弍日目 苦しみの絆
やはり想像していた通りになった。
学校へ登校し教室へと入った途端、黒板には相合傘で「細川」と「笠原」という文字が刻まれている。そして自分の机へと向かうと、机にはチョークで「死ね」や「キモイ」など暴言が乱雑に書かれている。まぁ、あれだけのことを大袈裟にしてしまったのだから、その噂が広まればこういう嫌がらせが起こるのもほぼ確定事項だ。
カバンを机の横にかけると蒼生は教室の窓側に掛けてある雑巾を手に取って、水道の方へと向かうために教室を出る。その光景を横目に1部の男子達がくすくすと笑いを漏らす。
思えばこんなに分かりやすくいじめるなど今まで無かった。今まではなんというか陰湿で、琴音さんをいじめる時も裏でコソコソとという感じだったのに、何故ここまで表に出てきたのだろうか。表に出てくればバレやすくなることを分かっているはずなのに。
蒼生は階段を降りて2階と1階の間に位置している水道に着き、冷水で雑巾を濡らし始める。すると、隣に見覚えのある女子が蛇口をひねり手を洗い始める。
「どうしたのさ、雑巾なんか濡らしちゃって。」
その声は優しく温かみを持った琴音さんの声ではなかった。冷たく、なんだか人を軽蔑しているように感じる。そんな声だ。だが、わざわざ自分から話しかけてくるだなんて――
「珍しいな。それに、君が僕に心配をかけてくるなんてことも珍しい。どういう風の吹き回しだよ、丸山葵さん。」
――丸山 葵。
僕と夢翔のもう1人の幼なじみだ。
出会ったきっかけはまたもやあの公園で、幼き頃に僕と夢翔が遊んでいる時に出会って、いつの間にか仲良くなっていたらしい。
その後は小中と同じ学校に入り、現在は琴音さんをいじめていた2人と同じクラスに所属している。
なぜここでその2人のことを出したかと言うと、実はこの葵という人物はその2人ととても仲が良く、よく話している所も見たことがある。だからあの時二人に見覚えがあったのだ。なので琴音さんのいじめ問題を解決するためには、この人物の協力が必要だと踏んでいる。ちょうど今日、話し合うための約束を取り付けて放課後辺りにその事を話そうとしていたので、タイミングが良かった。
「いきなりフルネーム呼びとかやめてよー。気持ち悪い。私たちは昔からの幼なじみでしょ?」
「そっちもいきなり悪口かよ。ほんとにお前は変わってないよな。」
――いや、変わった。
葵という人物はまるで白から黒へと変化したように変わった。昔は声も優しくて温かみがあって、誰よりも思いやりのある人だった。そう、まるで琴音さんのように。
しかし、優しさや思いやりがあるということが逆に男子だけには態度が違うと思われてしまい、小学生の頃に酷いいじめにあった。今思えば、当時男子に人気があった葵に嫉妬をし、蹴落とそうとしていたのではないかと思っている。
そして今はその優しさ、その温もり、全てをなくしてしまった。いや、消されてしまったのだ。あの時に·····全てを。
「あ、今日話したいことあるから、放課後に屋上前の階段まで来てくれない?」
「放課後か。もちろんいいよ。それにしても、葵が話したいとか本当に珍しいことを言うな。今日は雪でも降るんじゃないのか?」
「うっさい!夏なんだから雪が降る訳ないでしょ?いいから来てよね·····。」
葵はそう言い残すと急いだような感じで階段を駆け上がって去っていった。
蒼生はそういう意味で言ったわけじゃないんだけどなと思いながら、雑巾を絞りきり階段を昇る。
これは言っていなかったことなのだが、実は僕と夢翔と葵は越境進学というものでこの中学校へと入学してきている。
