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陸のくじら侍  作者: 陸 理明
第三話 「くじら侍と修羅の兄妹」
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鯨の味



 醤油の香ばしい匂いが鍋から漂ってくる。

 鍋の中でぐつぐつ煮込まれているのは、適当に手で千切られた野菜と肉、それに臓物らしい不気味な塊だった。

 味付けには砂糖が加えられているが、基本的には醤油だけなのに、これまでの人生であまり嗅いだことのない腹の虫をいじめ続ける香りであった。

 長めの箸をつかって熱々の具を、お玉で汁をなみなみと椀に注ぐと、山椒をちらりとかけてから差し出された。

 青碕伯之進は、その椀を受け取り、一口汁を吸ってみた。

 熱い。

 脂身が溶けだして味も濃厚だ。

 口に入れた肉が蕩けるように軟らかい。

 何よりも旨かった。

 この当時、江戸ではあまり肉食は行われていない。町民が口にするものは鳥が中心であり、たまに猪や鹿の肉を喰らうこともある程度だ。

 譜代の御家人身分の青碕家でも滅多に食されないので慣れてはいなかったがそれでも味はわかる。


「美味しいですね」

「そうだろう」


 鍋の具を掻きまわしながら権藤伊佐馬はにやりと笑った。


「わしの故郷辺りでは()()()()といってな、客が来た場合にはよく振る舞われる喰い方だ。鼻につく肉の臭みもなく、甘さで口当たりもよいので、鯨の肉を食ったことのないものに最初に出すには向いておる」

「これが鯨ですか……」


 箸で肉を摘まみ上げる。

 猪のものとはまさに一味違う。あまり水っぽくもない。


「うむ。()()()()は本来腸が主だが、肉を入れても旨い。これもいいぞ」


 脇に置いてあった深めの皿を出した。

 肉の切り身が醤油と味噌らしいものに漬けこまれている。


「こちらは?」

「鎌倉漬だ。太地ではよく食われている。新宮藩の殿さまへの献上物にされている鯨の喰い方だ。聞いた話だと、禁裏や将軍家にも献上されているらしい。まあ、事実かどうかは知らぬが、かの織田信長公は正月には欠かさずこの鎌倉漬を食っておったそうだ」

「へえ」


 見たところ生にも見えるので、おそるおそる箸でとりあげ、口に放り込んだ。

 味噌の芳醇な香りと味が肉の脂と混ざり合い、何とも言えない味が広がる。


「これも美味いです!」


 らしくない声を上げてしまった。

 冷徹さと紙一重の美貌がとろけるように緩む。

 確かに美味だ。

 将軍家が食したくなるのもわかる。

 もしや、これこそ英雄の味なのかもしれない。

 伯之進は知らなかったが、江戸城の大みそかの掃除のあとで鯨の汁ものがだされる習慣もあったのである。元禄時代より先ではその江戸城の習慣が庶民層にまで届き、大みそかに鯨の汁を食べる町民もでたという。


「本来なら刺身をだしてやりたいが、生憎江戸の町には生で食えるほどの新しい鯨は手に入らんのだ。それでもわしの予想よりは多めに出回っているので金さえあればなんとかなるのがいいところだな」

