壱日目 ラムネ
校内に大きな鐘の音が響く。
この音を合図に、人はあらゆる所へと分散し、各グループの中へと消えていく。固体から気体へと状態変化する構造を簡単に説明する材料として使われるのもよく分かる。
今までのように人だけが見えていればまだ良かったのだが、数字が見えるようになってからはその数字が目障りに感じてイライラしてくる。特に昼休みの時間帯は人が次々と目の前を通るので、とても目障りに感じる。
とりあえず、昨日の話を整理する。
まず昨日分かったことは、米印は日にちを表すという事だ。そして、このことが分かったことにより、琴音さんは7日しか生きれないということも同じく分かった。だが、ここからが重要だ。
なぜ、琴音さんはあと7日しか時間が残されていないのか。それを突き止めなくては話にならない。可能性としては沢山ある。物騒ではあるが、病気、事故、殺人などなどである。
しかし、僕にはひとつの問題があった。それは、まだ琴音さんと1度も話したことがないということだ。
これは死因を探る者としてはものすごい痛手だ。少なくとも、琴音さんが静かな人ということも関係あるのだが、この問題の主な原因は好きな人を目の前にすると緊張して話せないということからである。だが、そんなことをしている余裕はない。そこで、僕は1日ずつ目標を定めた。
その初日。今日の目標というのはずばり、琴音さんと話をすることである。ついでに人間関係の方にも少しずつ探りを入れていきたい。
って言っても、いきなり知らない人が話しかけてもビックリしないだろうか。そもそもどうやって話しかければいいんだ。そうだ。そう言えば、そこの当たりはまだ考えてなかった。あぁ、どうすればいいんだ!
「どうした?なに頭抱えて悩んでるんだ?」
その声を聞いて一瞬で誰か分かった。奇跡的に兄弟のような関係になり、奇跡的に同じクラスになり、奇跡的に馬鹿げた話を信じてくれた夢翔くんだ。
「夢翔くんならば、奇跡的に会話もしてくれるよね。」
「は?何言ってんだ?琴音さんとは話はできたのか?まさか、緊張して話せないとか言うんじゃないだろうな?」
そう問われ、蒼生は何も言い返せない。
やはり、兄弟のように接してきた人にはその事すらもお見通しなのだ。だが、逆に言えば自分も夢翔のことは大体わかる。つまり、僕が夢翔が何をするためにここへやってきたのかもお見通しなのである。
「では、夢翔殿。我に話せるようになるための策をくだされ。」
「うむ、よかろう。では拙者が話題を作り上げますので、しばしお待ちを。」
そう言い放ち、夢翔は琴音さんの方へと消える。やはり、解決策を持っていたようだ。っていうか、今の会話は完全に厨二病だったような気がするのだが、まぁそこはスルーして·····。
「蒼生ならこれわかるかもな·····。なぁ蒼生ー!この漢字ってなんて読むんだー?」
夢翔が机の上に置いてある本を指しながら蒼生へと問いかける。
蒼生は漢字という言葉を聞き、「どれどれ〜?」と言って自慢げに夢翔の元へと近づく。
実は数学が苦手という代わりと言ってはなんだが、僕は国語全般が得意なのだ。そして、漢字もかなり得意な分野に入る。だから、ここは夢翔に頭いいアピールを出来るチャンスなのである。
「さぁ、どの漢字ですかな?僕に任せなさい。」
「この漢字が分からないらしいんだが、なんて読むか分かるか?」
そこに書かれていたのは雪割草という漢字。このような花や草の名前は一般の人ならばわからない人も多いだろう。だが、僕には分かる。
「この植物の名前は雪割草って言うんだ。僕は小学校の低学年まで花が好きだったから間違いないと思う。」
これはあまり公表したことがなかったが、僕は幼い頃から小学校低学年にかけて花が大好きだったのだ。
それにしても、「枯れた雪割草」というこの一文は多分花言葉の意味も関係させているように見える。花言葉を使って登場人物の性格などを表す小説をいくつか見たことがある。とすると、この文章は何を表しているのだろうか。あれ、雪割草の花言葉ってなんだっけ。
「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました。」
突如耳に響く澄み渡った声。その声を聞いた瞬間、蒼生は固まった。