越境進学というのは普通は区間で決められた学校へと進学しなければいけないのだが、その学校へは進学せず、区間をとびこえて違う学校へと進学するという制度である。
僕らはその制度を使って、あのクソみたいな小学校の同級生と違う学校に進学することに成功したのだ。よって、この学校には僕らをいじめてきた奴らはいない。いないはずなのだが、やはりどこに行っても同じらしい。
蒼生が教室まで戻るとまたあの男子達がくすくすと笑っているのがみえる。しかし、今度は笑っている目の矛先が違う。
教室の前方。見覚えのある後ろ姿。よく見ると、その人の机にも同じようにチョークで暴言を書かれている。
「お、あいつが帰ってきたぞ。惨めな姿だなぁ。」
帰ってきた蒼生に気づき、笑いの矛先が蒼生へと変わる。
笑っているのに鋭い目。まるでナイフのような目が僕らを突き刺してくる。そして、その目から放たれたナイフが一つ一つちゃんと痛くて、放たれたナイフによって切り刻まれた体は再起不可能な状況まで追い込まれてしまう。過去の僕らも幾度も追い込まれた。
――しかし、今は違う。
僕は変わったのだ。いや、変わらなければならないのだ。琴音さんのために。この世の中を変えるために。だから·····。
「·····琴音さん、ちょっと話があるからきてもらってもいい?」
蒼生はそう言うと琴音の方へと近寄り腕を引っ張って、笑いを背に受けながらも教室の外へと出る。
「ちょっと!どこへ行くの!?」
「まぁ着いてきて!」
蒼生と琴音、2人の影は廊下の奥へと消えた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
授業終了を知らせる最後のチャイムが鳴る。
琴音さんを連れ出した理由は特になかった。どこかに行きたかった訳でもないし、何かを話そうと思っていた訳でもない。ただ、あのままの空間に居続けたら危険だと僕が判断したからである。
だがしかし、ずっとその空間から逃げられるわけもなかった。授業始めのチャイムが鳴ってもなお学校内をグルグル回っていた僕らは、捜索に当たっていた先生に即見つかってしまい、強制的に元の教室へと戻された。
教室に戻った時には既に黒板の落書きは消されており、机に書いてあったチョークの暴言もきれいさっぱり消されていた。多分、先生にバレることを避けるために自分たちで消したのだと思われる。立ち回りがとてもうまい。ただ、人を嘲笑うかのような笑いだけはどうしても収まっていなかったが。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
授業が全て終わった。
蒼生が教室から去ろうと席を立つと右肩に鈍い衝撃が走り、終始バカにして嘲笑っていた集団が「ごめーん」とわざとらしく謝る。
僕は過去に多くのいじめや嫌がらせを経験してきてこういうのにも慣れてしまっていたが、こういうわざとらしい謝り方をされるのは慣れていても軽めに言って死ねと思ってしまう。
蒼生はその感情を抑えつつも、屋上前の階段まで向かう。一体とこで話し合うつもりなのだろうか。確か屋上へのドアには立ち入り禁止いう張り紙と楔のようなものがまとわりついていたような気がするのだが。
「遅い。一体何してたのさ。」
「何もしてないよ。っていうかそれは僕が遅いんじゃなくて葵が早いだけだよ。」
「·····まぁどうでもいいけど。とりあえず、屋上に行くわよ。」
その言葉に蒼生は聞き間違えたかと思って、「は?屋上?」と問いかける。
屋上へ向かうドアにはやはり立ち入り禁止の紙と楔が塞いでおり、明らかに入ることが出来ない。
