『雪わり草 ~種~』
佐渡に、人が流されて来た。
皆が、噂していた。
其の人の名は、『世阿弥』であると。
佐渡で生まれ育った≪わたし≫でさえ、其の名を知っている。
大和申楽の一つ『結崎座』の家に生まれ、幼い頃から父である観阿弥と共に舞台に立ち、多くの人々に愛された人であると。
天賦の才があり、美童であった『世阿弥』は、将軍・足利義満様や公卿・二条良基様の目に留まり、ご寵愛を受けたと。
誰もが羨む様な人生を歩んで来た『世阿弥』が何故、流刑地である佐渡に流されて来たのか?
『世阿弥』は、一体どの様な罪を犯したのであろうか?
≪わたし≫は、以前から『世阿弥』に興味を抱いていた。
もしかしたら≪わたし≫に流れる血が、≪わたし≫に『そう』思わせたのかもしれない。
≪わたし≫には、二人の兄がいた。
しかし、二人とも早世した。
其の為か、三人目となる≪わたし≫を母は自分の命に代えてでも産もうとしていたと言う。
そして其の通り、母は≪わたし≫を生むと直ぐに亡くなった。
生まれたばかりの≪わたし≫は、正法寺に預けられ其処で育った。
母が自分の命を懸けてでも≪わたし≫を生もうとした理由は、≪わたし≫が順徳上皇の血を引くからだと皆が噂していた。
だから≪わたし≫は、順徳上皇が崩御されるまで過ごされた『黒木御所』近くの正法寺に預けられたのだと。
≪わたし≫が、順徳上皇の子孫・・・?
そんな訳が無い。
そんな事、あるはずがない。
≪わたし≫は、信じない。
もし≪わたし≫の中に順徳上皇の血が流れていると言うのであれば、≪わたし≫の父は二百年以上前に佐渡に流されて来た順徳上皇の子孫であると言う事になる。
しかし≪わたし≫の父が誰であるのか、名は何と言うのか、誰も知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
本当に、父は順徳上皇の子孫なのだろうか?
母は、騙されていたのではないのだろうか?
ああ。
そうだ。
母は、騙されていたに違いない。
父は≪わたし≫が母の腹の中にいた時、一度も母に会いに来なかったと言う。
そして母が死んだ後も、最期の別れにさえ来なかったと言う。
もし父が順徳上皇の子孫であるならば、母と同じ様に自分の血が残る事を喜んでくれたはずだ。
しかし、父は来なかった。
何故、父は母の傍に居なかったのか?
何故、父は≪わたし≫に会いに来てくれなかったのか?
何故、父は≪わたし≫を迎えに来てくれなかったのか?
何故、父は≪わたし≫を迎えに来てくれないのか?
父は、≪わたし≫が生まれる事を望んでいなかったのか?
母は、自分の命を懸けてまで父の血を遺そうとしたのに・・・。
母の死は、無駄だったのか?
≪わたし≫の存在は、無意味なのか?
何故、母は≪わたし≫を生んだのか?
何故、≪わたし≫は生まれたのか?
≪わたし≫はずっと、考え続けていた。
『≪わたし≫は、『何の為』に生まれてきたのか?』
ずっと・・・。
ずっと・・・。
考え続けていた・・・。
そして・・・ずっと・・・ずっと・・・分からなかった・・・。
≪わたし≫は、十二になった。
十二になった今も、≪わたし≫は父に会った事がない。
『会いたい』と言う気持ちは、とうの昔に失せていた。
いや。
元々、其の様な気持ちは存在していなかったのかもしれない。
最初から、≪わたし≫には父がいなかった。
最初からいなかったから、≪わたし≫は悲しむ事もなかった。
ただ時々、≪わたし≫の中に『父の存在』を感じる時があった。
≪わたし≫は、幼い頃から京に憧れを抱いていた。
雅な世界に、興味があった。
数百年前から遠流の地であった佐渡には、上皇や天皇、天皇の皇子、僧侶などが沢山流されて来た。
元正天皇に対する不敬の罪で流された穂積老。
承久の乱で敗れた順徳上皇。
鎌倉幕府により流罪の刑に処せられた日蓮聖人。
佐渡に流されて来た人々は高い地位にあった者、京に住んでいた者、高い教養のある者が多かった。
其の為、佐渡は離島であるにも拘らず京の文化や芸術の影響を色濃く受けた島となった。
≪わたし≫が京に興味を持つのは、佐渡の者が抱く京に対する憧憬からなのか?
それとも、島国の者が抱く単なる羨望からなのか?
それとも≪わたし≫自身が、順徳上皇の子孫だと思いたいからなのか?