突然聞こえたその声は、先程聞いた奇跡の人からの声ではない全くの別人。頭いいアピールをしようと思って夢中になっていたから全然気がつかなかったが、この机の位置や椅子に座るこの姿。この人は間違いない。
「確か、話したことなかったよね·····?じゃあ自己紹介します!私の名前は笠原 琴音です。よろしくです。」
「あ、僕は細川蒼生。そして、こっちの人は真田夢翔。これからよろしくね。」
「こっちの人ってモノ扱いすんじゃねぇー!扱い雑すぎるだろ!!」
琴音はその漫才のような様子を見て、「うん!よろしく」と少々笑いながら言葉を返す。
なぜ話しかけていたのが琴音さんだったことを最初に気づかなかったのだろう。夢翔に琴音さんと話せるようになるために作戦を実行していてくれてたのに、すっかり忘れていた。あんな変な自慢顔をさらけ出して情けない。
それにしても、やっぱりこの人の笑顔は最高だ。普段は静かなのであまり笑うことは無いが、ふとした時に起こるこの笑顔がとても可愛い。って、こんな気持ち悪いことを考えている余裕はない。
琴音さんの上に浮かぶカウントダウンへの数字。そこにはハッキリ「6※」と書かれている。つまり、今日を合わせてあと6日しか生きられない。早く、死因となるような原因を突き止めなければならない。
「あ、琴音さん。そう言えば、蒼生が放課後話したいことがあるらしいんで一緒に帰ってあげてください。」
「はぁ!?ちょっお前何を言ってるんだっ·····。」
「まぁいいだろ?俺達には時間が無いんだ。あと、大事な話があるから今日の夜に電話するわ。」
夢翔は蒼生に小声で伝えたあと、「じゃあ、よろしくお願いします!」と琴音に言ってその場から立ち去る。
取り残された二人の間には少し沈黙が流れたが、その沈黙を打ち破るかのように昼休み終了の予鈴が鳴る。
一応話の流れとしては僕が誘った形になっているのだから、このまま僕が口を開かない訳にはいかない。それに、夢翔がせっかく作ってくれたチャンスだ。それを潰してたまるか。
でも、こうやって女子と放課後話す予定とか、なんかデートを誘うみたいで緊張するな。
「·····んじゃあ今日の放課後に校門集合でいいかな?」
「え?うん、いいよ。じゃあ今日の放課後ね。」
蒼生はそのあっさりとした返事を聞いて、「え?」という疑問の言葉が脳内であちこち再生される。
2人で帰ろうと誘ったらこんなあっさりと承諾してくれるものなのか?僕の恋愛経験が少ないだけなのか?
まぁ、とりあえずは琴音さんに近づくきっかけが作れたのだから良しとしよう。問題はここからだ。
――こうして校内に授業開始の本鈴が響いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――琴音さん遅いなぁ。
蒼生は放課後に待ち合わせをしている琴音を校門で待っていた。だが、授業が終わってから30分以上も経っているのにも関わらず、一向に来る気配がない。
――さすがに探しに行った方がいいか。
蒼生はそう思い、再び学校の方へと歩みを進める。
しかし、どうして来ないのだろうか。もしかしたら、一緒に帰ってる所を他の生徒に見られたくないから時間を遅めているのか·····。いや、琴音さんは礼儀正しい。そんなことするはずがない。
確か部活も入っていなかったはずだし、これだけ遅いのは確実に何かがあったとしか思えない。
蒼生は琴音さんのことを心配しながらも、とりあえず教室へと向かい、覗いてみる。しかし教室には誰もおらず、さっきまで誰かがいた気配もない。
――これで行くあてが無くなったな。
やっぱりいきなり話しかけてきた初見の人に放課後用があるから帰り話そうなんて言われたらさすがに引くよな。今日はもう帰って、明日ちゃんと謝ろう。
蒼生が帰ろうと教室から廊下を通り、階段へと差し掛かったその時、第2校舎へと続く廊下の方向から女子の声が響いてるのに気がつく。
蒼生はもしかしたら琴音さんがいるかもしれないと思い、第2校舎の方へと歩みを進める。
すると徐々に声が大きくなり、第2校舎の廊下の奥で3人の女子の姿が目に入る。その中琴音さんが含まれていて、他2人はどこかで見たことがある顔だ、確か隣のクラスだった気がする。しかし、なにか様子がおかしい。
