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陸のくじら侍  作者: 陸 理明
第一話 「くじら侍と青碕伯之進」
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水死人



 土手の上に甘酒売り、鋳掛屋、近くの長屋のものらしい女房と子供など様々なものたちがたかって、小さい人の山ができていた。

 近所のものや通りすがりが野次馬となっているらしい。

 岡っ引きの徳一はそこが現場だと察した。

 少し行けば吾妻橋が見えるが、そちらには野次馬はいないようだった。


「お上の御用だ。ちょいとどいてくれや」


 わざと野次馬の群れに割り込む。

 これ以上、下の河原に降りて行かないように釘をさすためである。

 好奇心が先走って御用の邪魔をされてはたまらない。

 とはいっても十手をもった岡っ引きにわざわざ逆らうものはいないが、仕事を手早く済ませる為にも邪魔は少なければ少ない方がいい。

 徳一は土手を下り、河原へと降りていく。

 隅田川のほとりに横たえられた溺死体を顔見知りの岡っ引きや小者が囲んでいた。

 一人だけが座り込んで死体の様子を見ている。

 八丁堀の与力はおろか同心の姿も見られない。


「ごめんなすって」


 徳一は頭を下げて合流した。


「わりいな、こんなところまで」


 源三というこの浅草あたりを縄張りとしている岡っ引きがねぎらう。

 本来、徳一はこのあたりで仕事はしない。

 ただ、彼を飼っている同心がここしばらく別の仕事で動けないところから臨時の助っ人として駆り出されただけである。


「別にいいぜ。八丁堀の旦那方ぁ、ここしばらくは忙しくて手が離せねえからな。溺れ死にの相手なんざしてらんねえだろう。四ツ谷と市ヶ谷の押し込みの方がどうにも終わんねえみたいだからな」

「―――まったくだ」

「どれ」


 横臥している死体は恰好からして船頭のもののようだった。

 陽に焼けた肌が黒く見える。

 溺れたときに相当苦しかったのか、目をかっぴいて恐ろしい形相をしていた。

 徳一の知っている男だった。

 源三が聞いてきた。

 

「この死骸おろくはどこのだれで? 柳橋の方の船頭じゃねえかという話だから、わざわざあんたを呼んできてもらったんだ」

「両国あたりで神田川沿いに渡しや船宿の小遣い稼ぎをやっている長助っていうもんだ。おれも顔ぐらいは知っている。泳ぎは達者なはずだ―――河童みてえだと評判だったようだからな」

「舟で商いするもんが溺れて死んだんか。因果なもんだな」

「そうだな」


 源三と情報のやり取りをしながら、徳一は十手の先で死体のあちこちをついた。

 何かおかしなことはないかと探ってみたのだ。

 背中のあたりに痣の様なものがあったが、切り傷などは見当たらないし、首を絞められたような跡もない。

 川に落ちて、水をたらふく飲んでしまったに違いない。

 徳一の見立てではほぼただの溺死だ。

 同心の検屍を受けた訳ではないので、岡っ引きの立場でははっきりとはいえないが……

 

「源三さんよ。あんたはどう思う」

「まあ、十中八九、舟から落ちただけだろう。隅田川を昇って浅草近辺に客を乗せてきたってところで運悪く落水して死んじまったってとこか。あとで河口まで人をやってこいつの舟を探してみら」