それとも≪わたし≫が順徳上皇の子孫だと、思い込まされているからなのか?
それとも『有職故実』を愛した順徳上皇の血が、≪わたし≫の中に流れている血が、≪わたし≫に『そう』思わせているからなのか?
≪わたし≫は、自分の気持ちが『何』であるのか分からなかった。
しかし此の思いを抱く時だけ、≪わたし≫は≪わたし≫の中に『父の存在』を感じる事が出来た。
やはり≪わたし≫は、順徳上皇の血を引く者なのか?
だから≪わたし≫は、京と繋がりのある『世阿弥』に興味を抱いたのか?
≪わたし≫は『世阿弥』が佐渡の多田に着いた後、新保の萬福寺に配所されると聞いた。
≪わたし≫は、何としても『世阿弥』を此の目で見たかった。
≪わたし≫は、急いで萬福寺へ向かった。
正法寺から萬福寺は、とても遠い。
それでも≪わたし≫は、『世阿弥』に会いたかった。
≪わたし≫は、必死に走った。
大量の汗で、次第に着物が身体に重く圧し掛かって来た。
足の筋は強張り、自由に動かせなくなっていった。
草履は磨り減り、足の裏は血だらけになった。
息は切れ、うまく息を吸う事も吐く事も出来なくなっていった。
しかし、どれ程足が傷付こうとも、どれ程息が苦しくとも、≪わたし≫は一目だけでも『世阿弥』を見たかった。
『世阿弥』に会いたかった。
会って、何かがしたかった訳ではなかった。
ただただ、会いたかった。
≪わたし≫は・・・ただ・・・京との『繋がり』が欲しかった・・・。
≪わたし≫は、必死に走り続けた。
足が滑り、≪私≫は其の場に転倒した。
急いで立ち上がろうとする≪わたし≫の指先に、何かが触れた。
其れは、黄色い萱草の花弁であった。
萱草は、可憐で美しかった。
≪わたし≫は、萱草を見つめた。
萱草は、過酷な環境の中でも力強く咲く。
≪わたし≫も萱草の様に、諦めてはならない。
『世阿弥』に会わなければならない。
≪わたし≫は立ち上がり、再び走り出した。
≪わたし≫が萬福寺に到着した時、丁度『世阿弥』が寺に入ろうとしていた。
『世阿弥』の齢は七十二と聞いていたので、≪わたし≫は竹取の翁のような姿を想像していた。
けれど『世阿弥』は、実年齢よりも随分と若く見えた。
背筋を真っ直ぐに伸ばした『世阿弥』は、しっかりとした足取りでゆっくりと歩いていた。
『世阿弥』は、小柄であった。
しかし『世阿弥』は力強く、清らかであった。
自信に満ち溢れた其の姿は威厳を放ち、其処に居るだけで圧倒的存在感があった。
本当に、『世阿弥』は罪人なのであろうか?
罪人として流されてきたはずなのに、何故あんなにも昂然なのか?
何故あんなにも、神々しいのか?
そして、あの強い意志の宿った二つの眸。
あの眸は、何故あんなにも美しいのか?
真っ直ぐに前を見つめる其の両眼は人々を惹き付け、捉え、決して放そうとしない。
強く、清廉な眸・・・。
しかし≪わたし≫は其の眸の中に、『闇』と『悲しみ』が潜んでいるように見えた。
強く、美しい眸・・・。
けれど・・・。
闇く、悲しい眸・・・。
≪わたし≫は『世阿弥』の強く美しく、そして闇く悲しい眸の理由を知りたかった。
『世阿弥』は、何故あのような眸をしているのであろうか?
佐渡に流され、苦しいのであろうか・・・?
悲しいのであろうか・・・?
いや・・・。
違う・・・。
何か・・・他の・・・何か・・・もっと・・・『何か』が・・・『世阿弥』には在る・・・。
≪わたし≫は、そう思った・・・。
『世阿弥』に、一体『何』があったのであろうか・・・?