第2校舎はパソコン室や工作室、美術室や音楽室などのいわゆる副教科のために使う教室がそこには集められている。
だから余程のことがない限りは放課後にはあまり人が立ち入らないはずなのだが、こんなところでわざわざ話すなんて明らかに様子がおかしいと思ったのだ。
蒼生は少し様子を見ようと3人にバレぬように壁へと姿を隠す。
「それで、話って言うのはなんですか?」
「もう勘づいてるでしょ〜?実はさ、またうちの母親が病気になっちゃってさ〜。でも、前も言った通りお金が無いわけですよ。」
「だから、私がまたお金を払えと·····。そういうことですね。」
ポニーテールの女子が「そうそう。」と言って話を続ける。どうやら、ポニーテールの女子は前回もお金を借りている感じらしい。
「だからぁ〜、3万くらいでいいから貸してくれないかな?おねが〜い。もちろん、従わなかったら·····分かってるよね?」
ポニーテールの女子がそう言うと、もう1人のお団子ヘアーをした女子が琴音さんに向かってスマホの画面を見せる。どうやら相手のスマホに琴音さんの弱みを握られているらしい。
だが、その画面を見た琴音さんの顔色は何も変わらず、琴音さんは再び口を開きはじめる。
「それはお断りします。何度も言っていますが、返すつもりのない人に貸す訳にはいきません。」
「ふ〜ん。そんな口答えをしていいんだ〜?私があなたの言うことをはいはい分かりましたって素直に聞くと思う?」
ポニーテールの女子がそう言うと、琴音さんの髪の毛を手で掴み、そのまま頭を地面へと擦り付けた。すると、もう1人のお団子女子が押さえつけられた頭へと上履きを履いた足で踏みつける。
これは酷すぎる。これは明らかにいじめだ。早く助けなければ。
しかし、どうやって助ける。とにかくこの場から逃す必要がある。ならば、ここから一直線に走って琴音さんを連れ去るしかない。
――早く!行かなければ!行かなければ·····。
あれ、何故だ。なぜ足が動かない!
目の前には明らかないじめの現場。そしていじめられる好きな人。僕は彼女を救おうと誓ったのに·····。何故だ·····。
こんな光景はもう二度と見たくはないのに·····。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
あれは、小学校5年生の頃。僕には夢翔とは別の親友と呼べる友達がいた。その名前は浅間 玲於。僕らはゲーム好きという共通の話題によって仲良くなり、その後はよく2人でゲームをしたり、遊んだりしていたのを覚えている。しかし、ある時事件が起きた。
それはとある日の理科の実験授業でのこと。玲於と同じ班になった男子の1人が友達と話したりしていて全く実験に参加せず、その姿を見た玲於がその男子に文句を言ったことから事の発端が始まった。
その男子は学校のカースト制で言うといわゆる上層部の方で、五六人のグループを作っていつも悪さを繰り返していた。そんな男子に文句を言ってしまったことによってそれは喧嘩、いじめへと発展し、それはもう酷かった。
時にはトイレの中に閉じ込められた上に蹴りを何回も入れられたり、ものを隠されたり、金を要求されたりもした。それを僕は知っていながらも、起こっていることを見て見ぬ振りをして助けもしなかった。自分がいじめられることが怖かったのだ。
そしてある日、僕は玲於にこう言われたんだ。なんで助けてくれないんだ。僕らは親友だと思っていたのに。もう誰も信用しない。お前なんて死んでしまえ、と。
僕はその時思った。所詮僕は自分のことしか考えていない最悪な奴だと。自分の為ならば親友でも犠牲にする最低な奴だと。そしてなぜか勝手に思い込んでいた。僕は権力やいじめには屈しない、正義のヒーローだと。
だからもうこれ以上逃げない。これ以上友達を見捨てたりなんかしない。そう誓ったはずなのに·····。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――足が動かない。
まるで魔法にかかったかのように動かない。あれだけ誓ったはずなのに、いざその時が来たとなると動かない。
僕はやはり臆病者なのか。目の前で起きているこの場から自分だけ逃げてもいいのか。僕は·····。僕は·····!
