は隠され、良い所は更に美しく華やかになる。

此の頃の子供には、あまり(わざ)(技)に特化した演技をさせるべきではない。

其れは子供には似つかわしくなく、将来の才能の上達をも止める事になりかねない。

但し、才能のある子供には何をさせても良い」


「何をさせても良い?

何故ですか?」


「稚児の美しさ、声の通り、(たく)みな演技は、其の子自身の才能であり、其の子自身が持つ一つとして同じものの無い特別な『花』である。

其の唯一無二の『花』を摘む様な事をしてはならない。


しかし、心得違いをしてはならない。


其の『花』は、『(まこと)の花』ではない。

其の『花』は、『時分(じぶん)の花』である」


「『真の花』?

『時分の花』?」


「『真の花』とは、自身で育てた永遠に咲き続ける『花』の事である。

『時分の花』とは、此の頃に咲くべき『花』の事である。


『時分の花』は此の頃に咲くべき『花』であるから、どの様な稽古をしても直ぐに身に付き、比較的容易(たやす)く『花』を咲かせる事が出来る。

但し此の『時』に咲いた『花』が、一生の『花』として咲き続ける訳ではない。

『時分の花』とは此の『時』だけの、一瞬だけ咲く『花』の事だ。

『時分の花』は『真の花』のように、永遠に咲き続ける事はない。

『時分の花』を『真の花』であると、思い違いをしてはならない。

『時分の花』は、『真の花』ではない」


「『時分の花』は、『真の花』ではない・・・」


「うむ。


但し、心に留めておかなければならぬ事がある。


才能が在ろうと無かろうと、『時分の花』を咲かせていようといまいと、此の頃の子供には自分の演じ易い演技を演じさせ、基礎的な態は丁寧に学ばせるべきである。

動作は正確に、音曲は明瞭(めいりょう)に、舞の所作をしっかり守らせながら稽古させるべきである。

そうすれば、(いず)れ『真の花』を咲かせる事が出来るであろう」


「『時分の花』・・・其の『時』に咲く一瞬の『花』に頼らず、また仮令(たとえ)『時分の花』を咲かせていなくとも、基礎はしっかりと学ばなければならない。

基礎を学ぶと言う事が、『真の花』を咲かせる事が出来る道の一つでもあるから。

と、言う事ですね」


「うむ。


では、続けよう。


十七、八歳頃になると、声が変わる。

此れは、避けては通る事の出来ぬ道である。

此れにより、第一の『花』である『声の花』を失う。

また声だけでなく姿形も変わり、見た目の『花』も失う。

声も姿も変わっているにも(かか)わらず今までと同じ様に演じ続ければ、其の姿は観客の目に滑稽(こっけい)に映る。

何故なら、其の演技が『不自然』であるからだ。

其れに気付いていながら今までと同じ様に演じ続ければ、次第に自分を見る観客の目に耐えられなくなり、恥ずかしく思うようになる。

そして自分の限界を感じるようになり、何れ申楽への意欲も失ってしまうだろう」


「では、どうすれば良いのでしょうか?」


「たとえ他人に笑われようとも、朝夕発声練習を欠かさぬ事だ。

但し、無理をすれば喉を潰しかねないので注意が必要である。

声の高さは、〚黄鐘(おうしき)雅楽(ががく)十二律の八番目の音程)〛や〚盤渉(ばんしき)(雅楽十二律の十番目の音程)〛を目安にすると良い。

練習を重ね、神仏に願を懸け、「此処で諦めては終わりである」と自分に言い聞かせるのだ。

自分を(ふる)い立たせ、申楽を大成させるのだと覚悟を決めるのだ。

此処で出来ないと諦めてしまえば、全てが終わりである。

今までも、今も、此れからも、全てが『無』となる。

たとえ咲いていた『花』を失ったとしても、決して諦めてはならない。

一つの『花』が枯れてしまったのならば、新たな『花』を咲かせれば良いのだ」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「枯れてしまう『花』もある。

そして枯れてしまった『花』に執着(しゅうちゃく)し続けると、枯れた『花』は何れ此の世から本当に消えてしまう。

仮令一つの『花』を失ったとしても諦めず、覚悟を決め、精進(しょうじん)を重ねるべきである。

そうすれば、必ず新たな『花』を咲かせる事が出来る。

また枯れた『花』も、異なる色や形で再び咲かせる事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


では、続けよう。


二十四、五歳頃に、己の生涯の芸が定まる最初の『時』が来る。

此の時の稽古が、己の芸を確立させる事になる。

此処が、境目と心得よ。

此の頃には、声も体格も安定する。

稚児の頃とは異なる『花』を咲かせる事が出来る。

そして此の時に咲く『花』は、今後の盛りを左右する。

此の『花』を『真の花』とするか、『(いつわ)りの花』とするか、其れは自分次第である」


「『偽りの花』?」


「『偽りの花』とは、其の時の『運』や『目新しさ』により一瞬だけ咲く『花』の事である。


観客は此の年頃の演者の演技を見て、新たに現れた『花』を物珍しさから美しいと賛美(さんび)するかもしれない。

名人と呼ばれる人との芸の立合(たちあい)勝負で、運よく勝つ事が出来るかもしれない。

称賛(しょうさん)と勝利を得た演者は、其の光に目が(くら)むであろう。

『偽りの花』が、『真の花』であると思い違いするであろう。


此の頃に咲く『花』を『真の花』と看做(みな)すか、『偽りの花』と看做すか、其れにより演者の人生は変わる。


演者自身が此の頃に咲く『花』を『偽りの花』であると気付かず(おご)り高ぶれば、其の慢心(まんしん)の心は演者にとって却って(あだ)となるであろう。

観客から(おだ)てられ、自分は芸を極めた名人であると振る舞うなど浅ましい行為である。

たとえ人が其の『花』を褒め、其の『花』により立合勝負で名人に勝ったとしても、其れは『偽りの花』であると自分に言い聞かせるべきである。

そして『物真似(ものまね)』を正しく習い、自分よりも能力の高い者から芸を学び、稽古を重ねるべきである。


『偽りの花』を『真の花』であると取り違える心を持つ事が、『真の花』を遠ざける事になる。

其の心は『真の花』を咲かせる事を阻み、『偽りの花』のみを咲かせようとする。

咲かせた『偽りの花』が観客に褒め称えられ続けると、人は今まで存在していなかった自尊心(じそんしん)が芽生えてくる。

自尊心を持つ事が、悪い事なのではない。

高過ぎる自尊心は、驕りを生む。

驕った者は自分の考えに固執し、人から学ばず、人の意見を聞かず、努力もせず、そして『偽りの花』が知らぬ間に枯れてしまっている事にも気付かない。

思い上がりは『偽りの花』を枯らすだけでなく、『真の花』の開花を妨げる。


『新しい』からこそ人は其の『花』を『珍しい』『美しい』と感じる。

其の時、『運』が向いていたから勝負にも勝つ事が出来る。

しかし『新しさ』や『運』を失えば、一瞬にして『偽りの花』は枯れる。

此の頃に咲く『偽りの花』は、『一時(いっとき)の花』に過ぎないのだ」


「『一時の花』?

其れは、『時分の花』とは異なるのでしょうか?」


「うむ。


『時分の花』とは先程述べた通り、自然のままに咲く此の頃に咲くべき一瞬の『花』である。

『一時の花』は、『運』や『新しさ』により咲く一瞬の『花』である。

『時分の花』は、『時』により左右される。

但し『時』により左右されても、其の『花』が完全に枯れる訳ではない。

再び、咲く事もある。

『一時の花』は、『運』により左右される。

『運』により左右される『花』の多くは、枯れる。

再び、咲く事はない。


『時分の花』と『一時の花』は、異なる。


『新しさ』や『珍しさ』、若さによる『美しさ』は見る者の目を曇らせ、此れこそが『真の花』であると錯覚させる。

多くの観客は、此の『偽りの花』を『真の花』と見るであろう。

だが『真の花』を見極める事が出来る者は、目の前に咲く『花』が『偽りの花』であるか『真の花』であるかを見分ける事が出来る。

そして『偽りの花』がやがて枯れ、消え失せてしまう事も知っている。

『偽りの花』さえも失った演者には、何も残らない。

何故なら、『真の花』を咲かせようとする努力を(おこた)ってきたからだ」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「観客が『花』のある演者の演技を見て賛美しても、其の『花』が『真の花』であるとは限らない。

もしかしたら其れは、『偽りの花』・・・『一時の花』を褒められているに過ぎないのかもしれないから。

たとえ多くの観客が其の『偽りの花』を『真の花』と見ようとも、『真の花』を見極める事が出来る者は其の『花』が『偽りの花』であると見抜く事が出来る。

また演者自身も此の『花』は一瞬しか咲かない『一時の花』であると自覚しなければ、一生『真の花』を咲かせる事など出来はしない。

『真の花』を咲かせる為には慢心せず、自らの芸を磨く事に邁進(まいしん)すべきである。

傲慢(ごうまん)は、『真の花』を咲かせる機会を失わせる。

と、言う事ですね」


「うむ。


此の時に咲く『真の花』こそが、『初心(しょしん)』である」


「『初心』?」


「うむ。


『初心』は、三つある。


是非(ぜひ)の初心』

『時々の初心』

『老後の初心』


生きていれば、経験した事の無い多くの事を体験する。

其れは、一生涯続く。

年齢は、関係ない。

年を取ってから、初めて経験する事もある。


そして初めて経験をする『時』に、思い出すのだ。


『初心』を。


若い頃、其の時々、年老いてから経験した事、感じた事、思いを全て忘れてはならない。

新しい事に挑戦した『時』の心、苦難を乗り越えようとした『時』の心を忘れてはならない。


一生の内に多くの『花』を咲かせ、大切に育て続ければ、『花』は決して失われる事はない。

『花』を失わない為にも、自分の過去を忘れてはならない。

自分を知らなければならない。

自分の格を心得ていれば、『花』は完全に失せる事はない。

しかし自分の実力を過信(かしん)して自分の格以上の事をすると、本来の『花』をも失ってしまう」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「幾つになっても、初めて経験する事は沢山ある。

其の『時』にこそ、『初心』を思い出さなければならない。

今まで経験してきた辛く苦しかった事、感じた事、考えた事、全てを忘れず、全てを思い出し、どの様な『時』にも、どの様な事にも対応出来るようにしなければならない。

たとえ其の『時』自分にとって望む以上の事があったとしても、自分の格を知り努力を積み重ねていれば、新たな『花』を咲かせる事が出来る。

たとえ其の『時』自分にとって苦しい事があったとしても、今まで経験して来た事を(かて)にして諦めず困難を乗り越える事が出来れば、新たな『花』を咲かせる事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


では、続けよう。


三十四、五歳頃、芸は盛りの極みとなる。

≪私≫が『風姿花伝』で書き記した心得を活かし堪能(かんのう)(其の道に精通している事)となれば、天下に認められ名声を得る事が出来るであろう。

但し、もし此の時に天下に認められず名声を得る事が出来なければ、たとえ上手(じょうず)であろうとも『真の花』を未だに咲かせる事が出来ていないと気付くべきである」


「上手?」


「申楽では知識や経験、技術に応じて、達者から上手そして名人となる。


たとえ上手であっても芸を極めていないのならば、四十歳以降、芸は衰えるだけである。

此れは、其の『時』になって初めて証明されるであろう」


「此の時に名声を得ていないのならば、今まで努力によって咲かせてきた『花』は『真の花』ではなかったと言う証拠である。

そして此の『花』は、やがて枯れてしまうであろう。

と、言う事ですね」


「うむ。


芸の能力が向上するのは三十四、五歳の頃であり、衰え始めるのは四十歳以降である。


もう一度言う。


もし三十四、五歳の頃に天下に認められていなければ、芸を極めたと考えてはならない。

此の頃は慎み深く、過ぎし日を思い出し、此の先どうすべきかを考える『時』である。

此の頃に其れを見極め、『真の花』を得ようと努力しなければ、此の先天下に認められる事はないであろう」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「此の頃、天下に認められていなければ『真の花』は咲いていないと悟るべきである。

自分は現在、為手(シテ)(主役)ではないと考えるべきである。

しかし、悲観してはならない。

今は、「『真の花』とは何であるか」「『真の花』を咲かせる為には何をすべきか」を考えなければならない『時』である。

努力を続けていれば今現在『真の花』が咲いていなくとも、いつか『真の花』を咲かせる事が出来るかもしれない。

諦めてはならない。

此の頃は自分を見極め、此の先どの様にすべきかを考え実行する『時』であるから。

と、言う事ですね」


「うむ。


では、続けよう。


四十四、五歳頃、芸は大方変化する。

たとえ天下に認められていようとも、芸を極めていたとしても、忘れてはならないのは後継者を育てる事である。

『真の花』を咲かせた名人であれば、其の芸が衰える事は(まれ)である。

しかし、老いは誰しも避ける事が出来ない道である。

年を取れば力も衰え、自らの『花』も、観客の目に映る『花』も失っていくであろう。

人並外れた美男であればいざ知らず、見目好い人でも直面(ひためん)(面を付けずに素顔で演じる申楽)などを年老いてから演じるなど見られたものではない。

つまり、直面を演じる事は出来なくなると言う事である」


「肉体や美貌の衰えの為に芸の幅が狭まるのであれば、どうすれば良いのでしょうか?」


「細かな『物真似』をしない事だ。

自分に合う芸を無理せず演じ、寧ろ(ワキ)(相手役)に『花』を持たせ、自分は謙虚(けんきょ)に演じるべきである。

たとえ脇が未熟であろうとも、年甲斐(としがい)もなく見栄を張り、自らの『花』を見せつけるような演じ方をしてはならない。

自分の歳を考えず無理をして演じれば、観客は決して其れを『花』とは看做さない。

しかし本当の名人であるならば、たとえ容色が衰えても『花』は残っているものである。

其の残っている『花』こそが、『真の花』である。

五十歳近くまで『花』を失わない演者は、四十歳以前に天下に認められているはずである。

そして天下に認められた演者であれば、己自身の事も良く知っておらねばならない。

脇を見極め、後進を育てなければならない。

決して技巧を駆使して、自らの衰えを人に(さら)すような事をしてはならない。

己が何をすべきが、どうあるべきかを悟っている者こそが『真の名人』である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「年による衰えは、誰にでもある。

其の衰えに気付かず、脇を(ないがし)ろにし、自らの『花』を目立たせようとすれば其れは却って観客から見苦しいと思われる。

たとえ脇を立たせるような演技をしていても、肉体や美貌に衰えがあったとしても、『真の花』を持つ者の演技は輝いて見える。

天下に認められている者は、『真の花』を持っている。

『真の花』を持つ者は、後進(こうしん)に己の態を全て伝え、育てるべきであると言う事を知っている。

『真の花』を持つ者は、自分が此の先どうすべきか、どうあるべきかを知っている。

此の『真の花』を持つ者こそが、『真の名人』である。

と、言う事でね」


「うむ。


では、続けよう。


五十歳を超えてからは、『何もしない』と言う以外の手立てはない」


「『何もしない』?」


「うむ。


麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る〗

(伝説の霊獣(れいじゅう)である麒麟も、老いてしまえば凡庸(ぼんよう)な馬にも劣る)