≪わたし≫は『世阿弥』の姿が消えるまで、ずっと『世阿弥』を見つめ続けた。
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暫くして、『世阿弥』の住まう萬福寺の近くで合戦が始まった。
其の為、『世阿弥』は滞在していた萬福寺から正法寺へ移る事になった。
『世阿弥』が、来る。
『世阿弥』が、≪わたし≫の居る正法寺に来る。
『世阿弥』が、≪わたし≫の近くに来る。
『世阿弥』が、≪わたし≫の傍に来る。
≪わたし≫は、何とも言えない高揚感を覚えた。
『世阿弥』が正法寺に来ると決まってから、≪わたし≫はずっと落ち着く事が出来なかった。
『世阿弥』の事を考えると胸が痛み、着物の衿を掴む左手は震え、其の震えた左手を抑えようと握る右手も小刻みに震えた。
≪わたし≫は背中を丸め、固く目を瞑り、息を整え、体内から溢れ出て来る熱を必死に抑えた。
『世阿弥』が、来る。
『世阿弥』が、来る。
『世阿弥』が、来る。
≪わたし≫は、ただただ自分の気持ちを抑える事しか出来なかった。
冬
遂に、『世阿弥』が来た。
『世阿弥』が、正法寺に来た。
しかし≪わたし≫は、『世阿弥』を遠くから見る事しか出来なかった。
近付いて、話をしたかった。
だが、出来なかった。
≪わたし≫は、≪わたし≫が求め続けた『世阿弥』に近付く事も話す事も出来なかった。
ただ、月日だけが流れていった。
『世阿弥』が正法寺に来て暫くした後のある夏の年、佐渡が大旱魃に見舞われた。
『世阿弥』は雨を降らせる為に、舞を奉納する事になった。
『世阿弥』は数日間、正法寺観音堂に籠って申楽面を彫った。
出来上がった其の面は、鬼の面であった。
此の面は、後に『雨乞いの面』と呼ばれるようになった。
『世阿弥』は其の面を付け、境内で『法楽の舞』を舞った。
≪わたし≫は、面を付けた『世阿弥』の姿に目を奪われた。
面は全体に黒い漆が塗られ、其の上に群青色が塗られていた。
黒目の縁、眉間、唇は、朱色。
白眼は、金泥。
とても恐ろしい形相の面であった。
面は、とても恐ろしかった。
けれど其の面を付けて舞う『世阿弥』は、神聖であった。
『世阿弥』は・・・崇高であり・・・流麗であり・・・優美であり・・・。
そして・・・。
凄まじいほど・・・。
美しかった・・・。
≪わたし≫は『世阿弥』の動き一つ一つを決して見逃すまいと、目を凝らして見続けた。
瞬さえも忘れるくらい、食い入るように見つめ続けた。
其の姿を目に焼き付けたかった。
忘れたくなかった。
『世阿弥』が『法楽の舞』を舞っていると、雨雲が現れた。
ポツリ・・・
ポツリ・・・
ポツリ・・・
雨粒が、空を見上げた≪わたし≫の頬に当たった。
そして暫くすると、大雨が降って来た。
『世阿弥』の舞を見ていた人々が、涙を流しながら『世阿弥』に手を合わせた。
『世阿弥』は、舞を終えた。
『世阿弥』は、雨に打たれながら空を見上げた。
≪わたし≫には、雨に濡れる『世阿弥』が光り輝いて見えた。
『世阿弥』・・・。
世阿弥様は・・・。
世阿弥様は・・・美しく・・・そして・・・何故か・・・儚く見えた・・・。
世阿弥様の中には『闇』と『悲しみ』が在るのに、何故あんなにも輝いているのか・・・?
世阿弥様は輝いているのに、何故、世阿弥様の中には『闇』と『悲しみ』が在るのか・・・?
『闇』と『悲しみ』があるのに、何故、世阿弥様は美しいのか・・・?
≪わたし≫は、震えた。
そして身を翻し、走り出した。
≪わたし≫は、世阿弥様が腰を掛けた腰掛石がある方へ向かった。
腰掛け石は、雨に濡れていた。
雨に濡れた腰掛石は、鮮やかな色と光を放っていた。
≪わたし≫は腰掛石を見つめ、其の石の上に世阿弥様が腰を掛けて≪わたし≫を見ている姿を想像した。
≪わたし≫は一呼吸おいてから、空を見上げ目を瞑った。
暫くそうした後、ゆっくりと目を見開いた。
≪わたし≫は世阿弥様の姿を思い出しながら、右手をゆっくりと上げた。
世阿弥様のように流れるように・・・。
世阿弥様の動きと全く同じように・・・。
一つとして間違いが無いように・・・。
≪わたし≫は雨の中、一心不乱に舞った。
舞い続けた。
舞い続けた。
舞い続けた。
≪わたし≫は其の後も、人のいない所を見つけては毎日毎日舞い続けた。
夏が過ぎた。
秋も過ぎた。
そして、冬が来た。
ある時を境に、≪わたし≫の舞は上達しなくなった。
どれ程修練を重ねても、≪わたし≫は世阿弥様のように舞う事が出来なかった。
同じ舞を舞っているはずなのに、同じではないのだ。
勿論、世阿弥様と同じ舞が出来ると思ってはいなかった。
しかし修練を重ねれば、ほんの僅かかもしれないけれど世阿弥様の舞に近付ける事が出来ると考えていた。
≪わたし≫は、世阿弥様のように舞いたかった。
≪わたし≫は、世阿弥様のようになりたかった。
≪わたし≫は、世阿弥様になりたかった。
≪わたし≫に足らぬものとは、何なのか?