「僕の彼女に手を出すなぁああ!」
蒼生は大声と共に2人の元へと必死に走って近寄る。そしてその声に驚いて動きを止めた刹那、蒼生は琴音の左手を手に取り、颯爽と第一校舎の方へと駆ける。
遠く、遠く·····。とにかく遠くへ。ただそれだけを考え、ひたすらに走り続ける。
「·····蒼生くん!ここまで来ればもう大丈夫だよ。それに疲れたっ·····」
琴音が自分の手を引っ張りながら走り続ける蒼生に向かって声をかける。すると、その声に蒼生が気づき足を止めた。
「あ、ごめんね!つい本気で走ってしまって·····。」
そう言って繋がった右手を離し、あたりを見渡すと校門が自分の後方へと位置しているのが確認できた。そのことから蒼生はいつの間にか校門まで走ってきていたのだという事を自覚する。
思えば、とにかくあの場から逃げることに夢中で、琴音さんのことを全く考えていなかった。これは勝手な行動をしたことも含めて謝罪しないといけない。
「·····琴音さん、さっきはごめんなさい。僕が勝手な行動を取ってしまって。」
「え?なんで蒼生くんが謝るの?謝るのは私の方だよ。巻き込んでしまってごめんなさい。」
――琴音さんは優しい。
あれだけのことを毎日されて、さぞかし辛い思いをしているに違いない。もし僕だったら不登校になるレベルだ。なのに琴音さんは、いじめられたのは自分が悪いのだと、巻き込ませた自分が悪いのだとそう捉える。琴音さんは優しい、優しすぎるよ。
「それにしても、私のことを彼女呼ばわりしたのはちょっと驚いたかな」
「そ、それはしょうがなかったんだ!とっさに思いついた言葉がそれしかなくて、つい!」
その言葉の何が面白かったのか分からないが、琴音さんは突然くすくすと笑い始める。そして蒼生もその笑いにつられるかのように笑い始める。
もしあの時、自分だけ見て見ぬふりをして逃げていたらどうしていただろうか。そしたらきっと今頃の自分は後悔してるだろう。僕はやっぱり臆病者だと自覚しながら。
人を1人助けられた。好きな人を助けられた。その喜びと嬉しさが僕の胸に染み渡る。
あの時、勇気をだして足を踏み出してよかった。この笑顔を見られてよかった。本当に·····。
「じゃあ行こっか!例の話を聞かせてよ!」
蒼生は琴音に向かって「うん!」と言って頷く。
この時、僕はまた1歩成長できた。そんな気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「んで、話っていうのは何?」
琴音が並行して歩く蒼生に笑顔で問いかける。
そう言えば話をする約束はしていたが、具体的にどのような話をするのかという点は考えていなかった。
とりあえず今日の目的は仲良くなることと、ついでに人間関係の方についても触れることなので、それに沿った話をしなければ何も情報を得られない。あの事実を見てしまった後に人間関係についてを聞くのは少し自分の中で迷いが生じるが、時間が無い。もう聞くしかあるまい。
「·····あのさ。琴音さんってあの人たちになんでいじめられてるの?」
琴音がその言葉を聞いて、笑顔だったその顔が一瞬にして真顔へと変わる。
やはり聞いてはいけない事だったか·····。
やっぱり今日は聞くのをやめて明日にした方がいいかもしれない。いや、ダメだ。僕はもう迷わない。僕がどれだけ周りに嫌われようとも、どれだけ琴音さんに嫌われようとも、必ず救ってみせると決めたから。だから·····。
「ねぇ。蒼生くんはラムネ·····好き?」
突然の質問返しに蒼生は一瞬キョトンとした顔をする。
琴音さんが見る先にはコンビニが位置しており、そこには「まさに青春の味、ラムネ!」というキャッチフレーズと共に新発売を告知する壁紙がコンビニの窓に貼られていた。
「ラムネは好きだよ。」
突然の謎質問返しにまだ動揺しつつも、蒼生は動揺しているのを隠すために冷静を装いながらそう答える。
これも公表をあまりしたことがなかったが、実は僕はラムネがかなり好きだ。ラムネはお祭りがあると必ずと言っていいほど買うし、自分の屋台食べ物ランキングでも3位以内には入るほど好きだ。ちなみに1位は断然わたあめ。しかし、なぜこのタイミングでラムネの話に·····。