と、言う。


並みの演者であれば演じられる芸は皆失せて、善悪の見どころも少なくなってしまうものだ。

しかし真の演者には、『花』が残る。


今から五十年前の五月十九日に五十二歳で亡くなった≪私≫の父・観阿弥は、其の月の四日に駿河国浅間神社するがのくにせんげんじんじゃ法楽(ほうらく)に申楽を(たてまつ)った。

其の日の父の演技は華やかで、観客は父の演技に目と心を奪われた。

あの時、父は演目の殆どを若手に譲り、父自身は最小限の動きで謙虚に演じただけであった。

しかし其れでも、其の演技には『花』があった。

いや。

父は、誰よりも美しい『花』が咲かせていた。

父は、『真の花』を咲かせていた。

たとえ枝も葉も少ない老木であっても、其の老木の『花』は散らず、失せもせず、残っていたのだ。

此れが、『老骨に残りし花』の証である。


【年来稽古條々】は、以上である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「年齢によって咲く『花』はそれぞれ異なるけれど、最後に残る『花』こそが『真の花』である。

老いても尚残る『花』こそが『真の花』であり、其の『真の花』は何もせずとも存在感があり、美しく咲き続ける事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


咲く『花』は、時々により異なる。

また、仮令『花』が咲いたとしても失う『時』がある。

其の『時』こそ、『初心』を思い出さなければならない。

自分を知らなければならない。

『自分は、何をすべきか』を考え、実際に行動しなければならない。

迷い、苦しみ、悲しみを乗り越えた先に『真の花』が咲いている。

たとえ老いても其の『真の花』を咲かせた者は、ただ其処に立っているだけで芳香(ほうこう)を放つ。


却来(きゃくらい)


と言う言葉がある。


『ある境地に達した時、再び元の境地に戻る』と言う意味である。


≪私≫は老いても尚『真の花』を咲かせた演者こそ、申楽の原点とも言える〚鬼〛を演じるべきであると考えている。

後程詳しく述べるが、〚鬼〛の『物真似』は大変難しい。

難しいからこそ、自分の持っている全ての力を以て演じなければならない。

たとえ才能が在ろうとも、若い演者には〚鬼〛を演じる事は出来ない。

真の〚鬼〛を演じる事の出来る演者は、申楽を極め『真の花』を咲かせた者だけである。

其の演者とは、老いても尚『真の花』を咲かせた者である。

其の演者が元の境地に戻り、正々堂々と自然に〚鬼〛を演じる事により『幽玄』が生まれる。

若い時の『幽玄』とは異なる『幽玄』を・・・『真の幽玄』を、老いても尚『真の花』を咲かせた演者は生む事が出来るのだ。


では、次に進む。


第二.【物学條々ものまねのじょうじょう


此の条項では、『物真似』の演じ方について記した。


『物真似』に関しては、文章にする事は難しい。

しかし『物真似』はとても重要なものなので、それぞれよく練習しなければならない。

全てに()いて徹底的に似せる事が本意であるが、事によっては完全に似せるか、敢えて不完全に似せるかを判断しなければならない時がある」


「何故、不完全に似せる必要があるのでしょうか?

『物真似』であるのならば、其のものに徹底的に似せた方が観客も喜ぶのではないでしょうか?」


「例えば国王や大臣を始めとした公家(くげ)(たたず)まいや武家の振る舞いなど、一般の人々では十分に知る事は出来ず、其れを完璧に写し取る事は難しい。

かと言って、いい加減に真似てもならない。

方々(かたがた)の言葉遣いや所作などしっかりと観察した上で演技し、観客の評価を得るべきであろう。


其の(ほか)、高位・高官の方々や花鳥風月(かちょうふうげつ)に関しては細部まで徹底的に似せるべきであろう。

農夫や庶民に関しては、(いや)し気な部分を少し軽減させて似せた方が良い。

ただ木樵(きこり)や草を刈る者、炭を焼く者、(しお)()む者に関しては、其の姿を真似る事は申楽に風情(ふぜい)をもたらすので事細かに演じるべきである。

しかし其れ以下の身分の者に関しては、詳細に真似てはならない。

勿論、≪私≫は彼らを(うと)んじて其の様な事を言っているのではない。

貴人が彼らの姿を真似た演技をご覧になるのは、少々具合が悪いからだ。

彼らの本来の姿を演じた演技をご覧になっても、貴人の方々は其れを卑しく『面白き』もないと感じられるであろう。

どの様な場合にどう演じるのか、演者は心得ていなければならないのだ」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「単に似せれば良いと言う事ではなく、役によって似せるべきもの似せるべきでないものを見極めなければならない時がある。

それぞれの風情を大切にすると共に、見る人の事も考え演じなければならない。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に〚女〛〚老人〛〚直面(ひためん)〛〚物狂(ものぐるい)〛〚法師(ほうし)〛〚修羅(しゅら)〛〚神〛〚鬼〛〚唐事(からごと)〛を真似る事について、注意すべき事を伝える。


先ず、〚女〛。


〚女〛は、若い為手が稽古するのに丁度良い。

何故なら、〚女〛はとても大切な演技であるからだ」


「〚女〛を演じる事が大切とは?」


「〚女〛を演じる際、扮装(ふんそう)が見苦しいと見るに堪えない。

我々は女御(にょうご)更衣(こうい)など高い身分の女性のお振舞(ふるまい)を見る事は難しいので、入念に研究しなければならない。

方々の(きぬ)(はかま)の着方には、形式がある。

其れらに関しては、丁寧に教わるしかない。

また普通の女性については見慣れているであろうから、扮装を真似る事は容易である。

彼女達の着る衣と小袖(こそで)は、相応の風情があれば良い。

(つつみ)に合わせて謡いながら扇を持って舞う〚曲舞(くせまい)〛や白拍子(しらびょうし)、狂女を演じる際には扇や(かんざし)を弱々しく軽く持った方が良い。

衣や袴は身体を覆い隠すように長々と着て、(こし)(ひざ)を真っ直ぐにし、身は(たお)やかにした方が(なま)めかしい。

顔の角度については上を向けば見目悪く、(うつむ)けば猫背となり後ろ姿が見苦しくなる。

かと言って(あご)を引き過ぎると、女性に見えなくなる。

出来るだけ袖の長いものを着て、手先は見えないようにした方が美しく見える。

帯なども、(ゆる)く結んだ方が良い。


扮装を(たしな)めるべきであると言うのは、美しく見せる為である。

どの様な『物真似』でも、扮装が見苦しくてはならない。

特に『女』を演じる際には、扮装が何よりも大事である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「何れの『物真似』にも、扮装は大事である。

特に〚女〛の扮装は姿を美しく見せる為の基本でもあるから、若い為手が稽古し演じるべきである。

また〚女〛の扮装は全ての『物真似』に通ずるものであるから、〚女〛の扮装が完璧であれば他の『物真似』も上手く演じる事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚老人〛について。


〚老人〛を演じる事は、申楽の道での奥義とも言えよう。

演技そのものが、演者の実力として表れる。

此れこそが、第一の大事である。


申楽を極めた為手でも、〚老人〛の『物真似』を会得したものは少ない。

例えば木樵や汐汲みをする〚老人〛の姿に寄せて演じれば、上手と言われよう。

しかし、此れは誤った批評である。

高貴な方が着用する(かんむり)直衣(のうし)烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)などを着た〚老人〛の姿は、申楽を会得した者でなければ似合う訳がない。

〚老人〛の演技は只管(ひたすら)地道に稽古を続け、芸の『位』が上がらなければ身に付けられるものではない。

また老いているからと言って、腰や膝を(かが)めて身を縮こませて振舞えば良いと言うものでもない。

其の様な姿は却って『花』を失わせ、古臭くさせる。

『花』が無ければ、『面白き』も無くなる。

〚老人〛を演じる際は落ち着いた雰囲気で、淑やかに振舞うべきである。


〚老人〛の舞は、無上の大事である。


『花』があり、尚且つ年老いていると見えるようにしなければならない。

其れは、老木に『花』を咲かせる事と同じである。

此れに関しては、後ほど詳しく述べよう」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚老人〛を演じるからと言って、ありのまま、また先入観や想像を以て演じるべきではない。

老いの中にも『花』を咲かせ、且つ『老い』を表現しなければならない。

だからこそ、『物真似』を会得した者でないと〚老人〛を演じる事は難しい。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚直面〛について。


〚直面〛を演じる事も、重要である。

演者自身が真似る対象と同じ普通の男性であるから演じる事は難しい事ではないが、上手な演者が演じないと〚直面〛は見られたものではない」


「何故ですか?」


「〚直面〛は演じる役、其の真の姿をしっかりと学ばなければならない。

演じるべき役の顔や表情を似せる必要もないのに、其の役になりきろうと顔を変え、表情を作ろうとする者がいる。

此れなど、見られたものではない。

顔や表情ではなく、其の役の立居振舞(たちいふるまい)や風情を似せるべきである。

顔は己のまま、表情は無理に作ろうとはせずあるがままにすれば良い」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「顔や表情は作っても、其れを完璧に表現する事は出来ない。

何故なら、『()()()()()()()()()()()()()』から。

表面のみを似せるよりも、役の本来の雰囲気を表現すべきである。

そして熟練した演者でなければ、其の役の立居振舞や風情を表現する事は出来ない。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚物狂〛について。


〚物狂〛は申楽の道に於いて、第一の『面白き』芸である。

〚物狂〛の演目は多種多様であるので、此の道を会得した演者は他のどの様な『物真似』も上手に演じる事が出来るであろう。

繰り返し繰り返し、工夫すべき嗜みと言えよう。

憑物(つきもの)、例えば〚神〛〚仏〛〚生霊(いきりょう)〛〚死霊(しりょう)〛の(とが)め((たた)り)などは、其の憑物自身を真似れば容易く手掛かりを得る事が出来る」


「憑物自身を真似るとは?」


「例えば親と別れる、失った子を(たず)ねる、夫に捨てられる、妻に先立たれる等だ。

憑物には、狂ってしまった理由がある。

過去がある。

そして其の理由や過去は、憑物によってそれぞれ異なる。

斯様(かよう)な思いに狂乱する〚物狂〛は、第一に重要である。

素晴らしい為手であっても狂乱の理由の違いを使い分けず、ただ一辺倒(いっぺんとう)に狂乱を演じさえすれば良いと考えて演じていては、見る人に感動を与える事など出来はしない。

それぞれの思いがあってこその〚物狂〛は、其の思いに重きを置いて演じる事を基調とし、『狂う』と言う演技に『花』を置かなければならない。

心を込めて『狂い』を演じる事が出来れば、『感動』と『面白き』が生まれる。

此の様にして、見る人の涙を誘うように演じる事が出来れば、其の演者は無上の上手と言えるであろう。


此の事を心底(わきま)えておくべきである。


加えて、〚物狂〛の出立(いでたち)は其れに相応(ふさわ)しいものでなければならない。

しかし〚物狂〛に寄せるだけでなく、時によっては季節の花を髪に挿すなど華やかに出で立つ事も必要である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「単に『狂い』を演じるのではなく、それぞれの思いや狂乱に至った理由や過去を考慮して演じなければならない。

また時と場合によっては仮令〚物狂〛であったとしても、〚物狂〛であるからこそ、其の出立に心を配らなければならない。

恐ろしさと同時に、悲しみや華やかさも表現しなければならない。

憑物の思いを表現する為の振舞も扮装も、〚物狂〛を演じる為には重要な事である。

と、言う事ですね」


「うむ。


更に言う。


『物真似』について、心得るべき事がある。


其れは、〚女物狂〛を演じる時である。


〚物狂〛は、憑物そのものに応じて狂乱を演じるものである。

しかしながら修羅道に()ちた者や、鬼神(きじん)が女性に憑いた〚女物狂〛はあまり宜しくない。

憑物そのものを表現しようとして女性の姿で憑物の怒りを表せば、観客が思い描く女性の姿と異なってしまう。

また女性に重きを置き過ぎて演じてしまうと、憑物を演じきる事が出来ない。

〚男物狂〛に女が憑くと言う演目でも、同様である。

つまり此れらの演目に関しては、『()()()()』と言う事が秘訣である。

もし其の様な演目を作るような作者がいれば、其の作者は料簡(りょうけん)が狭いとしか言いようがない。

申楽の道に長じた書き手であれば、左様(さよう)にそぐわない演目を書く事はないであろう。


また〚直面〛の〚物狂〛は申楽を極めた者でなければ、十分に演じる事など出来ない。

何故ならば、顔や表情を似せなければ〚物狂〛に見えないからだ。

申楽を極めていない者が顔や表情を〚物狂〛に無理に似せようとすれば、其れもまた見られたものではない。


此れは、『物真似』の奥義とも言える。


大事な申楽興行の時には、未熟な者には演じさせない方が良い。

〚直面〛も〚物狂〛も、未熟な者が演じるには荷が重過ぎる。

〚直面〛の一大事、〚物狂〛の一大事、二つの一大事を『花』として咲かせる事はとても難しい事である。

一心に稽古しなければ、会得する事など出来ない」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚女物狂〛も〚男物狂〛も女や男に寄せて演じてはならないし、また憑物に寄せて演じてもならない。

片方に寄せて演じれば其の演技は演目とは異なるものとなり、観客の目には不自然なものと映る。

つまり片方に重きを置いて演じても演じる事が出来ないのならば、演目によっては〚女物狂〛も〚男物狂〛も演じない方が良い。

其れは、〚物狂〛を〚直面〛で演じる際も同様である。

先程、世阿弥様は〚直面〛を演じる際は顔や表情を作ってはならないと仰いました。

しかし〚物狂〛は、顔や表情を似せなければ〚物狂〛に見えない。

顔や表情を似せてはならない〚直面〛と、似せなければならない〚物狂〛を同時に演じる事は難しい。

しかし熟練の為手は、たとえ〚直面〛であっても自然に〚物狂〛を表現する事が出来る。

〚直面〛と〚物狂〛を同時に自然に表現する為には、只管稽古し申楽を極めた者でなければ出来ない。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚法師〛について。


〚法師〛を演じる事は『物真似』でも(まれ)なので、特別に稽古する必要はない。

美麗(びれい)に着飾った僧正(そうじょう)僧都(そうず)律師(りっし)など高位の僧の『物真似』は、威厳(いげん)のある立居振舞を基調として其の気高(けだか)さを真似れば良い。

また其れよりも下の位の僧や世捨て人、修行者については本来の姿である乞食行脚(こつじきあんぎゃ)を基調とし、修行に励んでいる姿を真似るのが良い。

ただ、ものによっては思いの(ほか)手の掛かるものもある」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「僧の『物真似』に関しては、其れ程手を掛ける必要はない。

其の通りに演じれば良い。

だからと言って手を抜いて良い訳ではなく、それぞれに気を配らなければならない事がある。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚修羅〛について。