世阿弥様と異なるものとは、何なのか?
ああ。
分からない。
分からない。
教えて欲しい。
訓えて欲しい。
世阿弥様の生き様そのものを体現していたあの舞を、どの様にすれば≪わたし≫も舞う事が出来るのであろうか?
どの様にすれば、≪わたし≫は世阿弥様の舞に近付ける事が出来るのであろうか?
どの様にすれば、≪わたし≫は世阿弥様のようになれるのであろうか?
どの様にすれば、≪わたし≫は世阿弥様になれるのであろうか?
ああ・・・。
知りたい・・・。
知りたい・・・。
≪わたし≫は、世阿弥様の事を知りたい・・・。
≪わたし≫は、世阿弥様から直接訓えを乞う事を決意した。
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≪わたし≫は皆が寝静まった後、部屋を出て世阿弥様の居らっしゃる部屋へ向かう事にした。
≪わたし≫は、今夜、どうしても世阿弥様に直接お会いしたかった。
深夜
≪わたし≫は、暖かい布団から起き上がった。
布団から出ると、冷たい空気が≪わたし≫を包んだ。
≪わたし≫は右掌を口元に寄せて自分の暖かい息を吹き掛けながら、左の手で用意しておいた着物に手を掛けた。
≪わたし≫は着物を手繰り寄せ、其の場に立ち上がって素早く着替えた。
静かに布団を畳み、≪わたし≫は部屋の板戸をゆっくりと開けた。
すると、更に凍えるような冷たい空気が≪わたし≫の全身を覆った。
≪わたし≫は其の冷たさに耐えられず、きつく目を閉じ口を結んだ。
そして再び目を開くと、真黒な空には金色の月が輝いていた。
此の日は、満月の美しい夜だった。
≪わたし≫は、月の美しさに心を奪われた。
煌々と光る月は、まるであの時の世阿弥様のように光り輝いていた。
≪わたし≫は月を眺めながら部屋を出て、後ろ手で板戸を閉めた。
そして廊下を少し歩いて、庭に近付いた。
庭には、雪が積もっていた。
真っ白な雪が、庭一面を覆っていた。
≪わたし≫は、少し上を見上げた。
雪が、舞っていた。
空中を舞う雪は闇の中で静かに、ゆっくりと、月の光を受けながら輝いていた。
≪わたし≫は、ずっと其の雪を見ていたかった。
廊下に接する足の裏が、冷たくなっていった。
しかし冷たくなっていく足に反して、≪わたし≫の身体は次第に熱くなっていった。
≪わたし≫は其の熱を抑えきれず、廊下を歩き始めた。
≪わたし≫は、世阿弥様の部屋を目指した。
廊下を歩いていると、世阿弥様の部屋から蝋燭の柔らかい光が見えた。
板戸が少し開いていたせいか、明かりが少し漏れていた。
世阿弥様は、起きている。
≪わたし≫は逸る気持ちを抑えながら少し急ぎ足で廊下を歩き、世阿弥様の部屋の前で立ち止まった。
≪わたし≫が口を開こうとした其の時、部屋の中から世阿弥様が仰った。
「誰か其処にいるのか?」
世阿弥様の声は低く、落ち着いていて、静かだった。
≪わたし≫は慌てて正座し、躊躇いながら応えた。
「≪わたし≫は・・・正法寺の者です・・・」
部屋から、応えは返って来なかった。
沈黙が、続いた。
≪わたし≫は、両拳を強く握った。
手の内側は、次第に濡れていった。
≪わたし≫の身体は、震えていた。
暫くした後、部屋から再び声がした。
「入りなさい」
≪わたし≫は息を呑み、板戸に手を掛け、ゆっくりと開けて中に入った。
≪わたし≫は世阿弥様を直視する事が出来ず、畳を見つめながら部屋に入った。
そして振り返って板戸を閉めようとした時、世阿弥様が静かに仰った。
「板戸は、そのままに・・・」
≪わたし≫は少し戸惑ったけれど、言われた通り板戸をそのままにした。
そして≪わたし≫は再び畳を見つめながら世阿弥様の方を向いて正座し、目を瞑って畳に額を付けた。
すると、≪わたし≫の身体の上に優しく着物が掛けられた。
其の着物は暖かく、芳しい香りがした。
「顔を上げなさい」
≪わたし≫は温かい声に促され、ゆっくりと目を開けながら顔を上げた。
