第01話 橋のちょうど真ん中で (前)
自分がよく分からない。自分を表す一人称が分からない。
小官、それがし、身共、拙者、おいら……「俺」。そうだな、それが最も中心に近い。
俺がテムズ川にかかるその橋にまで足を延ばしたのは、全くの好奇心からの気まぐれだった。伝説・伝承と呼ぶには大げさすぎる根拠のないただの噂。あてのない休暇のさなかでもなければ、思い出すことさえなかっただろう。
何をしようと思ったわけでもない。噂の真否を確かめるつもりさえなかった。ただ、なんとなくその場に立ってみたかった。本当にこの世に神秘というものがあったのなら、その欠片くらいでも感じ取れないかと思ったりしたのだ。
そのような必然性の欠片もない、思い付くままの行動であったから、そこで俺と彼女が出会ったことは本当の本当に、ただの偶然でしかなかった。
「結局のところですよ、兄にとって私はいずれ嫁いで何処へと出ていくってしまう身。ウェザーエザー家の一員としては認められないということだったのですわ」
青い目の貴婦人は口と尖らせながら、白い皿の上でニンジンをコロコロと転がしている。
間違いない、彼女は腹を立てている。そして一度大きくため息を吐いて
「そんな私が、わが家の当主になるだなんて、世の中というのは皮肉なものですよね」
今度はブスブスとフォークを突き刺してニンジンに穴をあけていく。
このニンジンこそが彼女の上の兄なわけだが、串刺しにしたいほど憎いというわけでもないだろう。幼児じみた遊びのようなものだ。たしか隣のソラマメが下の兄。茹でたジャガイモが父親だ。それ以外の役者たちもいたが、今はすべて彼女の腹の中である。
名も知らぬ淑女、いや確か最初に名乗っていたな。……マチルダ、そうだ。彼女はマチルダ・ウェザーエザーだ。
俺は彼女と二人、豪奢な佇まいのフレンチ・レストランでランチの真っ最中だった。店内の至る所に飾られた絵画と写真が店の歴史を物語っている。ロンドン中心部の一等地。華美な内装、清潔な食器、静謐な店内、そして一級の食材を用いた一流シェフの料理。会計を想像するだけでゾッとする。
マチルダはそんな高級店に、ただ道ですれ違ったというだけの旅人をもてなすつもりで連れてきたのだ。
もちろん俺だって武士の端くれだ。喜んでただ施しを受けるような恥知らずではない。
しかし、だがしかしである。このときばかりは俺はどうしても抵抗することが出来なかった。
俺にも落ち度はあった。あの瞬間、まさに二人がすれ違おうとしたまさにそのとき、不意に腹の虫が鳴った。何かが生まれるんじゃないかというほどの大声量で、グググウウゥと。ロンドンについてからの丸一日、何も口に入れていなかったのが災いした。止まれ止まれと腹を叩いたが止む様子もない。終生恥ずべき大失態。あるまじき大愚行。徳川の時代であればハラキリものだ。
俺の胃袋の警告音を耳にしたマチルダは目を真ん丸にして驚いた。ただ腹をすかした東洋人がいただけだというのに、今にも死にそうな急病人がそこにいて、ただ一人彼女だけがその命を救うことができるとでも信じ込んでしまったような神妙な顔付きで、そのか細い腕で俺をぐいぐいと引っ張っていったのだった。
彼女の表情は真剣そのもので、拒絶すれば彼女が持つ純粋さ(あるいはそれ以外の何か)を傷つけてしまう気がした。だから俺はただ彼女に従った。
さて、無理やりにもランチに招待したくれた彼女がまず、どんな言葉を発するか俺の興味は津々だった。
礼はいらない、さぁ召し上がれと安心させてくれるのか、自己管理を怠った俺に説教の一つでもするのだろうか。それとも、まだまだロンドンでは珍しい日本人が海を越えてやってきた理由を聞くのか。それとも俺の予想を裏切って、彼女はランチを恩に着せ、何か悪だくみにでも俺を巻き込んでくれるのだろうか。それも悪くない。
ところが、マチルダは席をついてからというもの息つく暇も惜しんで、とりとめもない『私の人生の物語』を語り始めた。俺は黙ってそれを聞く、興味はないが最低限の礼として。
まあいいさ。俺という人間は仕事以外で他人と話すのは苦手なのだ。マチルダはおそらく俺より4つか5つほど年上、上流階級の家庭で生まれ育ったのだろう。身につけているものはどれも高級品で、それも流行りのデザインだった。人並み以上に教養があって視野も広い好人物だ。そして何より、その笑顔は愛嬌があって美しかった。
そんな彼女を眺めながら、ただ「ふんふん、なるほど」といって時間が過ぎるのはいいことだ。飯も上手い。
熱心に語られるマチルダの半生、だけれど内容は彼女と家族、友人たちとの微笑ましく、ありきたりの日常劇だった。それがメインの肉料理が終わるころ、ようやく話題は核心部分へと近づいていく。
ロンドン◇コソコソ噂話
某銀魂の漫画家回のネタですけど
主人公の「腹減ったー」から、一宿一飯の礼として悪者を倒すような展開は、
新人作家が「どいつもこいつも」書く「ド定番」の展開であって避けたほうがいいらしいので
本編の主人公の十兵衛はマチルダに昼食を奢ってもらいながら、特に恩義は感じません。