〚修羅〛も、『物真似』の一つである。

しかし、たとえ上手に〚修羅〛を演じる事が出来たとしても、『面白き』と思われる事は稀である。

故に、此れもまたあまり演じない方が良い。

但し源氏や平氏など名のある武将に花鳥風月(かちょうふうげつ)などの風流を添えて演じ、其の演技が素晴らしいものであれば何よりも『面白き』ものとなる。

其の場合、特に華やかに演じるのが良い」


「何故、華やかに演じると『面白き』ものとなるのでしょうか?」


「〚修羅〛の狂乱は、場合によっては〚鬼〛の演技に見えてしまう時がある。

そうならない為に演技の中に『曲舞』を取り入れ、謡や舞踊で彩りを加えて華やかに〚修羅〛を演じなければならない。

また〚修羅〛は弓や(えびら)(矢筒)を携え、太刀(たち)()いて威厳を表現する必要がある。

其の持ち方、使い方をよく研究して、〚修羅〛の本質に沿うように演じなければならない。

〚鬼〛の演技と同じ様にならぬよう、また舞に寄せぬよう注意しながら演じなければならない。

〚鬼〛とは異なる演技をし、且つ舞や扮装に多少の華やかさを加える事により、〚修羅〛ならではの『面白き』が生まれるのだ」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚修羅〛の演技が〚鬼〛の演技とならないよう、演じ分けなければならない。

〚修羅〛を演じる際にも舞を取り入れて華やかさを表現し、〚修羅〛ならではの扮装を心掛ければ、其れは『鬼』とは異なるものとなり、『面白き』を生む。

但し演じ分けようとするあまり、舞や扮装を過度に取り入れようとしてはならない。

其れは、『面白き』を生む事はない。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚神〛について。


〚神〛の『物真似』は、〚鬼〛と似ている。

〚神〛には元々荒ぶるところがあり、〚神〛によっては〚鬼〛の『物真似』に似ていたとしても差し(つか)えない。

但し、〚神〛と〚鬼〛は明らかに異なると言う事を決して忘れてはならない。


〚神〛の『物真似』には舞を取り入れた方が良いが、〚鬼〛の『物真似』には取り入れない方が良い。

〚神〛は、其の御神体(ごしんたい)に相応しい姿で気高く立居振舞うべきである。

また衣装も美しく着飾り、着崩れしないように着付けなければならない」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚神〛と〚鬼〛には共通点もあるけれど、同じように演じてはならない。

〚神〛に対する畏怖(いふ)と〚鬼〛に対する畏怖は別物であるから、立居振舞も扮装も区別して演じなければならない。

と、言う事ですね」


「うむ。


次に、〚鬼〛について。


〚鬼〛は『大和申楽(やまとさるがく)』が得意とするものであり、とても重要な演技でもある。

怨霊や憑物などの〚鬼〛は、演じるだけで『面白き』があるので演じ易い。

相手役である脇に対して細かく足や手を使い、〚鬼〛の被り物に応じて演技をすれば、其れだけで『面白き』演技となる。

ただ冥途(めいど)の〚鬼〛などを写実的に表現すると恐ろしいものとなり、却って『面白き』が失われてしまう。

〚鬼〛は本当に重要な『物真似』なので、『面白く』演じる事の出来る演者は少ない」


「では、どのように演じれば良いのでしょうか?」


「冥途の〚鬼〛は、強く恐ろしいものである。

『強さ』と『恐ろしさ』は、『面白き』とは異なるものである。


抑々(そもそも)、〚鬼〛の『物真似』は大変難しい。

上手く演じようとすればするほど、『面白き』が失せる。

〚鬼〛は『強い』『恐ろしい』と言う事が、真実である。

『強い』『恐ろしい』と思う心と『面白き』と思う心は、黒と白と同じように異なるものである。

故に〚鬼〛を『面白く』演じる事の出来る為手は、申楽の道を極めた上手と言えるであろう。

しかし〚鬼〛だけを上手に演じる者は、『花』を知らない為手とも言える。

若き為手が演じる〚鬼〛は上手に演じているように見えるけれど、『面白き』に欠ける。

〚鬼〛の『物真似』を得意として〚鬼〛ばかりを演じ続ければ、〚鬼〛の『物真似』の『面白き』が次第に失われていく。

〚鬼〛を『面白く』演じる為には、稽古を積み重ねるしかない。

〚鬼〛を『面白く』演じる事は、(いわお)に花を咲かせる事と同じである」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚鬼〛は演じ易いけれど、大変難しい。

何故なら本当の〚鬼〛を表現する事を重視すればするほど『面白き』が失われ、『恐ろしさ』が増してしまうから。

〚鬼〛の本来の『強さ』と『恐ろしさ』は『面白き』とは全く異なるものなので、〚面白き〛を失わずに〚鬼〛を演じる事が出来る為手は少ない。

上手に〚鬼〛を演じる事が出来る者こそ、申楽の道を極めた者と言える。

しかし〚鬼〛ばかりを演じていては、元々あった〚鬼〛の『面白き』も失われてしまう。

仮令〚鬼〛を上手に演じる事の出来る為手であっても、『面白き』を失わない為には稽古を積み重ねる必要がある。


先程、世阿弥様が仰っていた〖老いても尚『真の花』を咲かせた演者こそ、申楽の原点とも言える〚鬼〛を演じるべき〗とは、真に申楽を極めた者でなければ〚鬼〛を演じる事など出来はしない。

と、言う事ですね」


「うむ。


最後に、〚唐事〛について。


〚唐事〛の『物真似』は格別な演目なので、決まった稽古の型と言うものが無い。

ただ肝要(かんよう)なのは、扮装である。

扮装に関しては唐人も日本人も(おもて)は同じなので、日本とは異なる文様の衣服を着て観客に異国と思わせる必要がある。

〚唐事〛の『物真似』は、熟練の為手こそ似合う演目である。

しかし扮装を唐様にする以外、手立てがない。

音曲も所作も唐様にして似せようとしても、どうしても『面白き』は欠けてしまうものだ。

故に、何処かに唐様をそっと忍ばせる程度で良い。

此の異様を表現すると言う事は、全てに於いて応用出来る。

どのような事でも異様は良い事ではないけれど、唐様は何としても似せる事は出来ないので、常の所作を少し変えて唐様を少し加えれば観客は其の様に見えるようになる。


【物学條々】は、以上である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「〚唐事〛については、扮装を真似て其れを表現する事しか出来ない。

しかし、其れでは『面白き』が薄れてしまう。

ならば、いつもとは少し異なる演技をし、其の演技の中に唐様を少し加えれば、人は其処から異国を感じる事が出来る。

其の表現方法は、他の演目でも取り入れる事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


『物真似』はただ其の役を演じるのではなく、それぞれの役に応じて演じ分け工夫する必要がある。

しかし、全てを完全に似せる必要は無い。

写実であって、写実でなくとも良い。

全ての『物真似』には、必ず『花』や『珍しき』や『面白き』がなければならない。

そして其れは、稽古を積み重ねなければ得られないものである。


他にも伝えたい事はあるが、其れは自身が稽古し演じ続ければ気付く事が出来る。


では、次に進む。


第三.【問答條々もんどうのじょうじょう


此の条項では、≪私≫の問いに対する父・観阿弥の答えについて記した。


≪私≫は、観阿弥に問うた。 


〖抑々申楽興行を行う当日、開演前に先ず観客席を(のぞ)いて其の日の吉凶(きっきょう)(あらかじ)め判断するのは何故でしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れは、とても難しい事である。

申楽の道を極めた者でなければ、其の日の吉凶を判断する事は出来ない。


開演前、先ず其の日の観客席を見る。

すると、今日の申楽の公演が上手くいくかどうかと言う前兆を感じ取る事が出来る。

但し、此れについて言葉で表現する事は難しい。

しかし、大凡(おおよそ)の事を()(はか)る事は出来る。

例えば神事や身分の高い方々の御前(ごぜん)で申楽を演じる際、多くの観客が集まる為に『場』がなかなか静まらない『時』がある。

では観客を静める為には、どの様にすれば良いか?

其の時は、わざと為手の登場を遅らせると良い。

そうすれば観客は申楽の始まりを待ちわび、一同の心もいつしか一つになり静かになる。

「まだ為手は登場しないのか」と、観客は楽屋の方を見る。

観客の心が高まった其の『時』、演者は一声(いっせい)を上げるのだ。

やがて舞台も観客も、申楽の世界に引き込まれていく。

そして観客の心と為手の舞が和合し専心(せんしん)すれば、其の日の申楽は上手くいく。

ただ、此れが必ずしも良い方法と言う訳でもない。

申楽は身分の高い方々がご覧になる事が基本なので、もし方々が早くいらした時はどのような雰囲気であっても直ぐに開演しなければならない。

故に、先程述べた方法は使えない。

観客の席も埋まっておらず、(ある)いは遅れて観客が着席したり、観客が立ったり座ったりして落ち着かない時は、観客の心はまだ申楽に向けられていない。

其の様な状況では、観客は心を落ち着かせて申楽に専心する事など出来ない。

では、どの様にすれば良いか?

先ず初番に演じられる申楽は如何(いか)なる役であっても、いつも以上に美しく舞い、声も力強く発し、少し高く足踏みをし、風情を以て立ち振る舞い、観客の目に留まるように生き生きと舞うべきである。

此れは、観客席を静める為である。

此の様な『時』でも、特に身分の高い方々の御心(みこころ)(かな)った舞をしなければならない。

但し、初番に演じられる申楽が十分に上手くいくと言う事はあまり無い。

其れでも、身分の高い方々の御心に沿う事が何よりも重要なのである。

何としても、観客席を静めて観客自らが自然と申楽に専心する『場』を作らなければならない。

『場』を作る為には、観客の『心』と現在の『場』の雰囲気を知らなければならない。

しかし観客が申楽に対して傾注(けいちゅう)しているかどうかを判断出来るのは、申楽の道に()けた者でなければ出来ない〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「観客が申楽に専心出来る『場』を作ると言う事も、演者の役割である。

其の為には開演前に其の『場』をよく観察し、『場』を静める必要がある。

しかし開演前の『場』は時々によって異なるので、其の『場』をどの様な『場』にするかは演者次第である。

そして『場』を作る事が出来るのは、申楽に精通した者である。

と、言う事ですね」


「うむ。


『人の心』を見極め、其の絶妙なる『時』に観客を申楽の世界に引き込む。


時節感当(じせつかんとう)


つまり、時節(じせつ)を感に当てるのだ」


「時節を感に当てる・・・」


「其の『時』に、其の『時』当てるべきものを当てるのだ。

其れが、成功する為の秘訣である」


「其の『時』に、其の『時』当てるべきものを当てる・・・」


「うむ。


観阿弥は、更に言った。


〖夜に演じる申楽と昼に演じる申楽は、異なる。

夜は遅く始まる為、陰鬱(いんうつ)とした雰囲気になるものだ。

故に、昼の二番に演じる舞を夜の初番に演じるべきである。

初番の舞が陰湿(いんしつ)であると、其の日の申楽は立ち直らないものと思った方が良い。

夜に演じる申楽は、良い演目を選んで演じるべきである。

また夜は観客席がざわついていようとも、為手の一声で静かにする事が出来る。


昼に演じる申楽は後半が良く、夜に演じる申楽は前半が良い。

始まりが暗鬱(あんうつ)であると、最後まで立ち直る事はない。

最初が、肝心(かんじん)なのである。


此れから言う事は、秘儀である。


抑々、全ては陰陽(いんよう)の和合する境を成就(じょうじゅ)と知るべきである。

昼の『気』は、『陽の気』である。

そして観客を静めて舞を舞うと言う事は、『陰の気』である。

つまり昼の『陽の気』の時に『場』を静める『陰の気』を生ずると言う事は、『陽』と『陰』を和合すると言う事である。

此れは、昼に演じる申楽の公演が上手くいく成就の始まりである。

此れこそが、観客が『面白き』と感じる心である。

対して夜の『気』は『陰の気』であるので、出来るだけ明るく良い演目を演じれば観客の心は花めくであろう。

此の明るい『場』が、『陽の気』である。

夜の『陰の気』が明るい『場』である『陽の気』と和合すれば、夜に演じる申楽の公演は成功する。

()れば『陽の気』の時に『陽』を行い、『陰の気』の時に『陰』を行えば、和合する事もなく成就する事もない。

成就なければ、観客の心に『面白き』と言う心が芽生える事もない。

『陰』と『陽』の調和、つまり『中庸(ちゅうよう)』であると言う事が理想なのだ。

しかし、たとえ昼であっても、時によっては観客席が蕭々(しょうしょう)たる雰囲気である『時』がある。

其の『時』はたとえ昼であっても『陰の気』と心得、観客が心沈まぬように演者は気を入れて演じるべきである。


但し、注意しておくべき事がある。


昼は場合によっては『陰の気』になる事もあるが、夜が『陽の気』になる事はあまりない。

何事も臨機応変に、柔軟に対応しなければならない。

しかし其れは、申楽の道に長けた者でなければ出来ない。


開演前に観客席を覗いて予め吉凶を判断する理由は、此の様な事である〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「全てのものは、『陰』と『陽』で成り立っている。

『陽の気』である昼には『陰の気』である『場』の沈静が和合し、『陰の気』である夜には『陽の気』である『場』の明朗が和合する。

『陰』と『陽』が和合した時、つまり『中庸』である時、観客は『面白き』と感じる。

対して『陽の気』の時に『陽の気』を、『陰の気』の時に『陰の気』を当てれば和合する事はなく、和合しなければ、つまり『極端(きょくたん)』であると観客は『面白き』と感じない。

また昼は『陽の気』ではあるけれど時には『陰の気』になる時もあるので、其の時は其の『場』に応じて『陽の気』を当てなければならない。

何れの場合も、時期や方法と言うものは其の時々で異なる。

其の『時』に応じて、絶妙な『時』に当てるべきものを当てる事が重要である。

つまり、其れが〖時節感当〗。

と、言う事ですね」


「うむ。


〖時節感当〗には、〖目前心後(もくぜんしんご)〗が重要である」


「〖目前心後〗?」


「目は前を見て心は後ろに置く、と言う意味だ。


自分の目で見る自分の姿を『我見(がけん)』と言う。

他者から見える自分の姿を『離見(りけん)』と言う。

他者の立場になって見る自分の姿を『離見の(けん)』と言う。


〖目前心後〗とは、『離見の見』を重視すると言う事である。


『離見の見』、此れこそが重要なのである。


『離見の見』で見るもの、此れは則ち〖見所同心(けんしょどうしん)の見〗である」


「『見所同心の見』?」


「他者と同じ心で自分を見る事により、他者の目に映る自分の姿を知る事が出来る。

主観を持ちつつも客観的に自分を見る事が出来れば、「どうすれば良いのか」「どうすべきか」を知る事が出来る。

周りの事を考えず自分の思い込みだけで行動をすれば『場』は『陰の気』となり、自分のみならず他者をも『陰の気』へと引き込む事になるであろう。

独り()がりな行動は、慎むべきである。

其れは、他者の為でもあり己の為でもある」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『場』の『陽の気』と『陰の気』を和合させる事が、演者の役割でもある。

其の為には客観的に自分を見つめ、自分の立場を(わきま)えて行動し、『時』と『場合』に応じて『場』を『陽の気』から『陰の気』へ、『陰の気』から『陽の気』へと変化させる必要がある。

つまり『時』や『場』に応じて自分自身を見つめ、其の『時』に当てるべきものが何かを考え当てる。

〖時節感当〗の為に〖目前心後〗が重要であるとは、そう言う事なのですね」


「うむ。


〖目前心後〗とは、己を俯瞰(ふかん)すると言う事でもある。


己を俯瞰する事は、己を制御する為でもある。

己を制御し己を冷静に見つめる事により、『場』を見極め、『場』を作り、どの様な『場』でも対応出来るようになる。

己を制御出来なければ、『時』を当てる事も、『場』を作る事も出来ない。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖申楽に於いて、『序破急(じょはきゅう)』はどの様に定めるべきでしょうか?〗」