「ほら、よく楔を見てみ?ちなみにこれ私たちがやったわけじゃないから。」
その言葉に促され、蒼生は扉にまとわりつく楔に向けて視線を移す。よく見ると楔の一部が切れているのが分かる。なぜこの学校はこんなにもガバガバ警備なのか·····。
「さぁ、屋上に行くよ。ほらほら、先に入って!」
葵が扉を開け、所々に張られている楔を避けながら屋上へと足を踏み入れる。
黒く汚れた床、錆び付いたフェンス。どうやら屋上に関しては学校の職員たちも手をつけていないらしい。
「すごい景色だねぇ」
葵がフェンス越しに外を眺めてそう言う。
たかが学校の屋上だと思って舐めていたが、実際来てみるとだいたい街は一望できるのでびっくりする。これだけ一望できれば、昔からここの地域で伝統的に行われている夏祭りの花火も余裕で見えそうだ。あの祭りは地域でやっているものなので、陣取り合戦がかなり激しいからいつも困る。
それにしても、ここまで来て話すこととは一体何なのだろうか。
すると葵は蒼生に背を向けたまま重い口を開き始める。
「·····ねぇ、蒼生。突然こんなこと聞いてごめん。蒼生はさ、どうすればこの世界を変えられると思う?」
まさかの質問に蒼生は少々驚きながらも、そうだねと言って顔を下に向ける。
この世界·····。
いじめという存在を否定し続けるこの世界。人は権力に脅え助けることすら出来ず、見てはいけないものと捉え自らの視界を奪い、その現実に対して見て見ぬふりをする。
僕らはこの世界を変えたかった。こんなクソみたいな世界を変えたかった。変えたかったんだ。でも、心の中のどこかでもう一人の自分が語りかけてくるのだ。
――本当はもう、分かってんだろ。
現実はそう上手くは行かない。この世界は変えられない。こんな小さな1人の力じゃどうしようも出来ない、と。
それでも1人でも多くこの世界から救えたら、数少ない味方になってあげたらと思って行動してきた。その行動が本当に正しい事なのかどうかを分からぬまま。
「·····私はね、全てを壊せば変えられると思うの。破壊から生まれるものってあるでしょ?私はそれをめざしているの。」
「破壊·····。それはどういうこと?この間違った世界を破壊するってことか?」
すると葵はくるっと蒼生の方へと体を向けてその質問に答え始める。
「んー、ちょっと違うかな。目的はそうだよ。ただ、それにはあるやり方があるの。まず、邪魔なやつを排除する。こういう感じでねッ!」
――ッ!?
その瞬間、葵の蹴りが蒼生の腹へと直撃し、屋上の壁へと勢いよく打ち付けられ倒れる。
「痛ったっ!いきなり何すんだよ!お前、今自分が何をしたのか分かっているのか?」
「うん、分かってるよ?自分のしていることくらい。あーあ、君があの子を守ろうとしなければこんなことされなくても済んだのにね·····。悪いけど邪魔だから、排除させてもらうよ。」
邪魔·····?排除·····?
なぜ僕を邪魔者だと言うのだ。僕らはあの時この世界の現状を知り、この世界を変えようと誓った仲間だったじゃないか。共にこの世界を変えようと力を合わせていたじゃないか。なのに何故·····。
「――何故、琴音さんをいじめる。何故、机にであんなことを書いた·····。」
「あーバレちゃった?そうだよ。私が君たちの机にチョークで書いた犯人。よく分かったね。」
やはりそうだった。あの時、水道で葵と出会った時。あの時の葵の手はなぜかチョークにまみれていた。そして教室に来た時には琴音さんの机には書かれていなかったのに、水道から帰ってきた時には書かれていた。
まさかあの葵がとは思っていたが、今の行動でそれが確信に変わった。やはりこいつが犯人だった·····。
