伯之進という若者
狭い路地である。
本来、二尺四寸の常寸の刀を振り回す余地などない。
事実襲ってきたものたちが手にしていたのは振り回しやすい小刀だった。
相手が二本差しの同心、狭い場所での立ち回りは不得手となめきった判断だったのかもしれない。
だが、青碕伯之進は構わない。
一気に刀を振り上げて、真っ先に迫ってきたものに白刃を煌めかせる。
「ぎゃあ!!」
まさか真っ向から斬られるとは思いもらない襲撃者はけもののように叫んだ。
通常ならば剣は建物の壁やらへしやらに邪魔されて振れないはずだが、伯之進は手頸を捻り刃先をくるりと回すことで上段まで上げたのである。
そのまま次は手頸を返して振り下ろす。
当然のこととして勢いは落ちるから、小刀をもった腕の両断までは出来なかったが、顔面を斜めに叩き斬ることで大量の血が噴き出した。
新陰流ではなく、別の剣派の技術であったので、伯之進がこのような器用な技を使えることを知るものは少ない。
次に右手の暗闇から男が一人飛び出してきた。
ごつい包丁を抱えていたが、凶器を振るうよりも体格と膂力をもって押し込めようとする目的なのは誰にでもわかる。
しかし、伯之進は半歩だけ足を退き、腰を回すと刀の柄で顔面をかちあげた。
秘器の刃が顎を裂く。
痛みに耐えかねて動きが鈍ったところを前に蹴りをはなって押し戻した。
まだ敵はいる。
伯之進の感覚はあと数人ほどの気配を捉えていた。
明らかに奇襲をかけられたというのに落着きはらった対応をする彼を見て、二十歳そこそこだと信じるものは少ないだろう。
伯之進はこういう戦いに慣れ切っているのだ。
ただし、それでも多勢に無勢ということはある。
鋭敏な感覚が周囲を完全に囲まれてしまったと告げていた。
何故、こんな襲撃を受けたのかについてはだいたい見当がついているが、答え合わせをするためにはこの囲みを突破することが必要だ。
(私でも運に頼らざるを得ないか)
矛盾となるかもしれないが、命がけの戦いにおいてすべてのものが実力の全てを引きだせればほぼ確実に勝利できる。それだけの鍛錬をしていれば当たり前のことである。
だが、そんな風に戦えるものなど皆無だ。
例えば精神的な不安、わずかな体調の違い、少しだけ蓄積した疲労、そういったものが揺れ幅広く左右するものである。特に自分ではどうすることもできない運については生死を完全に分かつほどに大切になってくる。
もっとも、戦闘である以上、運に委ねなくてはならない局面はある。
運が悪ければ死ぬしかない。
命のやり取りとはそういうものなのだ。
伯之進はこの運だけがあれば勝てると断定していた。
つまり、裏を返せば伯之進の武士としての矜持はこの窮地を吾一人で乗り越えられると確信しているのである。
「ついてこい、おまえら!! でりゃああ!!」
襲撃者の頭らしい男が合図をかけて、一気に伯之進を推し包もうとする。
側面からきた一人を斬るが、その斜め後ろにいた男が湯屋の薪を一本投げつけてきた。
とっさに顔を背けたおかげで額に傷ができるだけで済んだが、刀を保持する力が減少する。
そのせいで返す刀での斬撃ができなくなった。一手が遅れる。要するに刀で守れなくなるということだった。
まさか、投げてくるとは……
ありえないことではないが、こんな乱戦では普通はない。味方に当たるからだ。こんな乱戦で物を投げてくるという妙な奴がいたということが不運なのである。
近接での斬りあいだけでなく相手がそのような手を選んだということは、つまり伯之進に運がないということだ。
この時点で五体満足で切り抜けることを諦めた。
命だけでも残ればよし。
彼は若干二十にして一瞬にしてその覚悟を決められることができる。
青碕伯之進が奉行所のみならずごろつきとたいして変わらない岡っ引きたちにまで一目置かれている理由は、元禄の太平の世に馴染まないこの思考にあった。
私が運に差し出すことができるものと言えば―――
左腕がずきんとうずいた。
腕の方から捨てていいと告げてきたのだ。
伯之進を生かすために。
(腕を一本捨てればここも抜けられる。そうすれば私を襲った理由はすぐにわかる)
白皙の美貌に獣の凄味が重なる。
月しか灯りのないがさらに強めの翳をつくった。
伯之進は決断する。
そうと決まれば、無駄な防御もいらない。
左腕を捨てることで一瞬を生き延び、体力の続くまでひたすらに剣を振るい、残りの相手を皆殺しにするだけだ。
美貌の獣がさらなる凶暴な魔物へと変ずる。
次なる襲撃者の小刀が腹を抉ろうと突き立てられてくる。
これを左腕であえて受けとめ、致命傷にならなければ反撃をしよう。
伯之進が痛みをこらえるために気合いを入れたそのとき―――
ぐっ!!