「『序破急』?」


「『序』とは、ゆっくりと静かな『時』。

『破』とは、空気が少し高まる『時』。

『急』とは、『破』が更に高まる『時』。


此れらは、舞や音曲により変化させる」


「つまり『序破急』とは舞や音曲の強弱や速さによる『時』の変化、徐々に『場』の空気が高まって行く段階の事を言うのですね」


「うむ。


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れは、簡単な事である。


全ての事に『序破急』が在り、申楽も同様である。

申楽の場合は、申楽の風情を以て『序破急』を定めれば良い。

先ず初番に演じる申楽では正統な文献の中から淑やかな演目を選び、無闇(むやみ)に技巧に()らず、音曲や所作も自然に流れるように演じるのが良い。

此れが、『序』である。

此の『序』で第一に重要な事は、『寿(ことほ)ぎ』と言う事である。

何故『寿ぎ』が重要かと言うと、初番に演じる申楽が神事の為の演目であるからだ。

初番に演じる演目がどれ程素晴らしいものでも、『寿ぎ』と言う意味が欠けていてはならない。

たとえ演目として劣っていようとも、初番に演じる申楽の中に『寿ぎ』があれば良いのである。

故に、初番の申楽には『序』を当てる事が相応しい。

しかし二番目、三番目に演じる申楽は、演者が得意とする演目を選ぶのが良い。

特に最後は『急』であり舞や音曲にも勢いがあるから、手数(てかず)を掛けて舞うのが良い。

また後日の初番に演じる申楽は、先日の申楽とは異なる演目を選んだ方が良い。

『泣き申楽』つまり観客の涙を誘う様な申楽は、申楽興行中の中盤の良い『時』を見計らって演じるのが良い〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「申楽も雅楽(ががく)と同様、『序破急』に則って演じる必要がある。

申楽は抑々神事であるから、初番に演じる申楽を演じる際には『寿ぎ』の心を忘れてはならない。

初番の申楽には『序』を、其の後は『破』と『急』を当てる。

但し『序破急』に則って申楽を演じる際には、舞や音曲に於ける変化を意識しなければならない。

また一日に講演する演目だけでなく、興行全体の事を考えながら『序破急』を定めなければならない。

前回と同じ事をすれば良いと言う事ではなく、全体に変化を加える必要がある。

と、言う事ですね」


「うむ。


また『序破急』と同様に、『一調(いっちょう)二機(にき)三声(さんせい)』と言うものがある。


申楽の演者は舞台で声を発する際、先ず笛の音で声の調子を整える。

此れを『一調』と言う。

次に、機を(うかが)う。

此れを『二機』と言う。

最後に目を閉じ、息を溜めて声を発する。

此れを『三声』と言う。


『序破急』はゆっくりと、変化を加え、次第に『場』の空気を高める。

『一調二機三声』は調子を整え、機を(とら)え、声を発して『場』を作る」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『序破急』も『一調二機三声』も其の『時』の『場』の空気を読み、自分と『場』の関係性を考え定める必要がある。

『場』を見極め『場』に合った対応をすると言う意味では、『序破急』も『一調二機三声』も、開演前に吉凶を判断し『場』を作る事と通ずる所が在ると思いました」


「うむ。


『序破急』も『一調二機三声』も、何れも『場』を作る為に必要なものである。


演者は、『場』を作らなければならない。


『場』に応じて、己も変化させなければならない。

己を変化させる事が出来れば、『場』は生きる。

己を変化させる事が出来なければ、『場』は死ぬ。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖申楽に於いて他座との立合勝負で勝つ為には、どうすれば良いのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れは、とても重要な事である。

先ず演じられる演目を多く持ち、相手の申楽とは異なる芸風を以て演じる事だ〗と。


『風姿花伝』の序文で、≪私≫は〖歌道(かどう)を少し嗜めよ〗と書き記した。

其れは、此の為である。


観阿弥は、続けた。


〖申楽の作者と演者が別であれば、どれ程の上手な演者であっても作者の心のままに演じる事など出来ない。

しかし自ら作った演目であれば言葉も所作も、自分の思う通りに演じる事が出来る。

故に申楽を学ぼうとする者に和歌の才があれば、申楽の演目を作る事は難しい事ではない。

演者が申楽の演目を作る事が出来ると言う事こそが、申楽の道の命とも言うべきものである。

()れば如何なる上手でも自作の申楽を持たない為手は一騎当千(いっきとうせん)強者(つわもの)ではあるが、戦場に於いて武器を持たない(つわもの)であるに等しい。


自作の申楽の演技は、立合の場で披露すべきである。

相手が華々しく演じるのであれば、こちらは静かに、風情や見せ場の異なる演目を演じるのが良い。

此の様に他と異なる風情にして演じれば、如何に相手が上手であってもこちらが負ける事はない。

もし其の『時』に良く演じる事が出来れば、こちらの勝利は間違いない。


立合勝負でなくとも申楽の舞台に於いて、申楽の演目には上・中・下の序列がある。

正統な文献であり、素晴らしく、『幽玄』で『面白き』演目のものを良いものとすべきである。

良い演目を、上手に演じる事が出来る事を第一とする。

演目としては多少劣るが、正統な文献から選び、無難な演目を良く演じ、上手に演じる事が出来る演目を第二とする。

演目としては質の悪いものでも、正統な文献の中の悪い部分をうまく利用して良く演じ、上手に演じる事が出来る演目を第三とする〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「此の世に(ただ)一つの、自分だけのものを持つべきである。

其れは、自分自身が作るべきである。

自分で作れば、自分の思う通りに演じる事が出来る。

長所を短所に変える事が出来る。

短所を長所に変える事が出来る。

様々な工夫をする事が出来る。

此の唯一無二(ゆいいつむに)のものを自ら作る為には、知識が必要である。

知識を以て新しいものを作り、他者とは異なるものを持ち、他者が持ち得ないものを演じる事が出来れば、何ものにも負ける事はない。

但し、自ら作った演目を披露する時期や種類は見極める必要がある。

『幽玄』であり『面白き』演目がやはり重要であるので、演目は正統な文献から選び、工夫し、上手に演じなければならない。

と、言う事ですね」


「うむ。


たとえ素晴らしい自作の申楽であっても、何に重きを置くべきかはしっかりと見極めなければならない。

たとえ変化に富んだ珍しい自作の申楽であっても、守るべきものは守らなければならない。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖大きな疑問が在ります。

熟練の、しかも名人とも言われるような為手を相手に、若い為手が立合の場に於いて勝つ事があります。

其れは、何故でしょう?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れこそ、先程述べた【年来稽古條々】の三十歳以前の『時分の花』の事である。

熟練した為手の『時分の花』は、年齢により既に失われている。

故に『時分の花』が既に失せた熟練した為手の演技は、観客の目に目新しいものと映らないので、若い為手の『珍しき花』に負ける事がある。

しかし優れた目利きは、『真の花』と『時分の花』を見極める事が出来る。

従って、目利きが優れているかどうかと言う事が立合勝負の分かれ目と言う事になる。

しかし、此れも様々な場合がある。


五十歳を過ぎても尚『花』を失わない為手には、如何なる『若き花』と言えども勝つ事は出来ない。

ある程度の上手な為手であっても年齢の為に『花』を失えば、並みの『若き花』に負ける事もある。


どの様な名木であっても、花が咲かない時期がある。

人は、花の咲いていない木を見ようとするであろうか?

たとえ其の白い花が一重の犬桜(いぬざくら)であっても、初花(はつはな)が色とりどりに咲けば犬桜が桜に見えなくとも人は其の花を見ようとする。

此の様な例えから考えると、『時分の花』と言えども熟練の為手との立合勝負に若い為手が勝利すると言う事は当然の事と思われる。


()れば重要なのは、申楽の道はただ『花』こそが申楽の命であると言う事だ。


自身の『花』が既に失われている事に気付かず、(かつ)ての名声に(すが)る事こそが熟練の為手の誤りなのである。

多くの『物真似』を演じていたとしても、『花』の有り様を知らずに演じていれば、其れは『花』が咲かぬ時の草木を集めて眺めている事と同じ事である。

万木千草(ばんぼくせんそう)に於いて、花の色はそれぞれ異なっている。

人が其の花を見て『面白き』と感じるのは、其の花が『花』であるからだ。

演じてきた『物真似』の数は少なくとも、一輪の『花』を極めた為手の名声は長く続くであろう。

しかし自分の心には『花』が在るのだと思ってはいても、人前で演じる際に工夫が無ければ、田舎に咲く花や藪梅(やぶうめ)など(いたずら)に咲き匂うだけの花と同じである。

また同じ上手な為手と言えども、其の中には段階がある。

演技に工夫を凝らさない為手が、時には芸を極めた上手や名人であると観客に評価される時がある。

しかし其の『花』は、最後まで残る事はないであろう。

演技に工夫を凝らせば、たとえ態に衰えがあろうとも『花』は残る。

『花』が残れば、『面白き』は生涯続く。

故に『真の花』が残る為手には、如何なる若き為手であっても勝利する事は出来ないのだ〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「たとえ上手な為手であっても、年齢の為に『時分の花』は失われる。

失われるものは、失われてしまう。

其れは、仕方のない事である。


人は、『花』を求める。

たとえ其れが『時分の花』であっても、人は『花』の咲く方に()かれる。


若い為手が『時分の花』を咲かせている事を、羨んではならない。

『時分の花』を失ってしまった自分に、絶望してはならない。

()してや、嘗ての栄光に縋ってもならない。


自身の『時分の花』を失っても、人が若い為手の『時分の花』に心を奪われたとしても、決して諦めてはならない。

老いて芸が衰えようとも『花』を知り、様々な『花』を咲かす努力をし、『真の花』を咲かせようとする事が大切なのである。

『真の花』を咲かせていれば、たとえ立合勝負の相手が『時分の花』を咲かせていようとも負ける事はない。

と、言う事ですね」


「うむ。


老いは、必ず訪れる。

其れは、誰にも避ける事の出来ない事だ。

しかし、たとえ老いたとしても『真の花』を咲かせる為の努力をし工夫を極めれば、『真の花』を咲かせ、『真の花』を残す事が出来る。

そして、また新たな『花』を咲かせる事が出来る。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖申楽に於いて、人にはそれぞれ得手不得手(えてふえて)と言うものがあります。

(こと)(ほか)劣っている為手でも、演目によっては上手な為手に勝つ事があります。

此の上手な為手は得意な演目を演じれば良いのに、演じない時があります。

其れは、其の演目を演じる事が出来ないからでしょうか?

それとも、其の演目を演じてはならないからなのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖全ての事に於いて得手、つまり生来(せいらい)上手に出来るものと言うものがある。

実力があっても元々の才能がなければ、たとえ上手であっても出来ない事がある。

人並の上手は限られた演目、自分が本当に得意とする演目しか演じない。

演じる事が出来ない。

しかも人並の上手の多くは得意な演目を演じるだけでなく、『花』を咲かせる努力をも怠り慢心している。

但し申楽を極め演技の工夫を会得した上手に、此れは当てはまらない。

申楽を極め演技の工夫を会得した上手は、全ての演目を演じる事が出来る。

しかし、申楽を極め演技の工夫を会得した上手は万人の中に一人もいない。


抑々、上手にも悪い所が在り、下手にも良い所が在る。

残念な事に、其れに気付く者が少ない。

しかも本人でさえ、自らの悪い所や良い所に気付かない事が多い。

上手は名声を頼みとし、其れに隠された悪い所を知らない。

下手は元より演技を工夫せず、悪い所も分からない上、稀に在る良い所に気付きもしない。

故に、上手も下手も互いの意見を聞くべきである。

申楽を極め演技の工夫を会得するには、此の事を念頭に置くべきである。

どれ程劣った為手であっても其の為手に良い所が在ると気付けば、上手も此れを学ぶべきである。

此れが、芸を極める為の第一の手立である。


もし劣った為手の良い所を見つけても、


「自分よりも劣った為手の真似はしない」


などと言う諍識(じょうしき)(慢心)が在れば、其の心は緊縛(きんばく)され、自身の悪い所に気付く事もないであろう。

此れこそが、芸を極めぬ心である。


また、下手も上手の悪い所に気付き


「上手にも、悪い所が在る。

『初心』である自分ならば、尚更悪い所が多いであろう」


と思って此の事を恐れ、人に自分の芸について尋ね、自分の演技に工夫を凝らせば、其れが稽古となって芸は更に磨かれるであろう。


もしそう思わず、


「自分は、あの様に無様(ぶざま)な姿を晒す事はない」


と慢心すれば、自身の良い所も真実も知らない為手となるであろう。

良い所を知らなければ、悪い所も良いものであると見誤ってしまう。

そうすると、歳は重ねても申楽は上達しない。

此れが則ち、『下手の心』である。

故に、たとえ上手であっても慢心すれば態は衰えていく。

下手が慢心すれば、尚更悪い。

演者は上手であろうと下手であろうと、演技の工夫を怠ってはならない。


〖上手は下手の手本なり 下手は上手の手本なり〗


と考え、何れも演技に工夫をしなければならない。

下手の良い所を取り入れ、上手が演じる演目の中に導入する事は至極道理(しごくどうり)である。

人の悪い所を見るだけでも、自身の手本となる。

良い所ならば、尚更である。


〖稽古は強かれ 諍識はなかれ〗 


とは、此の事を言うのである〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「申楽に限らず、人には得手不得手がある。

元々の才能が在れば出来るが、無ければ出来ない。

しかし出来なくとも、努力によって伸ばす事も克服する事も出来る。

其の努力とは、他者から学ぶ事である。

上手にも下手にも、良い所と悪い所が在る。

良い所は素晴らしいものとして学び、悪い所は劣っているものとせず自分を見直す糧とせよ。

良い所も悪い所も、手本とすべきである。


演技の上手下手はあるけれど、本当の上手とは上手や下手の良い所を学び、良い所を取り入れ、努力を怠らず、決して慢心しない事である。

本当の下手とは上手や下手の良い所を学ばず、悪い所を(そし)り、努力せず、自分の下手に気付かず驕る事である。


自分の心に束縛されず、良いものは全て取り入れ、悪いものからは学ぶべきである。

努力を重ねれば、『花』は必ず咲く。

と、言う事ですね」


「うむ。


〖よき(こう)の住して、悪き劫になる所を用心すべし〗


嘗ての栄光に縋り、努力をせず変わろうとしなければ、其れは必ず悪い結果をもたらす事になる。

慢心の心を捨て、自分がどの様な立場であろうとも学ぶべきものは全て学び、努力を積み重ねる事が重要である。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖申楽の『位』の差、つまり芸位(芸の段階)は、どの様に()(はか)れば良いのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れについては、優れた目利きならば容易く見極める事が出来る。

