1 青井
「太一くん、おはよう。愛してるわ」
ベッドで寝ていた黒岩太一は透き通った声の女性の挨拶で目を覚ます。
「おはよう・・・麗華さん」
「返事は?」
「えーっと、おはようございます?」
「それは挨拶」
「いたいけな高校生をからかうのは楽しい?」
「質問に質問で返さない。ほら、そろそろ起きて。今日始業式でしょ?」
高校生の太一と比べ、麗華さんと呼ばれた女性は大人に見える。肩のあたりまで伸ばされた黒い髪を手で梳きながら麗華は太一が起きるのを待つ。
「ほんと冗談が好きなんだから。起きますよっと」
「どうしたら信じてくれるのかしら・・・」
麗華はため息をつきながら太一から離れた。
「じゃあ、着替えたら朝食の準備をするから。あと、麗華さん、綺麗だからあんまり顔近づけられると目に毒です。注意してよ?」
「・・・あなたこそ注意しなさい」
真面目な顔で指摘する太一を仲の良い同僚から美人すぎて近寄りにかったと言われたことあったなぁと思い出しながら、麗華は少しジト目で太一を睨み、部屋を出ていく。
5分ほど後、制服に着替えた太一はダイニングへ向かう。準備のために一度自分の部屋に戻っているのか、部屋の中に麗華の姿はない。
「さて・・・朝飯作るか」
呟きながら太一はキッチンに入る。2人で住んでいるが、賃貸アパートなので、豪華なキッチンではない。壁にかかった時計の針は6時30分頃を指している。
「あー、学校行くの面倒だなぁ・・・」
太一はボヤきながらも慣れた手つきでテキパキと朝食の準備を進める。あまり朝に食べ過ぎると気持ち悪くなるという麗華の都合もあり、朝食はトーストにサラダとコーヒーといった簡単なメニューになることが多い。
「長い休みがあるだけマシ。学生のうちだけよ? そんなの」
「それは麗華さんを見てるとよく分かるよ・・・」
準備を終えた麗華が部屋を出てくる。先ほどはパジャマを着ていた麗華だったが、今は黒いスーツに白いシャツを着ている。太一は準備のできたサラダとコーヒーを席に並べた。
「パン、もうちょっとで焼けますので」
「ありがとう」
「今日は何時頃に出るの?」
「太一くんを見送ってからかしら」
「いいよ。そんなの」
「お父さまのかわりじゃないけど、始業式の日ぐらいはね」
麗華は優しく微笑みながら言う。
「あの親父はそんなことしないから。俺の都合なんてお構いなしだ。パンもも焼けたけど何か塗る?」
「いちごのジャムで」
「はーい」
麗華が太一のボヤキを流したので、太一も諦めたのか、いちごのジャムを塗って、麗華に渡す。
「それで、太一くんは何時に出るの?」
「えっと、千尋との待ち合わせは7時30分かな」
「じゃあ、それを見送ってから出るわ」
「駅まで一緒に行く?」
「魅力的な提案だけどやめておくわ。千尋ちゃんに怒られちゃう」
「なんで千尋?」
「秘密」
「なんだそりゃ・・・」
「乙女の秘密を探る男は嫌われるわよ?」
「乙女?」
「ん?」
「いえ、何でもないです・・・」
今の会話の中に乙女なんていたっけ?と言いたげな太一の反応に麗華の鋭い視線が刺さり、太一はすっと顔を背ける。
朝食を食べ終え、太一は洗い物をしながら、麗華は2杯目のコーヒーを飲みながら、ダラダラと会話を続ける。
「そういえば太一くん、洗い物終わったらこっちに来てもらえるかしら」
「なに?」
「いいから」
洗い物を終えた太一が不思議な顔をしながら麗華の前に行く。
「来たよ。麗華さん」
「麗華って呼んでみて?」
「えっと・・・?」
「失礼。間違ったわ。ちょっと私の前に立ってもらえるかしら」
「立ってるよ?」
「背筋を伸ばしてきちんと立つ」
「は、はい」
「うん。よしよし。そのまま動かないでね」
麗華の手が太一の首に伸びる。
「れ、麗華さん?」
「ジッとする!」
麗華の手は太一の首にあるネクタイを触る。
