川神 誠也の場合
自分の意識をまともに手放す事が出来たのは、一体いつの話だろう。ぐっすりと眠れたのは、どれぐらい前の話だったか。
「ストロー付けますか?」
「・・・要らない」
私は夜中、眠れなくなると重い体を無理矢理起こし近くのコンビニまでやって来る。
目的なんてない。
ただ、気を紛らわせる為だ。
そして、毎日同じ時間コンビニのレジに立っている頓珍漢な青年を私は呆れた顔で見返した。
最初私はこのコンビニのアルバイト店員に腹を立てた。
睡眠不足で気が立っていたのも確かだが、毎日繰り返されるこのやり取りにうんざりだったからだ。
彼は、何故か毎回同じ事を聞いてくるのだ。
"ストローを付けますか?"と。
私はここで、栄養ドリンクしか買った事がない。
確かに、瓶に直接口を付けるのが嫌いな客もいる。
それでも、私は他のコンビニでこんな事を尋ねられた事が無かった為、最初少し戸惑った。
しかし、当初はそれ程気にしていなかったのだ。
それが、次の日もまた次の日も、一週間一ヶ月と続くうち段々と腹が立ってきた。
これ程毎日通って同じ問答を繰り返しているというのに、アルバイトの青年はいつまで経っても、同じ事を繰り返すのだ。
ーいい加減、常連客の顔くらい覚えたらどうなのかしら?
でも、それでも私は苛々しながらも余計な事は言わなかった。きっと、それがいけなかったのだ。
私はその日、一週間まともに眠る事が出来ず仕事も休む訳にもいかず、しかし、夜寝ようと試みても全く眠る事が出来ない状態で精神的に限界を迎えそうになっていた。
昼間ならば多少は眠る事が出来る。
だがそれも眠りはとても浅く、直ぐに目が覚めてしまう。
何度か不眠治療の為に通った病院の医者は皆、私に違う病院を勧めた。
「ーーーーくそったれが」
薬はどれも大した効果は出なかった。
少し眠れたと思っても、また直ぐ眠れない毎日が始まる。
その日、私は一番最悪な状態で運悪く、その場に出くわした。
その男は私と同じく、このコンビニの常連客で毎日顔は合わせていたが勿論他人なので話した事は一度もなかった。
夜中だというのに着物をキッチリと着込み雑誌コーナーの女性誌をいつも買っている姿を見かけては変な男がいる、ぐらいの認識で通り過ぎていた。
その男は私が来店した丁度そのタイミングでレジに並んでいた。
いつも買う雑誌と、栄養ドリンクを持って。
「918円になります」
ーーー私は、呆然と立ち尽くした。
私には、あれ程何度もしつこいくらいに聞いてきた、あのセリフを、店員の青年は口にしなかったのだ。
私は一気に身体の熱が沸騰するようなそんな感覚に陥った。
「ふざけんなよ!」
私は、子供の頃から格闘技を嗜んできた。
今も、職業柄危険が伴う関係で身体を鍛えている。
もし、本気で彼を殴り飛ばしたりなどしたら間違って殺してしまう恐れがある。頭の片隅では"駄目だ!"と叫んでいる。
けれどその時、私の思考と身体は既に限界に近かった。
正常な判断力など、働かなかった。
私は青年の胸ぐらを掴むと躊躇いなく拳を振り上げた。
青年の体は驚く程軽く、信じられない事に彼は全く抵抗しなかった。
レジで立っていた男は余りに突然の出来事に動けないようだ。
私の拳は、そのまま青年の顔を抉り彼の身体はその勢いで壁に激突して、強く頭を打ちつけ意識を手放す、そこまで予測して、しかし現実はそうはならなかった。
ダンッ!!