「刺身にできるものなのですか、鯨は」

「うむ。解体したばかりのものを海で洗ってそのまま食うこともあった。勝手に喰ったら罰を与えられるから、頭衆の許しがいるがな」

「へえ」

「これはザトウだが、一番美味いのはセミだ。歯のある鯨は一段落ちる。とはいえ、マッコウでも手に入らんよりはずっとましだが」


 伊佐馬も自分の椀に山椒をふりかけ、一番でかい肉にかぶりついた。

 時間をかけて煮込んだ分だけ軟らかくてうまい。

 煮込む前に表面を炭火でじっくり炙り、脂を閉じ込めてから煮込んだので肉汁も出る。

 コリコリとした干した軟骨を湯で戻したものも入っていて食感も飽きない。

 伯之進が持参した酒を手酌で酌む。

 二人の場合は差しつ差されつつより勝手に飲んだ方が気楽だからだ。

 それに今の伊佐馬には鍋をみるという疎かに出来ぬ仕事がある。

 たった一人の客も()()()()が気に入ったのか、細い身体と美しい小さな唇に似合わぬ勢いで口にかっこんでいた。

 男盛りの二人にかかると、ほとんどあっと云う間に山盛りのうでもんはなくなり、鎌倉漬もなくなった。

 あとは鯨の干した皮を直火で炙ったものでのんびりと酒を酌み交わす時間となった。

 残った汁はあとで冷や飯でもぶちこんで喰うつもりだった。


「山のものではない鯨というのはとても美味しいものですね」


 この時代、江戸っ子は建前上動物は食べないということになっていたので、猪、鹿、兎、馬などの獣肉を専門に扱う百獣屋ももんじやは看板に「山くじら」と暗号化して商売をしていた。

 そのことを言っているのである。

 ちなみに百獣屋は江戸でも甲州街道沿いに多かったので、鯨の肉は扱っていない。伊佐馬が手に入れたのは魚市場であった。

 別のところで獲られた鯨を持ち込んだ漁師から買ったのだ。

 おかげでたいして懐に入っていない金がさらになくなったが、後悔はない。

 久しぶりに故郷の味に舌鼓を打ちたくなっただけなのだ。

 その際に友である奉行所の同心がふらりと遊びに来たのでこれ幸いとふるまってやったという訳である。


「わしは童の頃から鯨ばかり食っておったのでな、ほらこの通りにでかくなってしまったのだ」


 近所の町民たちに、くじら侍と呼ばれる大男がいうと説得力が違う。

 

「しかし、権藤さんが料理ができるとは思いませんでした。しかも、とてもお上手だ」

「漁師の酒の肴程度よ。もっと凝ったものはできん」

「十分ですよ。海の男はそのあたり用意周到みたいですね」


 腹がいっぱいのせいか、伯之進も上機嫌だ。

 酒を飲む速度もいつもより早い。

 伯之進も文字通りの鯨飲馬食の伊佐馬と比べると少ないが、平均以上によく飲む若者だった。

 

「夜っぴて酒の相手をできるかね」

「かまいませんとも」


 そう言って二人が本格的に酌み交わそうとしたときに、伊佐馬の家の戸が開き、土間に男が入ってきた。

 鋭い三白眼で目付きが悪、さらに眉が薄いので、一見破落戸にしか見えない若者―――元ぼてふりの岡っ引き欣次であった。

 少し前の事件の際、首をおかしくしてしまったため隠居した徳一の代わりに岡っ引きになったばかりである。

 徳一の推薦もあり、現在は伯之進の下につく小者として奉行所に名前が届けられている。


「鯨の旦那、いやすかい!?」


 だが、目当ては伯之進ではなく、権藤伊佐馬のようであった。


「―――どうした、欣次」

「あ、青碕さま」


 欣次は徳一とは違い、あまり伯之進に怯えていない。

 歳が近いせいもあるだろうが、もともと度胸のある若者なのだ。


「いえ、実は鯨の旦那に聞いていただきてえ話がありやして」

「お上の御用なのかい?」

「うーん、まだそうなりそうにないのですし、青碕さまに聞いていただくほどでもないというか……」


 やや歯切れが悪い。

 まだ判断がつかない段階の話なのだろう。

 ただ、自分だけで抱え込んでおくのはできないので話をきいてくれそうな第三者のところへ持ち込んだという訳である。

 その第三者が伊佐馬だったということだ。


「―――いいぞ、欣の字。わしでよいのならば話ぐらいは聞いてやろう」

「あ、ありがてえ」


 そう言って畳に腰掛けると、欣次はたった今聞いたばかりの話を思い出しつつ語り始めた……





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