太一の通う高校の制服はブレザーで、ネクタイをつけるのが正装になっている。普段は任意での着用のため、あまり機会はないが、始業式といったイベントでは着用が必要になる。麗華が不恰好になっていたネクタイを解き、一から結び直す。
「いいよ。そんなの・・・」
「ダメよ。いい? 太一くん。身だしなみは大事なんだからね。きちんとしなさい」
「麗華さん、なんだかお母さんみた・・・って、麗華さん、締めすぎ! 首が!!」
太一の発言を聞いて、麗華が無言でネクタイの結び目を目一杯引き上げる。
「太一くん?」
「れいかさん・・・いき・・・が・・・」
「私は高校生の息子がいるような年齢じゃないわ」
「とりあえず・・・ゆるめて・・・まじで・・・」
「仕方ないわね」
麗華はため息をつきながらネクタイを緩め、改めて、形を整え始める。ネクタイを持つほっそりとした指は滑らかに動き、その手つきには迷いがない。
「それで?」
「麗華さんは綺麗な年上のお姉さまです」
「よく出来ました」
太一がそう言うと麗華は笑いながら頷いた。太一もそれに合わせて笑う。ひとしきり笑い合ってから、麗華が柔らかく微笑みながら質問する。
「それとも・・・本当にお母さんみたいな私がいいかしら?」
「麗華さん・・・ありがとう。大丈夫だから」
「そう」
「けど、そうだな・・・もう少しエロいと尚良いかな。男子高校生的には」
「な・・・な、な、何言ってるのよ!? 太一くんの馬鹿!」
「はははっ、麗華さん、耳真っ赤だよ? 元々、キレイな白い肌だから目立つね」
「〜〜〜っっ!!」
太一のからかいに麗華は両手で真っ赤になった耳を隠す。実は顔も真っ赤なのだが、麗華がそれに気づくことはなく、太一はそれを見て大笑いする。
それから少しして落ち着くと、麗華は下ろした両手をプルプル震えさせながら太一を睨む。
「太一くん・・・どうやら改めて、お互いの立ち位置を確認する必要があるようね」
「いや、だって麗華さん、そっち方面の防御力低すぎ・・・あ、ちょっと待って、いや、ほんとに、俺が悪かったから」
ピンポーン・・・
太一の形勢が致命的に悪化しようとしていたタイミングでインターホンが鳴る。
「あ、千尋がきた!」
「お、こら、太一くん! まだ話は・・・」
「もう行かないと! また帰ってきたら聞くよ」
「まったく・・・聞くつもり絶対ないでしょ?」
太一がインターホンによる来客対応用のボタンを押す。モニターには制服を来た女の子が立っている。
「はい。青井です」
「・・・私です。見えてるんだから太一は名乗らなくてもいいでしょ?」
「朝から機嫌悪いな。どうした? 来客対応は普段からきちんとやらないと大事な時に失敗するだろ。あと、私って誰だ?」
「赤坂!千尋!」
「はい。鍵開けまーす」
太一が解錠ボタンを押すと、千尋は返事せず、姿を消す。
「なんだあいつ・・・何怒ってるんだ? じゃあ、麗華さん、そろそろ行くね。麗華さん? なにニヤニヤしてんの?」
「・・・なんでもないわ。ほら、玄関行って準備して。あと、あんまり千尋ちゃんに意地悪しちゃダメよ?」
「俺は別に意地悪なんて・・・」
ピンポーン
太一が麗華に反論しかけたところで、2度目のチャイムが鳴る。太一は玄関で靴を履き、ドアを開ける。
「太一、おはよう!」
「おはよう、千尋」
「あ、青井さん、今日はまだいらっしゃったんですね。おはようございます」
先ほどの不機嫌な様子はその場だけだったのか、笑顔で挨拶する千尋は、太一の後ろにいる麗華に気づき、改めて、挨拶をする。
「おはよう。千尋ちゃん。今日ぐらいは見送りをしようかと思ってね。太一くんのこと、よろしくね?」
「はい。もちろん。じゃあ、太一、行こっか?」
「そうだな。それじゃ、麗華さん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
麗華はヒラヒラと手を振る。太一も手を振り返し、千尋は軽く礼をした。
「さて、私も出るか。あー、働きたくないなぁ・・・」
麗華はボヤキつつ、ドアを閉めた。