拳が振り上げられた直後、私と店員の間に割り込んで来た人物がいたからだ。
「・・・お客様、困ります。商品がグシャグシャに・・・」
「このまま買っていくからいいの!レジ打って」
完全に今のやり取りを無視した会話に、私の頭は混乱した。
今、私は確かに、この青年を殴ろうとした。
それなのに、危害を加えられそうになった青年も、割り込んで来たお人形のような出立の少女も、そんな事なかったかの様に会話している。
コンビニ店員は少女が乱暴に置いたプラスチックのデザートカップを袋に入れると、それを渡しながら彼女に尋ねた。
「スプーンは、要りませんよね?」
それを聞いた時私はやっと、何かがおかしいと気が付いた。
「・・・さっきは、ありがとう」
私はその後彼女達と店を出てお礼を口にした。
あのまま殴っていたら確実に傷害罪で捕まっていただろう。
この女の子は、私や着物の男と同じく毎日コンビニに現れる。そして彼女は着物の男以上に関わり合いたくないと思わせる風貌である。
女の子は背が低く色白で筋肉も脂肪も極端に少なかった。
そんな身体にピンクと白を基調としたレースとフリルが惜しげもなく散りばめられたドレスを纏っている。
これを世間ではゴスロリファッションと言うのだろう。
私には理解出来ないファッションセンスだ。
「お姉さん大丈夫? 物凄い顔色だけど?」
そう聞きながらも彼女はケラケラと笑っている。
もしかして、何も考えていないだけなのかもしれない。
「帰り道こっちなんだ。お姉さんは?」
「私もよ。・・・貴方は、なんでさっきから付いてくるの?」
「え? 俺も帰り道こっちなんだけどなぁ?あ、コレあげる」
男は先程買っていた栄養ドリンクを私に差し出した。
私は意味が分からず男を見返した。
「今日買えなかっただろ? あいつ、大丈夫かな」
男が遠くなったコンビニを振り返り、私もそちらに目をやった。その時は、男の言葉の意味が理解出来なかった。
あと、どうやら私はこの二人に覚えられていたらしい。
まぁ、当然ではあるが。
「怪我もしてないし、その後も平気そうだったけれど?」
聞きたい事は山程あった。
けれど私は自分の視界が、酷く歪み始めている事に気付いていた。隣で二人が何かを言っていた様だけれど、全く耳に入ってこない。
そして、次に目を覚ました時、私は自宅のベッドに横たわっていた。
「・・・・・?」
カーテンの隙間から光が差している。
私は床に落ちていたスマホを見つけると画面を開いた。
「嘘でしょ」
私は信じられない気持ちで部屋のカーテンを開けた。
沈みかける夕陽を呆然と眺めながら、私は何年ぶりか悪夢を見る事なく熟睡する事が出来た。
ピッ
「・・・・・・昨日は、いきなり悪かったわ」
ピッ
「・・・・・496円になります」
これは、実は凄く怒っているのだろうか?
まぁ、いきなり殴りかかられたのだ、そんな客普通関わりあいになどなりたくないだろう。
それでも、謝罪している相手を無視するのはどうなのだろう?そんな事言えた立場ではないが。
私の背後に視線を感じる。
ここでまた怒ってしまっては折角の謝罪が無駄になってしまう。私は気まずいながらも青年の顔をしっかりと見つめた。
そして、困惑しきった青年の顔が、私の視界に飛び込んで来た。
「・・・・・・ストロー」
彼の顔を見た時、私は考えるよりも先にその言葉を口に出していた。
「ストロー付けて」
私の言葉に彼は一瞬考えた様だったが、一拍おいて手元からストローを取り出し袋に入れた。
彼からストローを受け取るのは、これが初めてだ。
「どうぞ。これなら、しみないと思います」
そして、その言葉を聞いた時、やっと私は思い出した。
****
その時期、私は少し危険な仕事を請け負っていた。
尾行していた私はヘマをして見つかり拉致されそうだった奴等から逃げていた。
