ひどい夢をみた朝に
1
アラームが鳴る前に、息苦しさで目を覚ました。寝汗がひどく、体中がべたついている。ひどい夢をみたらしい。まったく思い出せないが、なにかから逃げ回っていたような気がする。
シャワーを浴びて、歯も磨いた。
トイレで用をすませて、キッチンに向かい、水を飲む。
まだ早い時間なのに、キッチンでは母さんが弁当の準備をしていた。
「ずいぶん早いじゃない。朝ごはん食べる?」
「……なにがある?」
「ハムエッグとトーストならすぐできるけど?」
トーストを食べる気にはならなかった。朝から卵かけごはんを食べられるのだから、体調が悪いわけではない。納豆も食べた。塩昆布とポン酢をくわえて、ねばねばとかきまぜる。上品に食べたつもりでも、口のまわりがべたついた。
2
コーヒーカップをもって自分の部屋にもどり、勉強をして時間をつぶす。余計なことを考えないようにしたせいか、調子が良く、このまま進めれば、夢の残滓も消え去るかもしれない。
友人から朝の挨拶ていどの連絡がくることもあるが──
『夢精した』
ひどい邪魔が入った。朝から下着を洗っているにちがいない友人に、こちらの精神まで汚された気分だ。勉強をつづける気も失せる。
制服に着替えて、登校準備をすすめた。
用意されていた弁当も忘れずに持っていく。
「お兄ちゃん、もう行くの?」
中学生の妹がたずねてきた。朝食の途中らしく、右手には半分になったトーストを持ち、左手にはマグカップを持っている。角砂糖を四個は入れた、口のなかがべたべたするほど甘ったるいコーヒーが、妹の活力の源だそうだ。
「早いけどな……パンをくわえて走るなよ?」
「やるわけないでしょ!? そんなアニメみたいなこと!」
食べながら歩いたことはある妹とはいえ、自分でもひどい忠告をしたとおもう。やはり今朝は、どこかおかしいのかもしれない。
3
いつもの時間より早く、家を出て、学校に向かう。
住宅街がつづく狭い道路には、ちらほらと人が歩いている。
「へえ、めずらしい」
「春奈か」
数少ない異性の友人に声をかけられた。幼なじみという間柄で、小学校と中学校では、彼女といっしょに登校していた。
「久しぶりだよね、達也とふたりで歩くの」
同じ高校に入ったものの、ダンス部の春奈は、朝が早い。
「元気ない感じ? なんかあった?」
「なにもないよ。嫌な夢をみて、それを引きずってるだけ」
「へえ、どんな夢?」
「なにかに追いかけられていたような……そう、なにかとても大切なものを、懸命に守りぬこうとしていたような夢」
忘れてしまったが、とにかく奪われまいと必死だったような気がする。
「しょせんは夢だから、原因もなにもない。気分的なものだよ」
「それじゃあ、私が元気づけてあげちゃおう」
「べつにいらないけど?」
「私が元気づけてあげちゃおう」
「いや、いいって」
「私が元気づけてあげちゃおう」
「これ、『はい』を選ばないと進まない感じ?」
王道RPGの流れを日常生活に持ちこまないでほしい。
無言の春奈に「はい」とこたえる。
「私が質問をするから、達也はすべて『はい』と答える」
「はい」
「達也は男の子です」
「はい」
「女の子が好きです」
「はい」
「可愛い彼女が欲しいです」
「はい」
「幼なじみの恋人とか最高です」
「はい」
「春奈のことが大好きです」
「はい」
「春奈のことを愛しています」
「はい」
「いますぐここで春奈を抱きしめて、キスをしたい」
「はい」
「イエス! アイムレディ!!」
春奈は立ちどまり、大きく胸を広げた。腕は指先に至るまでのびやかで、足元は淑やかに整っている。笑顔が眩しい。じつに美しいポージングを決めた幼なじみの彼女に、「アイムノットレディ」とこたえる。幼いころはもちろん、ダンゴムシをさわれなくなったいまでも、仲のよい友人でしかない。
「うん、なんとなく元気になった」
「オーケー」
なにかスイッチの入った春奈といっしょに、ふたたび歩きだす。
「ダンス部のほうは、どんな感じ?」
「だいぶ仕上がってる。まあ、問題がないわけじゃないけどね」
「問題?」
「最近転校してきた一年生が、中途で入部してきたんだけど──」
詩織という名の後輩は、どうやら、ものすごく上手いらしい。エース級の実力があり、大会で良い成績を残すためならば、メンバーチェンジもありうるという。
苦労をともにしてきた仲間ならば、それもいい。しかし、中途入部の一年生を、誰が快く祝福できる? 理屈はわかっても、感情が追いつかなければ、軋轢が生まれるのも必然だろう。
「性格は?」
「いい子だよ。いい子なんだけど……」
「だけど?」
「めちゃくちゃ可愛いんだよね」
春奈の表情が曇っている。
もうすでに、ダンス部内でなにかあったのかもしれない。
「恋人の応援にきた先輩の彼氏が、勝手に一目惚れしたとか?」
「ビンゴ」
なんというベタな展開だろう。ドロドロの展開にこそならなかったそうだが、軋轢というか、亀裂が生じていそうだ。
「それだけ可愛いわけだ」
「興味ある?」
「ないといえば嘘になるが──」
後方から、なにかが勢いよく走ってくる気配に気づいて、振り返った。
同じ制服を着た女子生徒が走ってくる。
その前に、白い猫が走っている。
「あっ、詩織」
春奈のつぶやきで噂の後輩と知る。
たしかに可愛い一年生の女子が、トーストをくわえながら走っている。
そんな彼女の少し前を、シシャモらしき魚をくわえた、白い猫が走っている。
近づいてくる。
白猫が、横を駆けぬける。
「ん~~!!」
ダンス部の先輩である春奈に、どうやら挨拶をしたらしい。
トーストをくわえた後輩女子は、そのまま白猫を追いかけて走り去った。
「…………えぇ、なにいまの? ……達也? ちょっと、達也!?」
気がつけば動いていた。
春奈に呼びとめられても追いかけていた。
なんのために?
わからない。
わからないが、あの後輩女子を止めるために、走らねばならない気がした。