「·····何故だ。なぜこんな真似をする。お前は、仲間じゃなかったのか!」
蒼生がそう言うと葵はさらにもう1発蹴りを入れる。
「あぁ、もうそういうのやめたんだよね。仲間?馬鹿じゃないの?私は1度もあなたのことを仲間だと思ったことはないわ。」
「ふざけるな·····。じゃああの時の誓いはなかったってことなのかよ。どうしてそんなに変わってしまったんだ!お前はもっと·····。」
「うるさい!私のことをわかった気にならないで!」
葵はそう言うと倒れた蒼生に向かって今度は数回にわたって蹴りを入れる。
意識が徐々に遠ざかっていく。それと同時に生暖かい血が臓器の流れを逆走し、中から込み上げてくる感じがする。そろそろまずいか。
「·····なんでそんなやり方しか出来ないんだ。暴力だけでは何も解決しない。それはお前も分かっているはずだろ。」
「私からしてみれば蒼生のやり方も滑稽だよ。なんで自分を犠牲にしてまで他の人を守るの?自分を犠牲にするくらいだったら、その問題自体を破壊するのがあってると思わない?」
「自分を犠牲に·····。確かに言っているとこはあっている。でも、だからといって暴力で全てを解決するなんて、それは解決にならない。そんな馬鹿げた理由で許されるはずがない!」
蒼生は目の前に立つ葵に向かって強く、願いも込めて言い放つ。
葵のしようとしていることの大体は今までの発言からおおよその予想がつく。要は下のやつらを蹴散らして自分の権力を高め、その上でカースト上層部の奴らも一人一人潰していくというやり方。それがこの人の言う破壊というやり方だ。しかし、葵の目標を達成する際に邪魔となったのは僕の存在だった。
琴音さんを守る者と破壊をする者。それは言わば正義のヒーローと悪役のように分かり合えることの無い存在。しかしどちらもやり方が相対するだけで、この世界のためだと思って行動をしている。どちらもヒーローなのだ。ならば、果たして正義というものは一体何なのか。
ふと葵の方へと目を向けると、葵は両手を強く握りしめてその場で突っ立っている。
蒼生は逃げるならば今しかないと思い、壁に体を押し付けながらゆっくりとその場から立つ。そして壁をつたいながらゆっくりと屋上から去った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
誰もいなくなった屋上には爽やかな風が吹き抜ける。
私はふと誓い合ったあの日のことを思い出していた。
あれは小学4年生の頃。私はカースト上層部の女子に目をつけられてしまい、男子だけには態度が違うと噂を流されたことがきっかけとなりいじめにあっていた。
いつも登校する度に机の上には花が刺さった花瓶が置いてあったり、さらに事実ではない噂をクラスや学年全体に流されたり、ひどい時には階段から突き落とされたりしたこともあった。
そして自分の所属していたグループの人達からは話しかけても無視をされ、仲の良かった男子達にも気持ち悪いから近づくなとか言われたり、最後には男子から暴力を受けるなどとかいうこともあった。四面楚歌。私の周りにはもう味方してくれる人はいなくなってしまったのだ。
そんな絶望的な日々を送っていたある日。死にたいと願い始めていた私の目の前に1人の少年が救いの手をのべた。大丈夫か葵。そう言葉を投げかけてくれたのは幼なじみであった細川蒼生という人物であった。
そしてその時、蒼生は私とある誓いを立てた。この学校から、世の中からいじめを共に無くそう、と。
蒼生はまだあの頃は私よりも小さくて、腕も細くてガリガリで、僕が守るよと言われた時は心配で心配で仕方がなかった。