「・・・・・はぁ・・・はぁ・・・」
複数殴られて口の中は鉄の味しかしない。
私は、なんとか逃げ延びて依頼されていた物を依頼主に届けた後、家の手前で力付きた。
その頃から、すでに酷い不眠に悩まされていた。
「こんな、所で・・・寝る、わけには・・・」
今でも、その時見上げた夜空を覚えている。
夜空は曇っていて月は完全に隠れていた。
それなのに、雲の間からはキラキラと輝く星がのぞいていたのだ。とても、静かな夜だった。
眠気に耐えられず目を閉じた時、微かに鉄が擦れる不快な音が聞こえた気がした。私は薄らと目を開いて音のする方を見た。
「・・・それ以上、近づかないで」
誰かが私の近くに立っている。
恐らく男だと推測して、胸元に手を忍ばせた。
そこには護身用のスタンガンが忍ばせてある。
「・・・大丈夫、ですか?」
若い男の子の声がして、少し身体の力を弱める。
気配からただ通りかかった通行人だと分かった。
それでも、それ以上近寄って欲しくない。
震える手をもう片方の手で押さえ出来うるだけ明るい声で相手に返事をした。
「大丈夫よ。彼氏と喧嘩して彼と勘違いしたわ。ごめんなさい。気にしなくても大丈夫だから」
大嘘だったが、こんな事で大袈裟に騒ぎ立てられたら堪らない。そのまま放ってさっさとこの場から去って欲しかった。
その通行人は暫し沈黙した後ガサガサとビニール袋をバックから取り出しそれを私の近くに置いた。
「これ、貰い物ですけど、良かったら」
その中には栄養ドリンクとペットボトルの水が入っていた。
「中にストローが入ってるんで、使った方がいいですよ」
そう言われて顔を上げた時には通行人の男の子は既に自転車に戻る所だった。
けれどその差し入れは正直とてもありがたかったので、私は素直にお礼を口にした。
「ありがとう。助かったわ」
彼は、それには答えずそのまま自転車を走らせた。
私はビニール袋の中から栄養ドリンクと小さなストローを取り出して蓋を開けた瓶に差してそれを吸い込んだ。
****
「やっと決心されたのですね?」
「薬も効果ないしね。ただ、職場に知られるのは困る。仕事に支障が出ると判断されたら仕事を失ってしまうもの」
「・・・本当に、いいんですか? 家族の方に何も言わなくて」
差し出された白い封筒には、丁寧な字で紹介状と書いてある。ずっと否定し続けて、受け取れなかった物だ。
私は、弱くなんかない。
「専門医じゃなくても、私がどんな過去を経験したのか、先生はご存知でしょ? なら、家族に言わない理由も理解出来るんじゃないの?」
ずっと、認めたくなかった。
私は強い。
絶対に負けるものか。
いつか、私にした償いを私自ら下してやる。
「私が信頼する先生です。手遅れになる前に決断してくれて本当に良かった。しかし、急に気が変わったのは何故でしょう?」
「・・・専門家なら、分かるかと思って」
紹介状に書かれた"精神科"と、いう文字を見つめながら私はあのコンビニの青年の顔を思い出す。
そして何故かあの二人の顔も思い浮かんだ。
毎日同じ時間、同じコンビニに必ず現れたあの奇妙な二人。
暴走したあの日以来あの二人とはまともに話をしていない。
しかし、恐らく私を部屋まで送り届けたのは、あの二人の筈だ。
メモなどは何も無かったが家の鍵がドアのポストに放り込まれていた。
ーー私が現れなくなったら、どう思うかしら?
おかしな話だ。
私達は皆、赤の他人。
あの抜けたコンビニの店員も、和装の女性誌が好きな男もゴスロリの甘味少女も。
そして、私も・・・。
客観的に私達がコンビニへ通っている所を想像して、私は吹き出しそうになった。
何処から見ても悪趣味の仮装パーティー仲間だろう。
口元に笑みを浮かべた私が珍しかったのか、目の前の医者は目を見開いた。
私はとうとう、我慢出来なくなって、その日本当に久し振りに声を出して笑った。