第07話 二人の共同作業(前)
俺は動けなかった。いや、動かなかった。心はすっかり萎えていた。
次の瞬間、鞭のような細く長い何かが延びてきて、額を切り裂く。
デボラの下半身から触手のようなものが生えているのが見える。
やがて視界が赤く染まる。そのまま力が抜け、膝をつく
「十兵衛さん。大丈夫ですよ。行けます、行けます。イイ感じです」
何を言ってんだ。拭った手も真っ赤に染まる。こんなに血が出てるんだぞ……。
俺は無力だ。そして臆病だ。だから奴らは俺を置いていった。当然じゃないか。
俺は何でもやった。
男の仕事――誰かの命を預かるような、決して取り返しのつかない、決定的な役割……それ以外なら、なんでも。それが俺だった。
あの強情なマチルダをどうにか、ここから逃がす方法はないか。あの死にたがりには困ったもんだ。
ぼやけた視界で振り返ると『紅錆』を構えたマチルダがいた。いや、構えることもできていない。何とか持ち上げているといったところだ。振るうというより振り回されているような。
「あら、刀って思ったよりも重いのですね。十兵衛さんはもう動けないようです。ですからデボラさん、私と一騎打ちをしましょう」
マチルダはデボラに語り掛ける。一瞬、敵の動きが止まる。
最初はバラバラだった肉塊たちの動きが、対称的な陣形を組み統制のとれたものへと変化していた。
「マチルダ、無理だ。これはもう理屈じゃない、逃げろ。責任とか、使命とかそんなものために死ぬんじゃない。今だけは俺の言うことを聞け」
俺は目の前の女が憎かった。彼女が逃げ延びてくれさえすれば、俺の死は無駄ではなくなる。なのに、どうして。
「本当に十兵衛さんたらお優しいのね。責任、使命、役割、正義そういうもののために父上も、兄上も死んでいったんですよ。だから、私だってそこから逃げられるわけ、ないのですよ」
マチルダは俺の方を振り返る。
「でもね、そんな理屈で十兵衛さんを言い聞かせて、やり込めることほど罪深いことはないと気付かされました。すべてを捨ててでも生きるべきだ、そう言えるのが人の優しさなのだと気付くことが出来ました。私だってお父様を止めますもの。でも、お父様もこういう気持ちで果てたのであれば……」
マチルダは晴れやかな表情をしていた。こんな顔をした人間を俺は何人も見知っている。
このままでいいのか。だけど、俺は何もしない。何をすべきか、何も浮かばない。
やたら滅法に刀を振り回すマチルダ。化け物たちは攻めあぐねているようだが、それは戦況が拮抗しているわけではなかった。ただ、はしゃぐ子供を微笑ましく眺めるようなもの。デボラは愉悦に浸る表情でじりじりと包囲を狭めていく。
「己ガ無力ヲ知レ。チカラヲ望メ」
まだ何かあるのか、何も浮かばねぇ……だから俺は考えることを止めた。
「マチルダ、刀を返せ。死ぬ覚悟なら光弾を打ち続けろ。0.1秒でいいから、間隔を詰めろ」
『常に考えよとはいうが戦場において思考というものは足枷となる。考えよとは観察し、動けということだ。どんな些細なことでも、やれることをやれ。立ち止まるな。例えお前の中に最善と呼べる方策があっても、その場で思い浮かばねば意味はない。これはもう、どうしようもないことなのだ。昨日何を食べたのか、ぐっすりと寝たのか。そんなことで人の思考は制限される。思考を辿るな最善を追うな……』
『先生』を想い出していた。
俺は何もできない。出来ることは、真似ることくらいだ。
『先生』なら仲間を絶対に諦めさせない。窮地であれば限界を越えさせるだけだ。そして冷静に戦況を確認するだろう。俺はそれをただトレースするだけだ。
デボラ本体と17匹の肉塊。すでに新しい肉塊を生み出されていない。
マチルダの弧状弾を受けた敵は、倒せないまでも動きが鈍る。それを俺が斬ればいいのだ。慎重に、慎重に、俺は死ぬまでそれを続ける。先に17体切り倒せば……あとはあの本体をどうするか。ああ、解決できないことは後回しでいい。
よし、決まった。
「QqゥゥゥLlァァァァァl」
デボラが咆哮する。俺が二人の間に割って入ったのが気に食わなかったようだ。
震える空気が怒りの大きさを伝える。
こうなれば後は正面から打ち合うしかない。
デボラはいびつに生えた2本の触手をしならせて、俺を打つ。
一撃一撃が棍棒で殴られたように重い。体の芯に響く。こんなもん何発耐えられる?
『淑女から平手打ちを頂戴するとは、ワシもまだまだ未熟じゃな』先生ならそういって笑い飛ばすか。
「よしゃぁぁぁぁぁ」
気勢を上げ不安を振り払う。
弧状弾の一閃が合図となった。合わせて俺も動く。まず一匹。
分厚い革の外套が紙一重で、鋭い爪による致命傷を避けてくれている。機関の特注品だが、こいつとも今日でお別れだな。
マチルダの次弾までの時間を測る。約5秒。その間にデボラの触手が俺を4度撃つ。あーん、つまり俺はあと何秒、何発耐えればいいんだ。そんな計算ももう難しい。2匹目を一刀両断する。
体が鉛のように重い。思考が鈍る。疲労、酸欠、出血、骨折。人の体は機械とは違う。計算通りにはいかないわけだ。何とか3匹目に止めを刺した時点で、いよいよ嘘偽りなく俺は持てるすべてを絞り出していた。
「素晴らしいです! 十兵衛さん。本物のサムライ様はやっぱり素敵です」
マチルダの歓声が聞こえる。気軽に言ってくれるぜ。
最後にカッコつけさせてもらったが、悪いな俺はここまでだ。