「じゃあさ、ちょっとそこのコンビニで買って行こうよ!」
琴音がコンビニを指さしてそう言うと、蒼生は琴音に勢いよく腕を掴まれて、コンビニの中へと連れ込まれる。
コンビニの一番奥。ドリンク売り場の所の下段の方に置いてあるラムネを手に取り、それをレジで1人1本購入する。
お互い片手にラムネを持ちコンビニの外へと出た後、ラムネの蓋を開けてビー玉が落ちたのを確認してからラムネを喉へとゆっくり通す。
やっぱりラムネは美味しい。口の中へとたくさんの気泡が入り込み、その気泡がシュワシュワと音を立てながら弾けて消える。
「これが、青春の味か。」
ところで青春の味ってなんなのだろう。青春というのは人によって様々な解釈をされる。例えば花火をしたら青春、恋愛することが青春、夢を追いかけるその過程こそが青春という人もいる。
しかし、その青春が僕らには分からない。
「·····今日の事なんだけど、心配しなくていいからね。これは私自身の問題でもあるし、元はと言えば私が悪いの。」
そう言って琴音は蒼生の目の前を通り、再び道を歩きだす。
なぜこの世の中は虐められる側にも原因があるという変な理屈に囚われているのだろうか。
友達に相談してもスクールカーストの権力にひれ伏し、誰も味方をしてくれず、先生や親に相談しても虐められた側の問題を先に探し始める。
そして学校へ行きたくないと言って不登校になりかければ親は行きなさいと叱り、先生に助けを求めようといじめられたその場でアピールをすればうるさいと怒鳴られ、誰からも心配など何一つしてくれない。
――こんな世の中は間違っている。
僕はこの間違った世の中を壊したかった。この世の中が僕の人間関係を破壊し、消し去った。だから僕はもう二度と失いたくはないんだ。今の笑い合えるこの日常を、目の前で歩くあの人の笑顔を·····。
「琴音!」
蒼生は背を向けて歩く琴音の肩を掴み、自分の方へと振り向かせる。
人は自分を正しいと思うことによって理性を保てる。だが否定をされ続けたら、お前が悪いのだと言われ続けたらどうなるであろうか。答えは簡単だ。何も周りに相談出来ず、誰かの前で泣くことさえも許されない。だからその辛さを、苦しさ偽りのを笑顔で隠す。そう·····
「――琴音、もう泣いていいんだ。さっきから涙を堪えるのはもう知ってるんだ。今まで辛かったよな。だけどもう大丈夫。僕が必ず助ける。なぜいじめられたのかはいつか言ってくれればいいから。心配しないで、僕はいつまでも言ってくれるまで待ってるから!」
蒼生がそう言い放つと、琴音は堰を切ったかのように涙を流して蒼生の胸で泣き始める。
·····ある女性は言った。
盲目であるのは悲しいことだ。けれど、目が見えるのに見ようとしないのはもっと悲しいことだと。
周りはきっといじめがあることに気づいている。その現状が見えているのに、見えないふりをする。そして、その環境はいじめられる方が悪いのだと本人へ自己暗示を掛けさせ、本人の視界までもを奪ってしまう。まるで、親が子供に「見てはいけません」と言って目隠しをさせるように。
だから、僕はその目隠しを解いてあげたい。君は悪くない、僕は何があっても味方だから、と。そしてこの人の笑顔を守ってあげたい。今は無き本当の笑顔を。
「·····蒼生くん。ありがとう。私、蒼生くんがいればもう寂しくなんてないや。いつか、相談させてもらうね!」
泣き止んだ琴音から放った言葉と共に出た笑顔はラムネのガラス玉よりも透明で、空と一体化する程に透き通っていた。
――まさに青春の味、ラムネ。
馬鹿げたキャッチフレーズだ。実際、僕らには青春なんてものは存在しない。そんなものは見せかけの輝きだ。現実はいじめや確執、嫉妬や支配欲で満たされた泥水であり、青春はまさに泥水を加工したラムネ、理想郷と言っていい。
そして忘れてはならない。誰しもが持っている青春よりも輝かしいその笑顔がその泥水によって失われていることを。
僕はもうそんな泥水なんかに支配されない。その場の空気を読んだり、見て見ぬふりをしたり、上っ面の関係で付き合ったり、誰かをいじめて蹴落としたり·····。そんなことをしてまでも自分のテリトリーを守り、謳歌する青春なんて僕はもういらない。