目を開けて一番初めに目に映ったものは、真っ白い着物であった。
≪わたし≫に掛けられた着物は、一点の汚れも無い真っ白いものであった。
顔を上げていくと、≪わたし≫の目の中に少しずつ世阿弥様が入ってきた。
世阿弥様の膝の前に置かれた一本の扇。
世阿弥様の両膝の上に置かれた細く美しい指。
乱れの無い真っ白な小袖。
優しく引き締まった口元。
真っ直ぐ整った鼻筋。
そして、朱にも金にも青にも見える眸。
全てが美しかった。
蝋燭の火に照らされた世阿弥様は、とても美しかった。
≪わたし≫は、世阿弥様から目を離す事が出来なかった。
世阿弥様は≪わたし≫を見つめながら、優しい声色で聞いた。
「其方の名は?」
世阿弥様の声で≪わたし≫は自分が世阿弥様を凝視していた事に気付き、慌てて視線を下に向けた。
そして、震えながら応えた。
「・・・≪わたし≫は・・・三郎と・・・申します・・・」
すると、≪わたし≫の名を聞いた世阿弥様は少し目を見開いた。
そして、≪わたし≫を暫くじっと見つめてからゆっくりと口を開いた。
「三郎・・・。
そうか・・・。
三郎か・・・。
ああ・・・。
其方は・・・いつも・・・」
そう言うと、世阿弥様は口を噤んだ。
≪わたし≫は不思議に思い、少し顔を上げて世阿弥様の名を呼んだ。
「世阿弥様・・・?」
すると世阿弥様は悲しそうに少し微笑み、話し始めた。
「いや・・・。
何でもない・・・。
ところで三郎は、何歳になる・・・?」
「十二です」
「十二・・・。
≪私≫が・・・初めて義満様にお会いした時と同じ歳だ・・・」
世阿弥様は、懐かしそうに≪わたし≫を見つめながら呟いた。
そして、続けた。
「何故、此処に来た?」
≪わたし≫は、今度は世阿弥様の目を真っ直ぐ見つめながら、はっきりとした声で応えた。
「世阿弥様に訓えを乞いたいと思い、参りました」
「訓え・・・?
其方は、≪私≫から何を学びたいと言うのか・・・?」
≪わたし≫は此の質問に対して、少し躊躇しながら応えた。
「・・・申楽について・・・。
≪わたし≫は・・・世阿弥様から申楽を学びたいのです・・・」
『そして・・・。
そして≪わたし≫は・・・貴方自身の事も知りたい・・・。
貴方を知って・・・≪わたし≫は・・・貴方になりたい・・・』
≪わたし≫の応えに対し、世阿弥様は少し戸惑っているようであった。
しかし直ぐに微笑み、応えてくれた。
「此れも・・・何かの縁・・・。
良いだろう・・・。
三郎。
訓えよう。
しかし今から≪私≫が話す事は、決して他言してはならぬ。
約束出来るか?」
「はい!
お約束致します!!
世阿弥様のお言葉は、≪わたし≫の中に・・・!!!
永遠に・・・!!!」
≪わたし≫は、迷いなく応えた。
世阿弥様は≪わたし≫の応えを聞くとにっこりと笑い、優しく応えた。
「宜しい。
≪私≫は、三郎を信じる。
では、話そう」
≪わたし≫は気を引き締め、姿勢を正し、無言で頷いた。
世阿弥様は目を伏せ、そして再び目を開き、≪わたし≫の目を見つめながら口を開いた。
「今から話す事は、≪私≫が三十七歳の頃に書き始めた書に記した事である。
父から受け継いだ奥義を後の世に遺す為に書き記したものであり、伝える事を目的として書いたものである」
「・・・」
「演者は伝統を重んじながら稽古を続けると共に、様々な創意工夫をし、変化させながら芸を極めなければならない。
自ら育てた芸は、言葉では伝える事の出来ないものである。
伝統と言葉では伝える事の出来ないものを、心から心に伝える。
此の伝えるものが、『花』である。
だから≪私≫は此の書を、『風姿花伝』と名付けた」
「『風姿花伝』・・・」
「うむ。
『風姿花伝』は、第一から第七の七つの条項から成る。
第一.【年来稽古條々】
第二.【物学條々】
第三.【問答條々】
第四.【神儀に云わく】
第五.【奥義に云わく】
第六.【花修に云わく】
第七.【別紙口伝】
では、始めよう」