だけど、蒼生は本当に私を守ってくれた。救ってくれた。蒼生は私がいじめられている時の動画を撮り、それを証拠に先生へと報告し、いじめていた人達は言い逃れが出来なくなり、私からいじめといういじめは無くなった。蒼生は力では勝てないと判断し、知力で戦ったのだ。そのいじめが解決したのは始まってからおよそ一年後の出来事だった。
これで全て終わったと思っていた。平和になったと思っていた。だけどそれは見せかけの平和だった。
ある日、私が家へ帰ろうと校門前まで来ると体育館裏で何やら騒ぎが起こっているのに気づいた。私は気づかれないようにこっそりとその場を覗くと、その惨事に私は絶望した。
血だらけで倒れる蒼生の姿。そして蒼生を蹴り続ける男子4人がその場を囲っている。
私はその時全てを知った。蒼生は自分を犠牲にしていじめを止めていたのだ。確かに、証拠動画を撮っていじめを無くすのは賢いやり方ではあった。しかし、そのせいで自分にヘイトが向きいじめられてしまっていた。
私はその場を静かに離れた。自分のせいで蒼生がいじめられているなんて思いたくなかった。顔向けができなかった。いじめは無くならなかった。その気持ちに耐えられず、私はその場から逃げたのだ。
それから今現在まで蒼生とはほとんど話すことは無かった。いや、私が避けるようになっていたのだ。もう関わらまいと、二度と迷惑をかけまいと。
だから本当はこんなことをしたくはなかった。命の恩人であり、親友である蒼生には。したくなかったのに·····。
「あと少しだったのになぁ。お前、なんであそこでトドメを刺さなかった?」
「れ、玲於!?なんでこんな所に!」
突然目の前に現れたのは制服のYシャツ姿の人物――浅間玲於。彼は小学校時代の頃に蒼生と仲の良かった人物だ。しかしなぜ違う学校のこいつがこの学校にいるんだ。
「あー、実はサッカーの事でこの学校に用事があってね。そんでついでに屋上にいる君の様子をちょっと覗いていこうと思ってしばらく見させていただいたよ。」
「そういう事ね·····。ねぇ玲於。もうこういうの止めない?私、やっぱり蒼生のことなんて傷つけたくない。これ以上迷惑をかけたくないの。」
葵が涙を流しながら玲於に向かってお願いするように訴える。しかし、その言葉を聞いた玲於はなんの反応もせず、葵の目の前まで近づき口を開く。
「何を言ってるんだよ葵。だから前も言ったじゃないか。また迷惑をかけたくないんだよね?だったら二度とそんなことが起こらないように蒼生を痛めつけて、琴音さんから身を引かせるんだ。そうすればお前は琴音さんを潰すことが出来て、いじめ自体を無くすための第1歩となる。まさにウィンウィンでしょ?」
「そう·····なのかな。私、もうわかんないよ。どうすればいじめはなくなるの?どうすれば蒼生を傷つけずにいられるの?もう死にたい。もう分からないんだよ!!」
葵の目は涙に溺れ、叫びと共に崩れ落ちる。玲於はその崩れ落ちる体をとっさに掴んで、自分の体へと寄りかからせる。
「そうだよね。分からないよね。だって君は本当の友達がいないんだもん。僕と同じように·····。だから全て僕に身を委ねればいいんだ。君は間違ってない。僕がそばにいてやる。」
その言葉を聞いた葵は泣きながらも深く頷く。
――泣いている葵を抱きしめる少年。しかし、その少年の顔は泣く葵とは相対して笑っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――痛ってぇ。なんで僕がこんな目に遭わなければいけないんだ。くそっ!