「あーあ!何が青春だ!青春なんてクソ喰らえ。これが僕らの現実だッ!」
蒼生はそう言うと勢いよく片手に持っていたラムネをアスファルトの地面へと投げつけた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「それで?なんか手がかりは掴めたのか?」
電話の先は無理やり一緒に帰らせるという謎状況をセッティングした真田夢翔だ。
ちなみに、今の時刻は夜の十時となっている。いつもならこの時間はYouTubeを見ている時間だが、電話で話したいことがあると言っていたので、わざわざ時間を割いて現状報告をしている。
「一応わかったことと言えば、琴音さんはある2人の女子からいじめを受けているということくらいだな。」
「え?それってあいつらか?ポニーテールのやつとお団子ヘアーのやつか?」
夢翔がその女子を知っていることに少し驚きつつも、蒼生は「うん」と返事を返して話を続ける。
「それで僕はその現場に出くわして、そこから救ったあとは一緒に帰って·····。」
「ん?ちょっと待て。救ったってどんな感じで救ったんだ?あの女子二人はカースト上位層レベルだからかなり手強いはずだぞ?普通の男子でも殺されてるはずなのに。」
「僕の彼女に触るなぁって叫んで、相手が呆気にとられてる隙を狙って逃げたんだ。」
蒼生が説明する一方で、電話越しの夢翔はその言葉を聞いて黙ってしまった。少しの沈黙が二人の間を流れたあと夢翔がゆっくりと口を開く。
「·····蒼生、君は何をしてるのか分かっているのか?校内に琴音の彼氏だという噂が広まるんだぞ。琴音のことを悪く言っている訳では無いが、もしそうなったら次の標的はお前になるかもしれないんだぞ。それでもいいって言うのかよ·····。」
「次の標的·····。僕は別にそれでもいい。あの人の笑顔を守るためなら、あの人を救うためだったら、僕はどんな試練でも受けてみせる。」
「違う。そういうことを言ってるんじゃない。お前はいつもそうだ。自分で勝手に正義を掲げて自分自身を人のために犠牲にする。それは自分の首を締めていることと同じなんだぞ。分かってるのか!」
夢翔は珍しく蒼生に対して厳しい言い方をする。
自分自身を犠牲にしているのは僕でも分かっている。もしかしたら次の標的は僕になるかもしれないということもわかっている。だけど、僕はもう二度とあんな顔を見たくないんだ。裏切られたって言われたくないんだ。だから、ここで引き下がるわけにはいかない。
「それは重々承知だ。でも、琴音さんを救うためにはこれしかないんだ。時間が無いんだ。だから夢翔、分かってくれ。」
その言葉を聞いた夢翔は「うーん」と言って何かを考え始めたかのような反応を示す。
確かに立場の低い琴音さんの彼氏と言う噂が広まると僕もいじめの対象になるかもしれない。だけど、自分はいじめられたくないからと言って汚れた空気をまた読んで、自分の目を塞ぐのはもうごめんだ。
「·····分かった。蒼生がそこまで言うなら俺もできるだけサポートする。だけど、ひとつ言わせてくれ。俺もそこまで強くはない。蒼生のような強さは持っていないんだ。もし蒼生が危機的な状況に陥っても、俺が助けられるかどうかは分からない。それだけは覚えておいてくれ。」
「あぁ、分かった。ありがとう。」
「そんなことで礼は言うな。じゃあ、達者でやれよ。」
夢翔がそう言い残し、電話を切る。
きっと、夢翔は僕のことを心配している。琴音さんの1件に首を突っ込んだことによって昔に戻ってしまうのではないか。あの頃に戻ってしまうのではないかと危惧している。
本当は僕も怖い。この関係が崩れてしまったら、僕の行動が全てを崩れさせてしまうのではと思うと恐怖で眠れなくなる。
――ある人は言った。
何かを得るためには何かを失わなければならないと。もしこれが本当のことならば、僕はこれから何を得て、何を失うのだろうか。
「·····あと五日。何としてでも琴音さんを、あの笑顔を守ってみせる。」
満月が照らす夏夜。細川 蒼生はここに誓った。