『位』とは稽古を重ねて上がるものであるが、不思議な事に十歳程の演者でも既に(たぐい)まれなる『位』が備わっている場合がある。

しかし、たとえ天賦の才能があろうとも、稽古を続けなければ其の生来の『位』を無駄にすると言うものである。


先ず稽古を重ね、『位』を身に付けると言う事が基本である。

努力を重ねて得る『位』の事を、『(かさ)』と言う。

そして、生来の『位』の事を『(たけ)』と言う。

多くの人は『嵩』と『長』は同じものであると考えるが、此の二つは別物である。

『嵩』の演技には、威厳と迫力がある。

また『嵩』は全ての芸に通じ、幅広く演じる事を可能とする。

其れが、『嵩』と『長』の違いである。


更に言う。


『位』も『長』も、天賦の才能によるところが大きい。

しかし、『位』も『長』も全くの別物である。

例えば容姿や舞台姿が美しい、つまり生まれながらにして『幽玄』を備えている、此れが『位』と言うものである。

但し『幽玄』とは程遠い為手であっても、『長』を其の身に備えている場合がある。

此れは『幽玄』と言う『位』とは異なる、『長』である。


加えて、『初心』の者には心得なければならない事がある。

『位』を高める事のみを目標として、稽古してはならないと言う事だ。

もし『位』を高めようとして己が願う『位』に達する事が出来なかった場合、人は絶望し意欲を失くす。

更には、元々あった自身の『位』をも衰えさせる事にもなる。

所詮(しょせん)『位』も『長』も生来によるところが大きいので、元々備わっていない者が得る事など出来はしない。

但し稽古を重ねていく内に、『位』を身に付ける事が出来る時がある。

何故なら稽古とは音曲、舞、所作、『物真似』など全ての演技を極める為の基礎となるものだからだ。


よく考えると良い。


「『幽玄』と言う『位』は、 ()()生来のものであるのだろうか?」


「『長』と言う『位』は、 ()()稽古により得る事が出来るものなのだろうか?」


心の中で、此の事を考えておくと良い〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『位』も『長』も生来によるところが大きいから、元々備わっていないものを得ようとしても無駄である。

人には、限界がある。

人は、それぞれ異なる。

しかし努力を重ねれば、『長』と言う『位』を身に付ける事が出来る時がある。

『位』や『長』は生来のものであると同時に、努力によって身に付くものでもある。

但し此れについては、自分自身で証明するしかない。

と、言う事ですね」


「うむ。


生まれ持っているものは、人により様々である。


自分の望んでいるものが、生まれつき身に備わっている事もある。

自分の望んでいるものが、生まれつき身に備わっていない事もある。

自分の望んでいないものが、生まれつき身に備わっている事もある。

自分の望んでいないものが、生まれつき身に備わっていない事もある。


其れは、自身では選ぶ事の出来ないものである。


己の望んでいるものが生まれつき身に備わっているからと言って、己の望んでいないものが生まれつき身に備わっていないからと言って、其れが『幸福』であるとは限らない。

己の望んでいるものが生まれつき身に備わっていないからと言って、己の望んでいないものが生まれつき身に備わっているからと言って、其れが『不幸』であるとは限らない。


生まれつき身に備わってる事を『幸福』とするか『不幸』とするかは、自分次第である。

生まれつき身に備わっていない事を『幸福』とするか『不幸』とするかは、自分次第である。


努力を積み重ねなければ、生まれ持っていたものを失う事もある。

努力を積み重ねれば、生まれ持っていないもの以上のものを得る事も出来る。


天賦の才能が在ろうと無かろうと、決して努力は怠ってはならないのだ。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖音曲を表現する為の所作とは、どの様なものなのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れは、申楽の技術を高める為の稽古によって身に付ける事が出来る。

申楽には諸々(もろもろ)の所作があり、演者は其れらを学ばなければならない。

また作法や身体の使い方も、同時に学ばなければならない。


例えば音曲の文句に合わせて、演者はその動作を表現しなければならない。

『見る』を表現する時、物を見て『指す』『引く』、つまり手を差し引く事によって『見る』を表す事が出来る。

『聞く』『音がする』を表現する時、耳を傾ける動作をすれば『聞く』『音がする』を表す事が出来る。


あらゆる文句の通りに身体全体を使えば、自然に音曲と所作は和合する。


『第一.身体を使う事』

『第二.手を使う事』

『第三.足を使う事』


如何に手足を使っても、身体を使わなければ品格や所作を表現する事は出来ない。

身体を上手く使う事が出来れば、手足も自然と動く。

故に、身体を使う事を第一とする。

次に、舞台に『花』を咲かせる為に必要なものは手の動きである。

故に、手を使う事を第二とする。

最後に足は舞や所作の基礎となるものではあるが、品格や所作によって舞台に『花』を咲かせる時、此れは其れ程多く用いられる事はない。

故に、足を使う事を第三とする。


音曲と(おもむき)に応じて、身の振舞は考えるべきである。

此れについては、文字で残す事は難しい。

其の時になって、見たままを習うしかない。

音曲を表現する為の稽古をし、極める事が出来れば、音曲と所作を一つの心にする事が出来る。

つまり音曲と所作を一つの心にすると言う事が、心得るべき事なのである。

先程述べた『堪能』とは、此の事を言うのである。

此れも、秘事である。

音曲と所作と言う二つの別々の心を一つの心にした者こそが、無上第一の上手である。

真に『強き』申楽の演者である。


また『強き』『弱き』について、多くの人は誤解している。

品格の無い荒々しい申楽を『強き』ものと心得違いし、優しく『弱き』ものを『幽玄』と批判するのは滑稽な事である。


どの様に見ても、見劣りしない為手と言う者がいる。

此れこそが、(まさ)に『強き』と言う事である。

何と見るも華やかである為手、此れこそが『幽玄』である。

()れば音曲を表現する為の所作を極めた者とは音曲と所作を一つの心にし、『強き』そして『幽玄』、此の二つの境を極めた為手の事である〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「音曲を知り、音曲を表現する為に稽古をし、其の稽古から得た自らの所作を以て実際に音曲を表現する。

表現する為には、身体を使う事が重要である。

其れは、実践でしか身に付ける事が出来ない。

音曲を所作によって表現する、此れが音曲と所作を一つの心にすると言う事。

そして其れを体現している演者とは、『強き』『幽玄』を備えた上手である。

と、言う事ですね」


「うむ。


音曲に合わせて、所作も変えるべきである。

音曲と所作を一つにした演者は、常日頃観察し考えている。


「どの様な所作をすれば、此の音曲を表現出来るのか?」


「どの様に表現すれば、此の所作は音曲の意味を伝える事が出来るのか?」


此れ等の努力が、『強き』と『幽玄』を生み出すのだ。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖『(しお)れたる』と言う批判をよく耳にしますが、此れは一体どの様な事を言うのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖此れに関しては、なかなか文字にする事は難しい。


(まさ)しく『萎れたる』とは、『萎れたる風情』の事を言う。

ただ此れもまた、『花』があってこその風情である。

よくよく考えると『萎れたる風情』とは稽古によって得られるものでもなく、所作によって表す事の出来るものでもない。

『萎れたる風情』とは、『花』を極めた後に悟る事の出来るものである。

()れば全ての『物真似』に精通していなくとも、一つの『花』を極めた者は『萎れたる』を悟る事が出来るであろう。

つまり此の『萎れたる』と言う境地は、『花』よりも上の境地であると言う事が出来る。

従って『花』が無ければ、『萎れたる』に到達する事は出来ない。

『花』の無い『萎れたる』は、『萎れたる』ではなく『湿(しめ)りたる』である。

『花』が『萎れたる』と言う事には『面白き』があるけれど、『花』が咲かない草木の『萎れたる』には『面白き』がない。

ならば『花』を極める事は大事な事であり、更に其の上の事、つまり『萎れたる』を悟る事は難しい。

『萎れたる風情』とは、返す返すも大事な事なのである。

そして『萎れたる』は、例える事も大変難しい。


古歌(こか)は言う。


薄霧(うすぎり)の (まがき)の花の朝じめり 秋は(ゆふべ)と (たれ)か言ひけん〗

(薄くかかった霧の中で、垣根に咲く花が朝露に濡れて美しい。

 秋は夕暮れが美しいと言ったのは、一体誰であったか?)


更に言う。


〖色見えで 移ろふものは 世の中の 人の心の 花ぞありける〗

(草や木の移ろいは色の変化により目で見る事が出来るけれど、

 人の心と言う花は目で見る事が出来ない)


此の様な風情で、『萎れたる』はあるべきである。


心の中で、考えるべき事である〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『花』の更に上の段階に、『萎れたる』がある。

故に『花』が無ければ、『萎れたる』はない。

其れは、『湿りたる』に過ぎない。

一つでも『花』を咲かせていれば、『萎れたる』は存在しうる。

そして『萎れたる』には、『面白き』がある。

と、言う事ですね」


「うむ。


色とりどりに美しく咲く『花』は、美しい。

しかし華々しい『花』こそが『幽玄』なのではなく、其の先に在る『萎れたる』こそが本当の美しさであり『幽玄』なのである。

時間を経るにつれ変化し、時には(さび)れ、時には(けが)れ、時には失い、其れでも美しくあろうとする、其れが『萎れたる』である。

物悲しく儚い姿を、人は美しいと感じる。

『萎れたる』は、多くの苦難を乗り越えた者でなければ達する事の出来無い境地である。


では、続けよう。


≪私≫は、観阿弥に問うた。


〖申楽に於いて『花』を知る事は無上の第一の事と考えるのですが、重要であると思うと同時に分からない事もございます。

『花』は、どの様に咲かせる事が出来るのでしょうか?〗


観阿弥は、≪私≫の問いに答えた。


〖『花』を咲かせると言う事は、申楽の道の奥義を極めると言う事である。

一大事でもあり秘事でもあると言うのは、全て此の『花』を極める事が申楽の道に通じているからである。

先ず大方は、【年来稽古條々】や【物学條々】で述べた。

『時分の花』『声の花』『幽玄の花』、此れらの『花』は人の目で見、聞く事が出来る。

しかし態より(いづ)る此れらの『花』は、現実に咲く花の如くやがて散る時が来る。

()れば長く咲き続けなければ、天下に名を(とどろ)かす事も出来ない。

但し『真の花』は、咲く(ことわり)も散る理も心のままでなければならない。

『真の花』とは、長く咲き続ける事が出来る『花』である。

永遠に咲き続ける『花』である。

では、此の理を知るにはどうすべきか。

此れについては、【別紙口伝(べっしのくでん)】で述べる。

ただ言える事は、「詮索すべき事ではない」と言う事である。

先ず七歳から心得るべき事について記した【年来稽古條々】や『物真似』について記した【物学條々】の品々をよくよく心の中で考え理解し、申楽を知り、工夫を極めるのだ。

其の後、此の『花』の失せぬところを知るべきである。

此の多くを(きわ)めようとする心が、則ち『花』を咲かせる為の『種』となるであろう。

『花』を知りたいと思うのならば、先ず『種』を知るべきである。


〖花は心 種は態〗


古人は言う。


心地含(しんぢにもろもろの)諸種(たねをふくむ) 普雨悉(あまねきあめにことご)皆萌(とくみなきざす)

 頓悟花(とんにはなのこころを)情已(さとりをわりぬれば) 菩提果(ぼだいのかおのず)自成(からしょうず)


 (心には、元々種が含まれている。                

  全てのものは、雨の恵みにより皆萌える。

  花の心を悟るのだ。

  そうすれば、菩提樹の花は自ら咲く)〗と」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『花』を咲かせる為には、『花』を知る事が重要である。

『花』を知るには、『種』を知らなければならない。

『種』とは『態』であり、其の『態』は稽古を重ね、申楽を知り、工夫を極めなければ得る事が出来ない。

『種』を得て『種』を知る事が出来れば、『花』を知る事が出来る。

『花』を知る事が出来れば、『真の花』とは何かを知る事が出来る。

『真の花』を知る事が出来れば、『真の花』を咲かせる事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


『先ずは、『種』を知る。

次に、『種』から『花』を知る。

『花』を知れば、『真の花』を知る事が出来る。

『真の花』を咲かせる為に何をすべきか、自ずと知る事が出来る。

そうすれば、必ず『真の花』を咲かせる事が出来る」


そう言うと、世阿弥様は少し視線を下に落とし小さな声で続けた。


「・・・≪私≫は家を守り芸を重んじる為・・・亡父の仰る事を心の底に残し・・・其れらを基に『風姿花伝』を書き記した・・・。


≪私≫は・・・申楽の道が廃れる事を恐れている・・・。

≪私≫は・・・他人の才覚(さいかく)に何かを及ぼそうと考えているのではない・・・。

≪私≫は・・・ただ・・・後の世の為に・・・訓えを遺す為に・・・『風姿花伝』を書いたのだ・・・」


「世阿弥様・・・」


悲しそうに呟く世阿弥様に対して、≪わたし≫はただ世阿弥様の名を呼ぶ事しか出来なかった。


≪わたし≫に名を呼ばれた世阿弥様は微笑み、申し訳なさそうに応えた。


「ああ・・・。


済まない・・・。


【問答條々】は、以上である。


では、次に進む。


第四.【神儀(しんぎ)()わく】


此の条項では、申楽の歴史について記した。


申楽の始まりは、神代(かみよ)であると言われている。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)に耐えられなくなり、天岩戸(あまのいわと)(こも)られた。

其の為、天下が常闇(とこやみ)となってしまった。

地上に光を取り戻す為、八百万(やおよろず)の神々は天香久山(あまのかぐやま)に集まった。

そして大神の御心(みこころ)を捉え、大神を岩戸から誘い出す方法を考え実行した。

先ず神楽(かぐら)を奏し、其の後に細男(せいのう)(滑稽な物真似をする人)が踊り始めた。

次に、踊り手の中から天鈿女尊(あまのうずめのみこと)が進み出た。

天鈿女尊は(さかき)の枝に(しで)を付けて声を上げ、庭に火を焚き、足を踏み(とどろ)かし、神憑(かみがか)りすると歌い、舞い、奏でた。

其の声が(かす)かに聞こえてきた天照大神は、岩戸を少し開かれた。

すると光が()し始め、神々の顔は其の光によって白く明るく照らされた。

其の時の天鈿女尊の舞が、申楽の始めと言われている。


また天竺(てんじく)印度(いんど))に於ける申楽の始まりは、須逹長者(しゅだつちょうじゃ)釈迦如来(しゃかにょらい)帰依(きえ)した富豪)が祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)建立(こんりゅう)した時であると言われている。

祇園精舎の落成祝(らくせいいわい)の為、釈迦が御説法(ごせっぽう)に来られた。

其の時、提婆(だいば)(釈迦の従弟(いとこ)であり、弟子)が一万人の外道(げどう)(仏教以外の宗教)の者達を伴って現れた。

そして木の枝や(ささ)の葉に幣を付けて踊り叫び、説法を妨害しようとした。

釈迦は御供養(ごくよう)()べ難く、傍らの舎利弗(しゃりほつ)(釈迦の十大弟子の一人)に目配せして仏力を授けた。

舎利弗は、仏殿の御後戸(おんうしろど)(つづみ)笙鼓(しょうご)を奏でた。

そして阿難(あなん)(釈迦の十大弟子の一人)の才覚、舎利弗の智慧(ちえ)富樓那(ふるな)(釈迦の十大弟子の一人)の弁舌(べんぜつ)を以て、六十六番の『物真似』を演じた。

