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第03話 お嬢様を尾行してみた(前)

 走る。走る、走る、走る。

 ただひたすら一心不乱に駆けることこそ兵士にとってイロハのイ。走ることを疎ましく思ったことはない。走狗であることを恥じたことはない。

 だが、今日は事情が違う。命令があるわけでもない。使命があるわけでもない。ただ、ざわつく心を落ち着かせるために走っているのだとしたら、俺はどうにかなってしまったのだろう。

 マチルダと別れて3時間が経つ。俺は結局、彼女を尾行していた。

 『あのわずかなひと時の邂逅で、私はすっかり彼女の虜になってしまったのです』なら良かった。

 そうではなく、俺は理屈にもならない直感に駆られ汗と泥にまみれていたのだった。


 最初の違和感は、いざ別れるときに一瞬だけ彼女が見せた表情だった。あのマイペースな彼女には似つかわしくない、悲壮な決意のようなものを感じ取ったのだ。

 そしてもう一つは、無軌道な彼女の足取りだった。橋で出会い、レストランで別れた彼女はまっすぐに来た道を戻っていってしまった。俺に出会わなければどこに行こうとしていたのだろうか。根拠としては弱いことは承知の上だ。


「出会ったのが、あの橋だったってのもスッキリしねぇんだよな」


 俺は独り言つ。

 彼女は悩んでいた。迷っていた。

 もし俺がそっと背を押し、それで彼女が決意したのなら、俺はこのまま無関係でいいのだろうか。

 俺は何がしたいんだ。ただ納得したいのかもしれない。くそっ。自分の直感なんてものに頼って動くからこうも支離滅裂になるのだ。


 尾行を開始して早々、マチルダが自らオートモービルに乗り込んだのには驚かされた。ああ見えて随分とお転婆娘なのかもしれない。慌てて預けてあったバイクを引っ張り出して後を追う。

 ロンドンのセントラルを離れ、郊外へと移る。ここで整備不良のバイクが機嫌を損ねてしまったのは予想外。俺は、一心不乱に走るしかなかった。

 日が暮れていく。

 木々の影が伸びる。

 赤く燃える空と森が美しい。

 そこにはまだ、のどかな自然が残されていた。日出る国の里山とはまた趣の違った西の果ての島国の自然。

 心地よかった。子供のころから俺はこうして駆けまわってばかりだ。

 汚れた空と人間の体臭が染みついた路地は姿を消し、人の手で管理された自然が姿を現す。

 この一帯は貴族の邸宅の立ち並ぶ地区だ。

 ロンドン、それは人口700万人を超える世界最大の都市だ。それは僅か1世紀と少し前、1800年にはわずか86万人だったのだ。それが1880年頃に500万を超え、現在まで成長の勢いに陰りは見えない。人類がかつて経験したことがない速度でこの都市は成長しているのだ。

 貴族でさえも中心部に屋敷を構えることは難しくなり、こうして郊外に逃れる貴族も増えていったのだ。

 そのどれも四方を壁や鉄柵やに囲われた立派な表庭を備えた邸宅であり、それさえも彼らにとってはロンドン滞在中の別宅でしかないというのだから、頭がくらくらとする。

 そのうちの一つがマチルダの自宅だった、というオチかもしれない。自分の偏執狂ぶりを笑いたくもなった。

 だが、残念なことに俺の勘は大外れというわけでもなかったようだ。

 轍の先、とうとう巡り着いた屋敷。その外門は不用心に開け放たれたままでいた。

 日はすっかり落ち、夜の帳が下りていた。静寂が、不穏さを際立たせる。


 感覚を研ぎ澄ましてみても人の気配は全く感じられない。番犬さえも見当たらない。あまりに無防備にすぎて、逆に警戒心を掻き立てられる。

 玄関の前にはマチルダのオートモービルがそのままに置かれていた。ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト。その愛称の由来に倣って、彼女の車両もまた全体銀一色に整えられている。見間違うはずはない。


「自分で門扉を開けて、中に入ったか」


 館の一角から漏れる灯りが見えた。

 人物の評価、尾行、そして侵入。そんな地味な活動が俺の本業だった。

 マチルダが誉めてくれた『素敵な職場』の正体、それが大日本帝国陸軍特務機関”静機関(しじまきかん)”である。俺はその末端の階級もない兵士として、ヨーロッパ中を旅してきた。機関の目的は、日本国にとって最大の脅威であるロシア帝国の弱体化。

 機関は欧州を舞台とした数多の諜報戦・謀略戦を戦い抜き、ロシア革命の成功により、いったんその役割を終え、次の段階へとシフトした。

 その栄光の中で……俺は捨てられた。『先生』は俺に無期限の休暇を与えた。『先生』はこれを機会に自分自身を見つめ直せといったが、上層部の本心は理解できた。俺に求められた役割は少年兵。他人の心の死角に入りこむ、少年という属性だけが俺の価値だった。『先生』と出会ってもうすぐ10年、すっかり成長した俺は、正規の訓練を受けていない只の半端者でしかない。俺は最後まで『先生』の子飼いでしかなく、機関の仲間などではなかったのだ。


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