蒼生は負傷した体を支えるように廊下の手すりを掴みながらゆっくりと降りる。
葵がなぜ裏切ったのか。葵がなぜあんな行動を取ったのか。その確かな理由は僕にも分からない。しかし、予測ではあるが何となくその理由が分かるような気がするのだ。
この学校のカーストを手っ取り早く無くす方法。それは自らの手でそのカーストを破壊することだ。そのやり方はカースト制度をだるま落としと置き換えイメージすると分かりやすいだろう。下の段から崩していって、最後には全て崩れる。それと同じだ。
しかし葵には元々人一倍の良心があり、その良心が葵の道を塞いだ。つまり、良心が邪魔をしてだるま落としが出来ないのだ。
――だから葵は良心を殺した。
堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて堕ちて·····。全ての感情を殺してカースト制度を根絶しようと努力をした。
まずは自分の地位を高めるために下の奴らを蹴散らして上層部へと昇格し、上層部に昇格した後は上層部一軍である人達を一人一人潰していく。まさに下克上。学生時代という名の戦国時代だ。
葵のそのやり方は確かに間違ってはいない。
かの有名な戦国武将である織田信長は自分の思い描いた世の中を作るために足利家を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした。
それと同じように下層部を蹴散らして上層部へと成り上がり、更には上層部までもを潰すというやり方でいけば、理論上はカースト制度を無くせるはずだ。
しかし葵は気づいてしまったのだ。カーストはどう足掻いても無くならないだと。
確かに、自分の周りからはカーストが無くなったかのように見えるかもしれない。なぜなら自分がその頂点に立っているからだ。
では、自分が蹴落とした者たちはどうなるのであろうか。はたして、自分が頂点に立つことでカースト制度が無くなるのであろうか。その答えはNoだ。
なぜなら、自分が恐怖で他人を押しのけてのし上がり、頂点に立つということはすなわちカースト制度に乗っ取ってみんなを押さえつけているのと同じだからだ。
そして、その現実を知った葵はどうすればいいのか分からなくなった。はたしてこのまま進んでいいのか、それともここから退くべきかと。だから僕にあのような質問を最初にふっかけてきたのだ。
まぁ、答えも聞かずにいきなり僕を殴ってきた理由はよく分からなかったが。
蒼生はゆっくりではあるが1段ずつ階段を降り終わり、やっとの思いで校門の前まで歩いた。
すると、校門の前で制服を着た1人の少女が待っているのが視界に入った。
「蒼生くん!大丈夫!?」
その少女――笠原琴音は蒼生の姿を見るや否やすぐさま駆け寄り、腕を自分の肩に通す。
「こ、琴音さん?なんでここにいるの?」
「え·····。そ、そんなことよりどうしたのさこの怪我!」
蒼生は怪我のことを指摘されてとっさに怪我した部分を隠すために左手をかざそうとする。が、その瞬間腹から肩にかけて激痛が走り、仕方がなく隠すのを断念する。
「あー、これ実は夢翔とサッカーをしてて、ちょっと転んじゃったんだよね。」
――また嘘をついてしまった。
だが、人に蹴られた。ましてや親友であった葵に蹴られたと言ったら、きっと琴音さんに心配をかけてしまう。だからここは·····。
「――うそ。」
「――え、」
予想もしていなかったその言葉に蒼生は思わず固まる。
「蒼生くんは嘘ついてる。だってその怪我の量、どう見てもサッカーで転んだ怪我の量じゃないもん。」
その言葉を聞いて蒼生は自分の姿を再び見返す。よく見ると足だけではなく、腕や肘あたりも血が滲み出しており、は靴の足跡汚れ、蹴られた跡が所々に付着している。
「――俺ってこんなにひどい姿だったんだな。」
ここまできて自分の酷い姿にやっと気づき、それと同時にもう誤魔化しが効かないことにも気づく。
「ねぇ、なにがあったのか私に話してみて。私もあなたの助けになりたいの。」
琴音さんは優しすぎる。
なぜ自分がいじめられているのにも関わらず他人にここまで優しくできるのだろうか。普通ならば自分のことで精一杯なはずなのに。
――なんで·····どうして·····
その時、地面に一滴の水が落ちた。
雨か。それとも汗が下垂れたのか·····。いいや、これはもう間違いない。