外道達は笛や鼓の音に聴き入り、後戸に集まって此れを見、やがて静まった。

其の(すき)に、釈迦は供養を宣べられた。

其れ以来、天竺で申楽の道が始まったと言われている。


日本に於ける申楽の始まりは、欽明(きんめい)天皇の御代(みよ)(540年-572年)であると言われている。

大和国泊瀬(やまとのくにはつせ)(奈良)の河に洪水があった際、河上から一つの壺が流れて来た。

三輪(みわ)神社の杉の鳥居(とりい)(ほとり)にて、雲客(うんかく)殿上人(てんじょうびと))が此の壺を拾った。

壺の中を覗くと、其の中には赤子がいた。

其の赤子の顔は柔和(にゅうわ)で、玉の様に美しかった。

雲客は此の赤子は天から舞い降りて来たのだと考え、内裏(だいり)にお伺いを立てた。


其の夜、(みかど)の夢の中に赤子が現れ曰く。


〖我は、大国・(しん)始皇帝(しこうてい)の生まれ変わりである。

 日本に縁があって、今此処にいる〗


帝は不思議に(おぼ)し召され、赤子を殿上人にされた。

赤子は、すくすくと成長した。

成長した其の子の才智は人並外れ、十五歳にして大臣の位に昇り、『秦』の姓が下賜(かし)された。

『秦』と言う文字は、『はた』と読む。

故に、秦河勝(はたのかわかつ)と名乗った。

上宮太子(じょうぐうたいし)聖徳太子(しょうとくたいし))は天下に不穏な動きがあった際、神代(かみよ)や印度での吉例に(なら)い、六十六番の『物真似』を秦河勝に命じ作らせた。

上宮太子は自ら六十六番の面を作られ、秦河勝に与えた。

秦河勝は、此の六十六番の『物真似』を(たちばな)の内裏の紫宸殿(ししんでん)にて奉納した。

すると天下は治まり、国が鎮まった。

六十六番の『物真似』は神を祭る為の舞、つまり神楽である。

しかし上宮太子は、今は釈迦の時代から末代である事を配慮し、神楽の文字を其のまま使わず『神』の文字を変える事にした。

〚神〛の(へん)を除き、(つくり)のみを残した。

此れは(こよみ)で言う『申』であるが故、『申楽』と名付けられた。

則ち、『楽しみ』を『申す』と言う意味である。

また『申楽』は、『神楽』から分かれたと言う事を示す為のものでもある。

秦河勝は欽明天皇、敏達(びだつ)天皇、用明(ようめい)天皇、崇峻(すしゅん)天皇、推古(すいこ)天皇、上宮太子に仕え奉り、申楽を子孫に伝えた。

其の後、『化人(けにん) 跡を留めぬ(人外の者は、遺骨を遺さない)』と言う言葉通り、秦河勝は摂津国難波浦せっつのくになにわのうら(大阪)より空穂舟(うつぼぶね)(大木をくり抜いて造った舟)に乗って、風に任せて西海(さいかい)瀬戸内海(せとないかい))へと出た。

そして、舟は播磨国越坂裏はりまのくにしゃくしのうら(兵庫)に漂着した。

浦人が此の舟を引き揚げて中を覗いて見てみると、其の中には人とは異なるものが入っていた。

以来、人外となった秦河勝は人々に取り憑き祟りをなし、時には奇跡を起こした。 

浦人は次々と起こる不思議な現象を鎮める為、人外となった秦河勝を神として(あが)めた。

すると、国が豊かになった。

そして此の神を、『大きに荒るる』と書いて『大荒大明神おおさけだいみょうじん』と名付けた。

今現在も、此の神は霊験(れいげん)あらたかな神として(まつ)られている。

此の神の御本体は毘沙門天(びしゃもんてん)(仏教を守護する四天王の一人)であり、其の神が日本に現れたと言われている。

上宮太子が物部守屋(もののべのもりや)の反逆を平定した時も、秦河勝が神通方便(じんつうほうべん)を用いたと伝えられている。


また平安京にて、村上(むらかみ)天皇の御代(946年-967年)。

帝は、嘗て上宮太子が記された『申楽延年(えんねん)の記』を閲覧された。

太子の御筆による其の書物には、こう書かれていた。


〖申楽は先ず神代、天竺で始まった。

天竺から月氏(げっし)(東・中央アジアに存在した遊牧民族国家)、震旦(しんたん)(中国)、日本へと伝わった。

そして申楽は狂言綺語(きょうげんきぎょ)(小説・物語などの文章)を以て讃仏転法輪(さんぶつてんぽうりん)(仏を(たた)え、仏法を広める事)により、魔縁(まえん)を退け、福裕(ふくゆう)を招く。

申楽舞を奏すれば国は穏やかになり、民は静かになり、寿命は長遠(ちょうおん)となる〗


村上天皇は、申楽を以て天下の御祈祷(ごきとう)をすべしとした。

此の頃、かの秦河勝の申楽の芸を引き継いだのは河勝の遠孫(えんそん)である秦氏安(はたのうじやす)であった。

村上天皇は氏安に命じ、六十六番の申楽を紫宸殿にて演じさせる事にした。

同時期に、紀権守(きのごんのかみ)と申す者がいた。

紀権守は、才知に長けた人物であった。

紀権守は、氏安の妹の婿(むこ)でもあった。

氏安は、紀権守と共に申楽を演じた。

其の後、一日では六十六番まで演じきる事が出来ないとし、其の中から『稲経翁(いなつみおきな)(翁面)』『代経翁(よなつみおきな)三番申楽』『父助(ちちのじょう)』の三つを選んで演じる事にした。

現在の『式三番』が、此れである。

則ち此れは、『(ほう)』『(ほう)』『(おう)』の三身(さんじん)の如来を(かた)どり奉ったものである。

『式三番』については、別の書に記した。

今は、省く。

後に伝える。


申楽の家に、秦河勝を祖とする金春(こんぱる)と言う家がある。

金春の家は氏安から金春光太郎(こうたろう)(金春禅竹(ぜんちく)の祖父である金春権守(ごんのかみ)の兄)、当代の金春である禅竹の父まで二十九代続く申楽の家である。

此の金春の家こそ、大和国『圓満井(えんまんい)(金春)』の座である。

また氏安より伝わる上宮太子御作(ぎょさく)鬼面(おにのおもて)春日(かすが)御神影(ごしんえい)仏舎利(ぶっしゃり)、此の三つは金春家に伝わっている。


当代に於いては南都(なんと)(奈良)興福寺(こうふくじ)維摩会(ゆいまえ)維摩経(ゆいまきょう)を講じる法会)の為に講堂で法味(ほうみ)(法要)を行う際、食堂(じきどう)にて舞延年(まいえんねん)が行われる。

此れにより外道を和らげ、魔縁を鎮める。

其の間に、食堂の前で御経(おんきょう)が唱えられる。

則ち、此れは祇園精舎の吉例に基づいたものである。

(しか)れば大和春日興福寺の神事は、二月二日、二月五日に宮寺にて申楽の四座(よざ)にて演じられる。

此れは、一年中の御神事の始めである。

申楽は、天下泰平(たいへい)の御祈祷である。


一.大和国春日御神事に相(したが)う申楽四座とは、『外山(とび)宝生(ほうしょう))』

  『結崎(ゆうざき)(観世)』『坂戸(さかど)金剛(こんごう))』『圓満井(金春)』の事である

一.江州(ごうしゅう)(滋賀)日吉ひえ神社の御神事に相随う申楽三座とは、『山階(やましな)』『下坂(しもさか)

  『比叡(ひえ)』の事である

一.伊勢(いせ)(三重)の呪師(しゅし)(法会の際、加持祈祷を演じる演者)は二座、

  又今(またいま)(和歌山)の呪師は一座ある

一.法勝寺(ほっしょうじ)(京都)御修正(ごしゅうしょう)参勤申楽三座とは、『新座(しんざ)榎並(えなみ)座)』

  『本座(ほんざ)矢田(やた)座)』『法成寺(ほうせいじ)』の丹波(たんば)申楽三座の事である

  此の三座は、同じく上賀茂(かみかも)神社・下賀茂(しもかも)神社(京都)、住吉(すみよし)神社(大阪)の

  御神事でも相随う


【神儀に云わく】は、以上である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「申楽とは神代の昔から存在する由緒あるものであり、天下泰平を願う為の此の舞は現在も引き継がれているのですね。

ところで、申楽の『申』と言う文字に獣の『猿』と言う文字が当てられる事がありますが・・・」


「申楽は今から七百年以上前に(とう)、現在の(みん)より伝わった『散楽(さんがく)』が転訛(てんか)(発音が(なま)る事)し、『猿』と言う文字を用いて『猿楽』となったとも言われている。

しかし申楽は元は神楽であるので、文字の音を重視した『猿』よりも文字の意味を重視した『申』の文字を使った方が妥当である」


「確かに、『猿』と言う文字よりも『申』の方が本来の申楽を表現しているように思われます」


「うむ。


先程述べた通り、『申』と言う文字には『申す』と言う意味もある。

申楽は神楽が元であり、神楽は歌舞である。

故に、申楽も歌舞である。

歌い舞う、つまり申し踊る事により神々をお迎えし、招魂(しょうこん)鎮魂(ちんこん)を行う。

申し踊る事こそが、申楽である。

『申楽』が、『猿楽』よりも適切な文字である事は明らかだ。


では、次に進む。


第五.【奥義(おうぎ)に云わく】


此の条項では、流儀の異なる様々な芸能について記した。


抑々『風姿花伝』の條々は外見を(はばか)り、後の世への庭訓(ていきん)家訓(かきん))として遺す為に記したものである。

しかし、≪私≫の望む本意は今から述べる事である。


当世、申楽の道を進む者を見ると芸の嗜み(芸に対する心得)を(おろそ)かにし、非道(芸以外の事)のみを行っているように見える。

偶々(たまたま)其の時の演技が称賛されても、其れは一時の名誉に過ぎない。

一時の名声に囚われ、源を忘れて流れを失う有様を見ると、申楽の道が既に(すた)れてしまったのではないかと思われてならない。

故に稽古に励み、芸を重んじ、私心を取り去りさえすれば、必ず申楽の道は隆盛(りゅうせい)するはずである。

特に申楽は伝統を受け継ぐと言えども、自分の力で工夫し変化させ、己の『花』を咲かせるものなので、其れを言葉で伝える事は難しい。

申楽の伝統を引き継ぎながら次の世代へ心から心へと伝える『花』なので、≪私≫は此れを『風姿花伝』と名付けた。


申楽の道は和州(わしゅう)(大和申楽)、江州(近江(おうみ)申楽)に於いて、芸風が異なる。

和州では『物真似』を第一とし、多くの演目を演じ、其の上で『幽玄』を演じる。

江州では『幽玄』を第一とし、『物真似』を次とし、風情の美しさを本とする。


真の上手は何れの芸風であっても、演じ劣るものなどない。

一方のみの芸風ばかりする者に、真の芸を極める事など出来はしない。

和州の芸は『物真似』や儀理(ぎり)戯曲的(ぎきょくてき)な筋道)を本とし、『長』のある(よそおい)(いか)れる振舞などを得意としてきた。

そして稽古も、其れらが中心であった。

しかし亡き父・観阿弥が絶頂であった頃、『(しず)が舞』の申楽や嵯峨(さが)大念仏(だいねんぶつ)の〚女物狂〛の『物真似』などの演目が素晴らしいとされ、観阿弥は見事それらを演じきり天下の褒美や名声を得た。

此れこそが、『幽玄無常』の芸風である。

また田楽(でんがく)の芸風は申楽とは異なり、人々も申楽と田楽を同じ様に批評する事は難しいと考えた。

しかし近代に此の道の(ひじり)とも聞こえし『本座(京都白川の田楽の座)』の一忠(いっちゅう)は、多くの演目を演じている中でも〚鬼神〛の『物真似』や怒れる(よそお)いなど、演じる事の出来ないものなど無いと言われた。

故に観阿弥は常々、一忠の事を「我が演技の師である」と讃えていた。

多くの演者は諍識の為か、或いは様々な芸を演じる事が出来ない為か、一方の芸風ばかりを得て様々な種類の芸風を知らず、他所(よそ)の芸風を嫌っているようである。

しかし此れは本当は嫌っているのではなく、実力が無く演じる事が出来ないだけである。

単なる言い訳に過ぎない。

たとえ一つの芸風で一旦名声を得たとしても、実力が足らなければ長く『花』を咲かせ続ける事は出来ない。

長く咲き続ける『花』でなければ、人々に直ぐに飽きられてしまう。

天下に認められる堪能な演者は、どの様な演目を演じても『面白き』演技となる。

芸風や形木(かたぎ)(芸風の基礎となる演技の型)はそれぞれだけれども、『面白き』と言うところは皆同じである。

此の『面白き』と言うものが、『花』なのである。

此れは和州の申楽、江州の申楽、または田楽に於いても、全て共通のものである。

()れば申楽でも田楽でも全てを演じる事の出来る為手ならば、人々から受け容れられる事になろう。


更に言う。


(ことごと)く多くの演目を演ぜずとも、十分の七、八分を究めた上手の中でも特に其の芸風を我が座の型となるまで極め、工夫を凝らせば、此れもまた天下の名望を得る事が出来るであろう。

しかし十分に足らぬところが在るのは事実であるので、演じる地域や人々の身分によって評価は変わるであろう」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「伝統を引き継ぎながらも、それぞれが育ててきた『花』を次の世代に伝える事が重要である。

其の『花』は、各々の努力により様々な色や形の『花』となる。

各々の『花』を咲かせる為には、芸の境界を越え、良いものを取り入れ、慢心せず、稽古を重ね、芸風を変化させ、工夫を加え、多くの様々な演目を演じる事が出来るようにならなければならない。

様々な演目を演じる事が出来る事こそ、長く咲き続ける『花』を持っていると言う事である。

多くの人々に喜んでもらえる『花』を、『面白き』と思われる演技を演者は演じるべきである。

自分の演技が劣っているにも拘わらず、上手に演じる事の出来ない理由を『何か』のせいにしてはならない。

多少自分の演技が劣っていようとも、『面白き』と言う『花』を咲かせる努力をすべきである。

其の『花』は、どの様な『時』でも、どの様な『場』でも受け容れてもらえる。

と、言う事ですね」


「うむ。


稽古は、只管続けなければならない。

そして、どの様な事があろうとも決して慢心してはならない。

一生懸命、謙虚に、真摯(しんし)に稽古を続けていれば自ずと天下は認め、名声を得る事も出来る。

ただ、申楽の名声を得る際には色々な場合がある。

たとえ上手であっても、目の利かぬ者の心を満足させる事が難しい時がある。

下手であれば、目利きの(まなこ)に映る事もない。

下手が、目利きの眼に適わないなど不思議な事ではない。

上手が目の利かぬ者の心を満足させられないのは、単に目利きの能力が不足しているからである。

しかし格別な上手であり工夫を極めた為手ならば、たとえ目の利かぬ者の眼にも『面白き』と映るような申楽にする事が出来る。

此の工夫と適応性を極めた為手を、『花』を極めたと言うべきである。

()れば此の『位』までに至る為手は、老いたりと言えども若き『花』に劣る事など決してない。

故に此の『位』に達した上手こそ天下に認められ、また遠国(おんごく)や田舎の人までもが全て『面白き』芸をする者と思う。

工夫を極めた為手は和州の申楽に於いても、江州の申楽に於いても、田楽に於いても、何れの芸に於いても、人の好みや望みに合わせて上手に演じる事が出来る。

此の嗜みの本意を遺す為に、≪私≫は『風姿花伝』を書いたのである。

柔軟に演じるべきではあるが、己の芸の形木を疎かにする者の申楽の命は永く続く事はない。

此れこそが、『弱き』為手である。

己の芸の形木を極めてこそ、全ての芸をも知る事が出来る。

様々な芸に目を奪われ、己の形木を疎かにするような為手は、己の芸を知らないだけでなく、他所の芸さえも知る事は出来ない。

其の芸風は『弱き』申楽となり、長く咲き続ける『花』さえも持ちえない。

長く咲き続ける『花』が無ければ、何れの芸風をも知らないに等しい。

故に、『風姿花伝』の【問答條々】『花』の段でこう述べた。


〖多くの演目を演じ工夫を極めた後、『花』の失せぬ所を知るであろう〗」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「他所から学ぶべき事は学ぶべきではあるが、其れのみに心を奪われてはならない。