目の前の男が吹き飛んだ。
悲鳴も叫びもない。
どんという重い音がしただけだった。
その場にいたものたちのなかで、伯之進だけが何が起きたのかかろうじて察することができた。
伯之進に刃を刺しこもうとした男の胸に、どこからともなく飛来してきた棒らしきものが突き立ったのである。
先ほど投げつけられた薪などとは比べ物にならない速度と比例する威力が胸の中心部にぶつかったため、おそらく胸骨は派手に粉砕したはずだ。
刺さりこそしなかったが、ほとんど死んでいるだろう。
伯之進にとっては思いがけない幸運だった。
棒にやられた男の吹き飛び方が激しかった分、そこには大きな隙ができる。
刀を握り直し、伯之進は薪を投げた男を刀先で突いた。
(手応えあり)
今ので、四人。
いかに多勢であったとしても、一人の同心を襲うのに十人は用意しまい。せいぜい七人から八人。そう仮定すると一瞬で四人が傷つけば残りの連中はよほどの愚者でない限り逃げの一手だろう。
実際、襲撃者たちは棒が投げ込まれ、伯之進の凄まじい勢いの突きに怖気づいたのか、傷ついた仲間を抱えて、声も出さずに逃げ出したのである。
胸に棒の一撃を受けた男は昏倒していて動かせなかったようだが、それ以外はすべて蜘蛛の子を散らすように去っていく。
数秒後には伯之進の死闘の痕跡といっていいものは、強打され昏倒した男だけとなっていた。
「―――追うのは止めた方がいいですね」
無理に追って待ち伏せでもされたら厄介だ。
ここはこの昏倒された男だけをもって成果とすることにしよう。
すっと納刀したところで思い出す。
自分を助けるかのごとく、棒を投擲してきた相手のことを。
振り向こうとしたとき、鼻孔にかすかな潮の香りが漂ってきた。
ドサリと足元に白目をむいた破落戸の身体が放り捨てられる。
伯之進を背後から狙っていたものに違いない。
「……まったく、一人を寄ってたかって襲うとは陸岸のもんは性根が腐っておるのお」
握りしめた拳がまるで岩のようで、これで殴られたら少し鍛えた程度では壊れてしまいかねないほどに大きい。
白目をむいて気絶している男の頬にある黒い痣は、これでぶん殴られてできたものだろう。
朝までに目を覚ますかどうかも怪しい気の失い方であった。
「助けていただいたようで、ありがとうございます」
「なに、ただの通りすがりよ。貰った魚一匹分だな」
赤銅色に日焼けした肌のせいか、夜になると着物だけが浮いて見える。
昼間に会った釣り侍―――権藤伊佐馬は呑気に欠伸をした。
「先ほどの投げ棒。―――権藤どのの手練でございましょうか。見事なものでした。斬り合いのさなか、動いている私の後方からあれほどの精確さをもって賊に命中させるとは……なんらかの武芸でございますか」
「武芸などというものではない。ただの銛打ちよ。荒れた海のうえで獲物を打つのに比べれば、揺れない陸のうえで目標に当てるなどどうということもない児戯さ」
あれが漁のための銛打ちと同じだというのか。
伯之進は、伊佐馬の言うところの銛打ちが十間(約18メートル)の距離から、狭い路地にいる伯之進を避けて相手に命中させるという凄まじい技術であることを見抜いていた。
しかも銛とは違い、銛頭に鋼の刃が着いていない以上重心が変化するので、狙った獲物に当てるのはさらに難しいはずだ。
さらに言えば、修羅場に立ち入っても一切慌てたそぶりも見せない。
とうてい釣りだけがとりえの一介の浪人の態度ではなかった。
自分のことを棚に上げて、伯之進は伊佐馬のことを化け物でも見るような感じになっていた。
「権藤どの。あのあとの釣果はいかがでした?」
伊佐馬はびくを差し出し、
「三匹だ。わしひとりが喰う分ならこれで十分だろう」
「そうでしたか……」
結局のところ、日が暮れるまで伊佐馬はいつものように釣りをしていたということだ。
「……ところで、唐突になってしまいますが、さきほど私が釣り上げた分のうち、最後の一匹分の借りを返していただけませんか」
伯之進にしては非常に珍しい言い回しだった。
普段の彼はこんな風な遠まわしな交渉はしない。
しかし、今回だけはいいだろうと自分を納得させた。
「構わんよ」
伊佐馬は頼む方が呆気なく思えるぐらいに簡単に頷いた。
彼ならそう答えるだろうと伯之進も予想していたのだが。
「私はこれから四ツ谷、市ヶ谷を荒らす盗賊どもの棲家で捕物をしたいのですが、残念なことに奉行所までいって応援をお願いする間がありません。そこで権藤どのに急遽助っ人をお頼みしたいのですが……」
「なぜ、わしなのかね?」
伯之進は答えた。
「此度の盗賊どもは沖に泊まった船―――おそらく樽廻船に潜んでいるものと思われます。ただ、何分、私も船上での捕物の経験というものがないのでして」
「わしならできると?」
「はい」
「いいぞ」
実に簡単な交渉であった。
拍子抜けは―――しない。
伊佐馬はこういう男だとなんとなく伯之進は理解していた。
「わしでよいというのなら手を貸そう。こう見えてもわしは刃刺だったゆえ、船の上でなら陸のもんにはまず負けんよ」
刃刺という言葉に聞き覚えはなかったが、きっと名人とかそういうもののことなのだろうな、と伯之進は考えていた。