「蒼生くん。もう我慢しなくていいんだよ。もう、いいんだよ。」
「うっ·····うわぁぁぁぁぁあ!!」
蒼生は泣きながら地面に崩れ落ちる。それを覆うかのように琴音がしゃがんで蒼生の体を抱きしめる。
もう我慢しなくてもいい。
その言葉は僕が言うはずの言葉だったのに。
泣いている琴音さんを抱きしめる。
それは僕がしようと思っていた事だったのに。
泣きながら叫ぶ僕。それをうんうんと頷きながら頭を撫でる琴音さん。
男なのに、僕がするべきことだったのに、本当に本当にかっこ悪い。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ごめんね。あんなに泣き叫んじゃって。」
蒼生が並行して歩く琴音に向かって謝罪をする。
今思えばあれは本当に恥ずかしかった。まるで転んで泣きさげぶ子供とそれをなだめる母親のようだ。今までは僕が琴音さんを助けようとしていたのに、まさか琴音さんに救われるなんて。本当に恥ずかしい。
「ううん、いいんだよ。私も蒼生くんの言葉に救われたから·····。だからその、恩返しっていうか。」
――恩返し。
そんな綺麗な言葉が世の中に存在するなんて思いもしなかった。
この世の中は残酷で非情で、自分のためならば人のことを簡単に裏切るような者が渦巻く、まさに地獄のような世界だ。
僕はその地獄を痛いほど見てきた。いじめられている人を救っても、救われた後は自分の地位をのしあげるために救った人を攻撃し始める。まさに恩を仇で返すというのはこのことだ。
しかし、そんな世界の片隅にはちゃんと恩返しという言葉が存在したのだ。もうこの世の中から失われたと思っていたものがこんな近くにあっただなんて。
「琴音さんは優しいね。お世辞でも嬉しいよ。ありがとう。」
「ううん、お世辞じゃないよ!私は本当に蒼生くんの言葉で救われたの。行動で救われたの。本当に、こちらこそありがとう。」
琴音はそう言うと蒼生の顔に向かって天使のような微笑みを向ける。
僕はもしかしたらその言葉を待っていたのかもしれない。僕はもしかしたらその時を待っていたのかもしれない。いつか報われると、いつか実を結ぶと信じていながら。
「――ねぇ、蒼生くん。急で悪いんだけど、実は1つお願いがあるんだ。」
「ん?どんなお願い?」
「あっ、あのー。唐突で悪いんだけど·····。えっと·····。わ、私と夏祭りに行ってくれませんか!!!」
突如頭を下げて言い放たれたその少女の言葉はとても衝撃的なものであった。
その夏祭りというのはここのすぐ近くにある神社とその周辺の商店街などが力を合わせて作り上げている祭りで、その祭りのフィニッシュには花火も打ち上がるという伝統的に行われている素晴らしい祭りだ。
そして驚くべきはそこから。なんと、そんな素晴らしい夏祭りにこの僕が誘われているというのだ。
――これは夢なのではないのか?
そう思った蒼生は夢か現実かを確かめるために頬を引っ張る。
ちゃんと痛い。ちゃんとした現実だ。しかしその現実を知った瞬間、少し落胆をしてしまった自分もいた。なぜなら葵の件があったので、そのせいでもう夢でもいいと思っていた自分もいたからだ。この現実に素直に喜べなくてごめん、琴音さん。
「ダメ·····かな?」
「えっ!ぜ、全然いいよ!!行く行く!行きます!」
その言葉を聞いた琴音はよかったと言って胸を撫で下ろす。
異性を誘うというのは本当に緊張するし、苦労するよな。自分にもらめちゃくちゃその気持ちがわかる。
「じゃあ、明日の夕方頃に商店街前で集合ね。」
「えっ、明日!?夏祭りって明日だっけ?」
「そうだよー!なんで知らないのさ。あ、知らないからってもう約束したことは取り返せないからね!」
いや、明日あるということは別にいいんだ。ただ、少し心の準備ができる時間が無いことが問題だ。
兎にも角にも、過去の自分よ朗報だ!明日は好きな人と夏祭り。いや、これはもしや夏祭りデートになるのではないか?
あぁ!そんなことばかり考えていると胸がドキドキして、もうこの場所から逃げ出したくなる。
「――って乙女か僕はッ!」
「あ、一応私のメールアドレス渡しとくね。じゃあ、そろそろ時間だから早く帰らないと。また明日ね。」
蒼生はそう言われてメールアドレスを書いた紙を渡される。
夕焼けを背にした2人の背中。
蒼生と琴音の大切な一日が幕を閉じた。