また他所の良い所を学ぶ理由は、自分の芸を確立する為でもある。

自分の芸を確立出来れば、どの様な場所でも、どの様な人に対しても、其の『時』に応じて自らの芸を演じる事が出来る。

多くの観客に自らの芸を受け容れてもらえる者こそが、『強き』為手である。

多くの演目を演じて工夫を極めれば、永遠に咲き続ける『花』を得る事が出来る。

自分の芸を持たなければ『花』を知る事も『花』を咲かせる事も出来ず、仮令『花』を咲かせたとしても其の『花』は何れ消え失せてしまう。

と、言う事ですね」


「うむ。


己の芸を極めた時、必ず『花』は咲く。

そして、其の『花』は老いても美しく咲き続ける。

己を見失ってはならない。

己の目指すべき道の為に、日々精進しなければならない。


では、続けよう。


秘儀に言う。


〖抑々、芸能とは全ての人々の心を和らげ感動させるものである。

 壽福増長(じゅふくぞうちょう)(幸福長命)の基、つまり寿命を延ばす為の法である。

 芸を極めれば、世は壽福増長となる〗


特に申楽は『位』を極めて名を残す事こそが、天下に認められると言う事である。

此れこそが、『壽福増長』である。


但し、心得るべき事がある。


優れた眼を持つ者が『長』や『位』を極めた為手の芸を見る事は、双方優れているので何の問題もない。

しかし目の利かぬ者や遠国、田舎の賤しき者が、此の『長』や『位』の芸を見極める事は難しい。

では、どうすべきか。


衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)


つまり、申楽は観客全てから愛される事が一座繁栄の基である。

故にあまりにも難しい芸をすれば、観客から受け容れられる事はないであろう。

此の為、申楽は『初心』を忘れず、『時』に応じ、『場』により、どの様な眼にも素晴らしいと映る芸をしなければならない。

此れこそが、『壽福』と言うものである。

世の中と照らし合わせてみると、貴い場所や山寺、田舎、遠国、諸社の祭礼に至るまで、何処に於いても誹りを受けない為手こそが達人と申すべきであろう。

()れば如何なる上手と言えども、観客から愛される芸を演じる事が出来なければ『壽福増長』を招く為手とは言い難い。

亡父・観阿弥は如何なる田舎、山里の片隅でも、観客の好むものや其の場所の風習を大事にし、其れらに応じた演目を演じていた。

とは言え此の様に申せば、『初心』の人は「其れほど簡単に芸を極める事が出来るものか」と意欲を失ってしまうかもしれない。

従って此の條々を心に留め、其の理を少しずつ取り入れ、思慮を以て自分の力に合わせて工夫する必要がある。

ただ、今述べた事や工夫は『初心』の人よりは、寧ろ上手の為の工夫である。

偶々上手になった為手も態に溺れ、名に頼り、心得なく、徒に名声よりも『壽福』を欠いた者が多い事は嘆かわしい事である。

たとえ名声を得ても、工夫無くては芸を極める事など出来ない。

工夫を極めれば、『花』の『種』が生まれる」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『人』や『時』や『場』に応じて演じ、目利きや目利かずの者、全ての観客に素晴らしいと思われる様な演技をしなければならない。

其れが天下に認められる事であり、世を『壽福増長』に導く基となる。

そして其れが申楽を、『真の花』を『不易(ふえき)』と『流行』へと導く事にもなる。

しかし其処までに達する事は困難であり、苦しみを伴う。

辛く苦しいけれど、名声を得る事が出来ないのは自分の実力が無いからと諦めてはならない。

自分なりの工夫と努力を重ね、稽古を続けなければならない。

また、たとえ上手となっても名声に頼らず、驕らず、日々精進しなければならない。

どの様な時でも、どの様な立場でも、努力を積み重ねれば、様々な『花』を咲かせる為の『種』を生み出す事が出来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


但し、たとえ天下に認められた為手であっても、『因果』によって自力ではどうしようもない『時』、廃る『時』と言うものがある。

此の『時』を、『女時(めどき)』と言う」


「『女時』?」


「うむ。


人には、『男時(をどき)』『女時』と言う『時』がある」


『男時』と『女時』は、謂わば『陽』と『陰』である。

『陽』である『男時』とは、何をしても何もかもが自分の思う通りになる『良き時』である。

『陰』である『女時』とは、何をしても何もかもが自分の思う通りにならない『悪しき時』である。

『陽』も『陰』も、『宿命』である。

人の力では、抗う事の出来ない力である」


「抗う事の出来ない『宿命』・・・。

人は、自らの力で『女時』を『男時』にする事が出来ない・・・。

では、人はどうすれば良いのでしょうか?」


「待つ」


「待つ?」


「うむ。


永遠に『女時』であると言う事は、決してない。

だから、『男時』が再び来るのを待つのだ。

ただ待つのではない。

『女時』は何もかもが思い通りにならないので、人は全ての事が嫌になり諦めてしまうものだ。

しかし、此処で諦めてしまえば終わりである。

今までの努力も、此れからの未来も全てが『無』になってしまう。

だからこそ、今出来る事をやらなければならない。

『女時』であるからこそ、『女時』に出来る事を、『女時』でなければ出来ない事をやらなければならない。

『女時』であるからこそ、今まで見えなかったものが、見ようとしていなかったものが見えるようになる。

『女時』であるからこそ、今まで知らなかった事を、知ろうとしていなかった事を知る事が出来る。

『女時』であるからこそ、今まで気付かなかった事に、気付こうとしていなかった事に気付く事が出来る。

今までの自分を、周りを、全てを、見て、知り、気付き、考えるのだ。


「何故上手くいかないのか」

「何が悪かったのか」

「此れからどうすれば良いのか」

「此れからどうすべきか」


そして、『女時』でなければ出来ない努力をするのだ。

努力を重ね、信じて待ち続けていれば、何れまた必ず『男時』が来る。

再び『男時』が来た時に、『女時』の苦労や努力の時に咲かせた『花』を観客に披露するのだ。

『女時』での苦労や努力により得られた『花』は、嘗て『男時』の時に咲いていた『花』よりも美しく強い『真の花』である。

『女時』は、『悪しき時』である。

しかし真の『悪しき時』とは、『()()()()()()()()()()()()()()』の事を言うのだ。


ただ、注意しなければならぬ事がある。


≪私≫は先程、『男時』は『良き時』と言った。

しかし、仮令『男時』であっても其の『良き時』に頼ってはならない。

『男時』は全て思い通りになるので、人は全ての『良き事』は自分の実力の結果であると慢心するものだ。

自分の実力を過信すれば新たな『花』を咲かせる事が出来なくなるだけでなく、今まで咲いていた『花』をも枯らす事になりかねない。

『男時』であっても、決して傲慢になってはならない。

どの様な『時』でも、『真の花』を咲かせる努力を怠ってはならない」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「人には何もかもが上手くいく『男時』と、何もかもが上手くいかない『女時』がある。

『男時』も『女時』も『宿命』であるから、其の『時』を変える事は出来ない。

『宿命』である『時』を変える事は出来ないけれど、努力により『運命』を変える事は出来る。

『男時』であっても『女時』であっても、常に努力を重ね『運命』を切り開いて生きるべきである。

諦めず努力し、新たな『花』を咲かせ、待ち続ければ必ず幸福な日々が戻って来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


『運』により、人生が左右される事もあるだろう。

しかし『運』が悪いからと言って、全てを『運』のせいにしてはならない。

退くか、留まるか、進むかは自分自身が選び、決める事である。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


人は必ず、其の身に『花』の『種』を宿して生まれて来る。

其の『種』に気付くも気付かぬも、『花』を咲かすも散らすも、『花』を増やすも減らすも、『花』を()だすも隠すも、『花』を残すも失くすも、全て自分次第である」


「・・・」


「人は、死よりも苦しい事、辛い事、悲しい事を経験する『時』がある。

しかし、たとえ苦境であっても『花』さえ失せなければ『道』が途絶える事など決してない。

『道』が途絶えなければ、また天下の『時』に巡り合う事が出来る。


では、続けよう。


『壽福増長』の為の稽古とは言え、世の中の要求に応じ続け、もし欲に囚われれば、其れは第一の道の廃れる原因となるであろう。

申楽を極める為の稽古を続けた結果として、『壽福』があるのだ。

単なる『壽福』を目的とした稽古では、道は廃れる。

道が廃れれば、『壽福』は自ずと滅びる。

正直に正しい事をしていれば、必ず世に万徳(ばんとく)妙花(みょうか)(多くの功徳を備えた素晴らしい花)が開くと考えよ。

そして、演者は其の為の稽古をすべきである。


『風姿花伝』の中の【年来稽古】の始めに此の條々を記す事が出来たのは、≪私≫に才覚があったからではない。

≪私≫は、幼少より亡父・観阿弥により育てられ二十余年の間、父の芸を直接目に触れ、耳で聞き、其の芸風を()けて、道の為、家の為に『風姿花伝』を書いたのである。


決して、自分の為に書いたのではない。


【奥義に云わく】は、以上である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「申楽のみならず全てに於いて、私心に囚われてはならない。

其れは、全ての道が廃れる原因となる。

『壽福』の為に自分の名声を得るのではなく、真面目に生きる事が『壽福』へと導かれる道である。

正しい行いをしていれば道は開かれ、其れは自ずと『壽福』へと繋がる。

其れを伝える為に、世阿弥様は『風姿花伝』を記されたのですね。

そして其れは、世阿弥様の父である観阿弥様の訓えでもある。

と、言う事ですね」


「うむ。


『何故』『何の為に』、人は『花』を咲かせようとしているのかを知らなければならない。

そして其の『花』を永遠に咲かせ続ける為には、其の『花』を伝えなければならない。

其の『花』は、『種』を生む。

『種』は、新たな『花』を咲かせる。


では、次に進む。


第六.【花修(かしゅう)に云わく】


此の条項では、実際にどの様に申楽を演じるべきかについて記した。


申楽の謡曲(ようきょく)(脚本)を書く事は、申楽の道を極める為の命とも言える。

たとえ類まれなる才学が無い作者であっても、作品に工夫を凝らす事によって素晴らしい謡曲を生み出す事が出来る。

大方の申楽の芸風については『序破急』の段で述べたので、其れを思い出せば理解する事が出来る。

特に最初に演じられる脇の申楽は、典拠(てんきょ)(引用文献)が正しくあるべきである。

故に、開口(かいこ)(演技の始めの脇の言葉)から其の謡曲の来歴を述べるようにすべきである。

そうすれば、観客は其の謡曲がどの様な話であるのかを直ぐに理解する事が出来る。

作者は細かい芸風についてよりも大体の演じ方について簡単に記し、演目の初めは華々しい脇の申楽になるような謡曲を書くべきである。

ただ演目が進むにつれ、特に言葉や芸風については細かく記すようにすべきである。

名所・旧跡に関する演目であれば其れに関わる詩歌(しいか)や言葉は聞き慣れたものにし、其れを作品の山場とすべきである。

為手の言葉にも演技にも関係のない所には、特に言葉を述べるべきではない。

何故なら、観客は見るにしろ聞くにしろ、上手な為手に注目するものだからだ。  

故に一座の棟梁(とうりょう)の『面白き』言葉や演技で以て観客の目を奪い、心に響かせれば、見聞きする人は感動するであろう。

此れが申楽の謡曲を作る為の、第一の秘訣である。

つまり優しく、そして理が直ぐに分かるような詩歌の言葉を採用すべきなのである。

『優しき』言葉を振りに合わせれば、自ずと身体も『幽玄』の振舞となる。

『強き』言葉は、本来の申楽の振りに適応しない。

しかし聞き慣れない『強き』言葉には、独自の良さがある。

『強き』言葉は、本木(もとぎ)(曲の基となるもの)に登場する人物によっては合う時がある。

漢家(かんか)(中国風)か本朝(ほんちょう)(日本風)かによって、心得区別すべき事である。

ただ卑しく俗なる言葉や演技は、『(わろ)き』申楽となろう。

故に『良き』申楽と申すものは典拠が正しく、『珍しき』芸風であり、山場があり、『幽玄』である事を第一とすべきである。

『珍しき』もなく煩わしくもない謡曲は自然に進行する事を第一とし、『面白き』事を第二とすべきである。

但し、此れは大凡の目安である。

申楽は何処か一か所でも上手によって『面白き』となる手掛かりさえあれば、『面白き』となるものだ。

多くの演目を演じ、毎日努力を重ねていれば、仮令『悪き』申楽であっても『珍しき』となる。

そして『時』と『場』によって演目の組み合わせに変化を持たせれば、『面白き』申楽となる。

たとえ『悪き』申楽とて、捨ておくべきではない。

申楽は、『時』と『順』が重要なのである。

『良き』申楽にするか、『悪き』申楽にするかは、為手の技量による所が大きい。


但し、心得なければならぬ事がある。


申楽には、『決して演じてはならぬ申楽』と言うものがある。


如何なる『物真似』であっても、老尼(ろうに)(うば)や老僧などに扮して、ただ狂い怒るだけの演技をしてはならない。

また怒れる役柄で、『幽玄』の『物真似』をしてはならない。

此れを真の『似非(えせ)申楽』『狂相(きょうそう)』と申すべきものである。

此の心、『風姿花伝』二之巻の〚物狂〛の段でも述べた通りである。

また全ての事に釣り合いが取れているのであれば、其の演目は成功するであろう。

故に『良き』本木の申楽を上手が演じれば、観客は演目が成功すると思い込むものだ。

しかし『良き』条件が整っているにも拘らず、不思議と演目が成功しない『時』がある。

優れた目利きが見れば、其れが為手に問題があったとは思わない。

ただ大方の人は其の申楽が悪く、為手も其れ程の上手ではなかったと見るものである。

抑々、『良き』申楽を上手が演じても成功しないのは『時』の『陰』と『陽』が和合していなかったせいか、また『花』の為の工夫が無かった為かではあるが・・・。

≪私≫としても、今尚不審は残る・・・」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「たとえ作品を作る為の天賦の才能が無くとも、典拠が正しく、多くの観客が理解し易いように作品に工夫を凝らせば、素晴らしい作品を作る事が出来る。

また、『良き』申楽と『悪き』申楽と言うものがある。

『良き』申楽を観客は『面白き』と感じ、『悪き』申楽を観客は『詰まらなし』と感じる。

但し『時』や『順』を見極め、為手が努力を重ねて『悪き』申楽を一生懸命演じる事が出来れば、『悪き』申楽も『良き』申楽となる。

『悪き』申楽が、必ずしも『悪き』申楽となるとは限らない。

しかし『良き』申楽を上手が演じても、成功しない時がある。

其れは『運』によるもの、若しくは上手の工夫が足りなかった等理由は様々である。

と、言う事ですね」


「うむ。


演目を良くも悪くもするのも、『時』『場』『順』『運』、そして為手次第と言う事だ。


では、続けよう。


作者には、心得るべき事がある。


静かなる本木の音曲を中心とした作品、舞や所作のみの作品は、それぞれ趣が一方向なので書くには丁度良い。

其れとは反対に、音曲を基にして振舞うと言う申楽がある。

此れが、謡曲を書く上で一番難しい。

そして真の『面白き』と思われる申楽とは、此の事を言うのである。

作者は聞き慣れたものであり、『面白き』言葉で旋律も良く、文字移りも美しく、特に所作に『面白き』が伴う一曲の山場を念頭に置いて作品を書くべきである。

此れら全てが整ったものこそが、観客一同に感動をもたらす。


では、詳細に述べよう。


所作を基準として音曲に合わせて舞う為手は、『初心』に過ぎない。

年功を積んだ為手であれば、工夫を凝らし音曲から所作を生じさせる事が出来る。

音曲は聞くものであり、演技は見るものである。

一切の事は意味があるからこそ、所作が生じるのである。

意味を表すもの、其れは『言葉』つまり音曲である。

故に音曲は『主』であり、所作は『従』である。

()れば音曲より所作が生じるのは、順番通りである。

所作の後に音曲があるのは、『逆』である。

諸道、諸事に於いて『順』『逆』の流れであるべきで、『逆』『順』の流れであるべきではない。

つまり、音曲を基にして演技すべきである。

此れは、音曲と所作を一つの心にする為の稽古にもなる。

また申楽の謡曲を書くにも、工夫が必要である。

音曲より所作を生じさせる為には、所作を基に書くべきである。

所作を基にして謡曲を書き、其の『言葉』を謡えば、所作は自ずと付いて来るものだ。

()れば謡曲を書く時は所作を『主』と考え、しかも音曲が所作に相応するように書くべきである。

但し実際に舞台で演じる時は、音曲を『主』とすべきである。

此の様に嗜み年功を積めば謡も所作も舞も音曲とする事が出来、全てを一つにする事の出来る達者となる。

此れこそが、作者冥利に尽きると言うものである」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「所作から音曲が生じるのではなく、音曲から所作が生じる。

音曲を『主』として舞うべきである。

音曲が先であり、所作は後である。

『順』『逆』の流れを誤ってはならない。

流れのままあれば、音曲も所作も一つとなる。

また音曲と所作を一つにする為には、作者は所作を基にした謡曲を書くべきである。

其の作品通りに演じれば、為手は自然に振舞う事が出来る。


舞台で演じる時は、音曲を『主』とすべきである。

謡曲を作る時は、所作を『主』とすべきである。


全てが一つになるように為手は演じ、作者は為手が全てを一つに出来るような作品を作るべきである。

と、言う事ですね」


「うむ。


【問答條々】でも述べたが、音曲と所作と言う二つの心を一つの心にした者こそが『強き』『幽玄』を備えた上手である。

其の為には音曲を理解し、稽古を続け、其の稽古から得た所作で以て音曲を表現しなければならない。

作者もまた演者や観客の事を考え、全てを一つに出来るような作品を作らなければならない。

独り善がりの作品を作ってはならない。

自分の為に作った作品は、誰にも受け容れられる事はない。


では、続けよう。


申楽に於いて『強き』『幽玄』『弱き』『荒き』の違いを知る事は、粗方(あらかた)目で見る事が出来るので容易いと思われる。

しかし多くの為手は此れらの違いを知らぬが故に、『弱く』『荒く』演じてしまう。

全ての『物真似』を正確に演じる事が出来なければ、其の演技は『弱く』も『荒く』もなると言う事を知るべきである。

此れらの違いは余程の工夫を凝らさねば、演じ分ける事が出来ない。

よくよく心に留め置き、区別して考えるべきである。


先ず『弱き』であるべき事を『強き』としようとすれば、此れは矛盾(むじゅん)する事になるので『荒き』となる。

『強き』であるべき事を『強き』としようとすれば、此れは矛盾しないので『強き』となる。

『荒き』とはならない。

『強き』であるべき事を『幽玄』にしようとして『物真似』が足りていなければ、『幽玄』ではなく『弱き』となってしまう。

但し『物真似』に専心して其のものに成りきってよく似せる事が出来れば、『弱き』にも『荒き』にもならない。

また『強き』に過度な『強き』を加えれば、此れは『荒き』となる。

『幽玄』の所作よりも更に『優しき』としようとすれば、此れは『弱き』となる。

此の違いをよく考えると『幽玄』と『強き』とは別の物であると心得る。


しかし、そう考えるが故に却って迷うところがある。


『幽玄』も『強き』も、『物真似』を演じる対象に元々備わっているものである。

例えば人に於いては、女御(にょうご)更衣(こうい)遊女(ゆうじょ)、美女、美男。

草木(そうもく)に於いては、花の類。

此れらは其の形からして、『幽玄』其のものである。

そして武士(もののふ)荒夷(あらえびす)(東国武士)、或いは鬼や神。

草木に於いては、松や杉。

此れらは、『強き』と申すべきであろう。

斯様な全ての役柄を良く似せる事が出来れば『幽玄』の『物真似』は『幽玄』となり、『強き』ものは自ずと『強き』となる。

此の違いを考えず、ただ『幽玄』にする事のみに専念し『物真似』が疎かになれば似るはずもない。

『物真似』を正確に演じていない事に気付かず、『幽玄』であろうと思う心こそが『弱き』なのである。

()れば遊女や美男などの『物真似』を良く似せる事が出来れば、自ずと『幽玄』となる。

ただ、似せようとする事に心を傾けるべきなのだ。

また『強き』ものを似せる事が出来れば、自ずと『強き』となる。


但し、心得るべき事がある。


残念ながら、申楽の道は観客によるところが大きい。

時代によって、観客の好みは異なる。

故に『幽玄』を好む観客の前では仮令『物真似』に外れたとしても、『強き』演技の中の『強き』を少なくして『幽玄』に寄せて演じた方が良い。

此れに関して、作者はまた心得るべき事がある。

如何にも申楽の本木は『幽玄』である事が基本であり、心や言葉をも『優しき』とする事を念頭に置いて書くべきである。

其の通りに演じる事が出来れば、演じる為手は自ずと『幽玄』と見えるのである。

『幽玄』の理を知り極めれば、己の『弱き』所も知る事が出来る。

()れば全ての『物真似』を似せる事が出来れば、(はた)から見ても危うい所など無い。

危うい所が無いと言う事は、『強き』と言う事である。


そう考えると、やはり『強き』と『幽玄』は別の物ではない。


『落つる』『崩るる』『破るる』『(まる)ぶ』と言う言葉は『強き』響きなので、振りも『強き』となる。

ごく(かす)かな言葉の響き、例えば『(なび)き』『()す』『かへる』『寄る』と言う言葉は『柔らかい』響きなので所作も自ずと『幽玄』となる。

『強き』と『幽玄』は、『物真似』を正確に演じたものであるから同じものである。

単に、『物真似』の対象が異なるだけである。

『弱き』と『荒き』は『物真似』から外れたもの、つまり演じ方の違いによるものと知っておくべきであろう。


作者の中には発端(ほったん)の句や謡の一聲(いっせい)や和歌など、また『物真似』の役によっては『幽玄』なる余韻や趣を出せるような言葉の中に『荒き』言葉を入れたり、()り過ぎた梵語(ぼんご)漢音(かんおん)を載せる者がいる。

此れは、過ちである。

言葉のままに演じれば、必ず役に合わない事もあるであろう。

但し堪能な為手は此の違和感に気付く事が出来るので、工夫を加えて自然に演じる事が出来る。

もし其の申楽が成功したとすれば、其れは為手の技量に助けられたに過ぎない。

決して自分本位の謡曲を作った作者の過ちが、消える訳ではない。

作者が役に合わない言葉を用い、もし為手に其の演目を上手く演じる技量が無ければ、『悪き』申楽となるであろう。


また申楽によってはさして細かな言葉や儀理にこだわらず、大様(おおよう)にすべきものと言うものがある。

其の様な申楽は素直に舞い、謡い、振りも流れるようにすべきである。

此の様な申楽に技巧を凝らすのは、下手な演者である。

此れもまた、申楽の評価が下がる所と知るべきである。

つまり『良き』言葉や余韻を求めるのは、儀理や山場が無くてはならない申楽の場合である。

手の込んだ趣向の無い申楽には、仮令『幽玄』な為手が固い言葉で謡ったとしても、音曲の演じ方が確かであれば良いものとなる。

此れは則ち、申楽の本来あるべき姿と心得るべきである。

ただ返す返すも『風姿花伝』の條々を極め尽くして大様に演じる事が出来なければ、申楽の基本を会得しているとは言えない」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『強き』『幽玄』『弱き』『荒き』の違いを理解し演じ分け、真似る事に専心すべきである。

無理に演じるのではなく『物真似』を正確にすれば『幽玄』なものは自ずと『幽玄』となり、『強き』ものは自ずと『強き』となる。

但し申楽は観客次第であるので、観客に合わせて演じる必要がある。

『幽玄』が好まれるのであれば、仮令『強き』ものでも『幽玄』に寄せて演じなければならない。

また手の込んだ趣向の無い申楽に対しては技巧を凝らして演じるのではなく、自然に正確に演じるべきである。

其の『時』に応じて、演技は変化させるべきである。

と、言う事ですね」


「うむ。


何度も言うが、『時』はとても重要である。

たとえ正確に演じようとも正しいものが誤ったものとなったり、『良きもの』が『悪しきもの』となったり、好まれていたものが嫌悪されたり、時代によって変容するものだ。

それぞれに対応出来るように、驕らず日々精進を重ねる事が何よりも大切なのである。


では、続けよう。


申楽ではどの様な謡曲が良いかを決める際、為手の『位』に応じて選ぶのが良い。

文字の美しさや『幽玄』を求めず作った謡曲は大様なる申楽であっても、典拠の通りであれば格式の高い申楽と言える。

しかし、此の様な申楽には細かな見所があまりない時がある。

そして、こう言った申楽には『良き』為手の手に余る事がある。

たとえ此れに相応する程の無上の上手であっても、また観客が目利きであっても、大舞台でなくては成功しない場合がある。

此れは、申楽の『位』、為手の『位』、目利き、演じる『場』、『時』が悉く相応しないからだ。


また規模の小さな申楽に於いて、さしたる典拠ではないけれど『幽玄』であり繊細な謡曲と言うものがある。

此れは、『初心』の為手に演じさせるのが相応しい。

演じる場所も自然の中や片田舎での神事、夜の庭などが良い。

何故ならば『初心』の演者が『幽玄』なる謡曲を自然の中や田舎、小さな庭で演じる事により、目利きも申楽の為手も其の演技を『面白き』と感じるからである。


故に、注意しなければならない。


此れは『初心』の演者、『幽玄』なる謡曲、『場』の相乗効果により、其の『時』、偶然『面白き』が生まれたに過ぎない。

其の様に見誤る事により、もし堂々とした晴れがましい大舞台や身分の高い方々の御前などで、或いは贔屓(ひいき)興行(特定の演者を贔屓して申楽を催す事)をして思いの外其の演技が悪ければ、為手の名にも傷が付き、謡曲の作者自身も面目(めんぼく)が立たないであろう。


()ればどの様な演目、場所に限らず、甲乙(こうおつ)無く演じる事の出来る為手であるならば、無上の『花』を極めた上手と申すべきである。

故に如何なる『場』であっても、其れに相応する力のある為手であれば成功しないなどと言う事はない。

また為手によっては上手である割に、申楽の本質を知らぬ為手もいる。

対して、其れ程の態が無くとも申楽の本質を弁えている者もいる。

上手であっても貴い場所や大舞台などで手違いがあるのは、申楽の本質を知らないからである。

また其れほど達者でもなく、演じる事の出来る役が少ない為手で、謂わば『初心』であるにも拘わらず大舞台であっても『花』は失せず、観客の喝采(かっさい)を更に受ける者もいる。

其れは、其の為手が申楽の本質を知っているからである。

故に此の両様の為手、申楽の本質を知らぬ者と知る者それぞれ評価が分かれるのである。

但し、貴い場所や大舞台などで全ての申楽を良く演じる事の出来る為手は、名望長久(めいぼうちょうきゅう)(声望が高く、長く久しくある)となるであろう。

従って上手や達者は自らの申楽を知らない者より、少し技量は足らぬ為手であっても申楽の本質を知っている者の方が、一座を繁栄させる為の棟梁として相応しい。

申楽の本質を知っている為手は自らの技量が足らぬ事を知っているので、大事な申楽では不得手な部分を斟酌(しんしゃく)して得意な態だけに重きを置く。

そして其の演技が良ければ、必ず名声を得るであろう。

一方、不得手な部分は小さな場所や片田舎で修練すれば良い。

此の様に稽古していけば、不得手な部分も自然と出来るようになる『時』が来るであろう。

遂には演技にも厚みが増し、洗練され、名望も一座も繁栄するであろう。

そして、必ず年老いてからも其の者の『花』は残るであろう。

此れこそが、『初心』から申楽の本質を知らなければならない理由である。

申楽の本質を知る心を以て工夫を重ねれば、『花』の『種』とは何であるかを知る事が出来る。

しかし申楽の本質を知らぬ者と知る者、つまり表を重んじる者と内を重んじる者、どちらに重きを置くのかはそれぞれの心次第である。


此の【花修に云わく】は、志の高い人物以外には述べるべきではないであろう。


【花修に云わく】は、以上である」


≪わたし≫は世阿弥様の言葉を整理しながら、自分に言い聞かせるように応えた。


「『人』『時』『場』によって、申楽の受け取られ方は異なる。

そして、どのような場合であっても多くの演目を演じる事の出来る為手こそが『花』を極めた者である。


また、たとえ上手であっても申楽の本質を理解していなければ『花』は咲いていないと同じと言う事。

申楽の本質を理解していれば、技量が足らなくとも良い。

不得意は、修練を重ねて克服すれば良い。

努力を重ねれば、老いても咲き続ける『花』を得る事が出来る。

そして、其の『花』を咲かせる事の出来る『時』は必ず来る。

と、言う事ですね」


「うむ。


其の『時』に受け容れられるものが、永遠に同じとは限らないと言う事を心得るべきである。

そして、其の『時』に受け容れられたものこそが『花』である。


〖時に用ゆるをもて花と知るべし〗


同じ場所に留まり続けるのではなく、変化を受け容れ、変化し続ければ、『真の花』を咲かせる事が出来る。


(じゅう)する所なきを、まず花と知るべし〗


同じ場所に留まり続けていては、何も変わらない。


変われない。


では、次が最後である。


第七.【別紙口伝(べっしのくでん)】」


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