 河付近を見ても長助のものらしい舟は見当たらない。


「舟は主人を捨てて海まで行っちまったっていう訳か。まさに、河童の川流れってことかよ……あんたの言う通りに長助には運が悪かったな」


 特に今でいう事件性はない、そう岡っ引きたちは断定した。

 奉行所の同心たちを煩わすまでもなく、ただの事故なのだろう。

 あとで水死体の上がった地域を縄張りとしている源三が奉行所に報告に行けば終わる程度のものだ。

 そこで話は終われるはずだった。


「―――こんなところまで海から運んでくるなど、わざわざ面倒なことをする奴がいるものだのお」


 真後ろから声がして徳一はびくりとした。

 振り返ると、すぐ後方で上から覗きこむようにして死体を眺めている男がいた。

 徳一よりも頭一つ分以上背が高い。

 一瞬、毛皮でしか見たことのない熊にでも襲われたかと錯覚したぐらいだった。

 しかもがっちりとした岩に似た屈強な体躯のため、こんな男に傍に寄られたら気配を感じないはずがないのにしっかりと背後をとられている。

 岡っ引きでも腕っ節には自信のある彼にとってあまりないことだった。

 思わずひきつった声で問いかけた。


「て、てめえはなんでぇ!!」


 野次馬たちはまだ土手の上だ。

 つまりこの男はわざわざここまで徳一の言うことを聞かずに降りてきたことになる。


「わしのことは気にせんでいいぞ。わいつは岡っ引きの仕事をすればいい」


 男はのんきそうに言った。

 聞き慣れない訛りがあるので江戸の出身ではなさそうだった。

 だが、奉行所から十手を預かる以上、怪しい奴に気にするなと言われてそうですかと言えるものではない。

 徳一からすればお上の御用の邪魔をするなという意識もある。

 眼に強く力を込めて睨みつける。

 たいていの相手はこれで十分に怯むのだが……


「あんたぁ……」


 パンパンに焼けた赤銅に近い肌の色をした浪人風だった。

 眉が濃く、彫の深い剽悍な面構えをしている。

 着流しで髷を結っていない浪人風で、通常の刀とは違う革でできたらしい三尺ほどの雑な造りの鞘をぶら下げていた。

 普通の刀は二尺四寸が定寸なのでかなり長い得物のようだ。

 二本差しで、もう一本も脇差ではなく、麻袋に包まれた小刀のようであった。

 腰におかしな刀をさしている浪人風というのは、一概に侍とは断定できないおかしな雰囲気をまとっているからであり、そのおかしさを言語化できるほど徳一は頭がよろしくなかった。

 

「いいからいいから、ゆがらは御用を果たすがいいぞ。わしは見物をしているだけだ」

「おれは邪魔だっていってんですが」

「わしは一向に構わん」


 最初、徳一は馬鹿かと思った。

 馬鹿が空気を読まずに変わったものを見物にきただけかと。

 ただ、源三はそうは思わなかったようだ。


「あんた、さっきおかしなことを言わんかったか。海からどうだとか……」

「そいがどうした」

「源三、こんなのの相手をすんな。ただの野次馬だ。―――あんた、いい加減にして下さいよ。御用の邪魔をするというのなら相応の目にあいますぜ」


 徳一としてはもう一度出来る限り目に力を入れたつもりだったが、男の方はやはりまったく怯んだ様子がない。

 もともと体格において差があるというのもありそうだが、飄々とした態度の反面、相当肝が据わっている男なのだろう。

 徳一のことをどうやら子犬に吠えかけられた程度としか思っていないような顔つきだったが、


「仕方ないのお。まあ、この場はわしが悪かったか。うむ、邪魔をしてすまなかった」


 と、頭をぼりぼりと居心地悪そうに掻いてから、それでも屈託なく笑って振り向くと立ち去って行った。通常のものとは全く違う刀の鞘がぶらりと揺れている。

 途中で土手の灌木に立てかけておいたらしい釣り竿を回収していく。

 ただ単に釣りにきていたのだろうか。 

 少々気になったが、第一印象でも悪党臭さはなかった。

それよりも真面目に御用を果たすのが彼の仕事だ。

 馬鹿かもしれない浪人の相手などしておられない。


「なんだったんだ、おい……」


 愚痴りつつも再び水死体の検屍を続けようとすると、いきなり源三が立ち上がったのでまたもびっくりする。

 どいつもこいつも急に動きやがる。


「ど、どうし……」

青碕あおざきさま」


 もう一度振り向くと、同心の青碕伯之進あおざきはくのしんが立っていた。

 北町奉行所所定廻り同心であり、まだ二十歳を越えたばかりなのにやり手として知られている若者であった。

 小者をつれて臨場にきたようである。

 伯之進は瑞々しい青春の光を備えた美しい若者であった。

 しかし、その美貌の反面、源三の態度を見ればわかる通りに一筋縄でいく存在でもなかった。

 すでに四十を越えた年齢の徳一ですら、身分差を越えてやや畏敬の念を持ってしまわざるをえない同心である。

 通常、彼らは同心たちをまとめて尊敬も軽蔑も含めて「八丁堀の旦那」と呼んでいるが、伯之進だけは青碕さま呼びなのがその証拠であろう。

 

「……件の押し込みの探索のついでにここに水死体が上がったときいてね。おまえたちの様子を見に来たんだけど……」


 声もまだ若い。

 話しかたからは、若干世馴れていない印象を受けるが、これでもすでに数年の経歴をもっている。

 早世した父親に代わって元服も終わってないうちから同心になった若者なのである。

 何も知らないものからすれば世間知らずの大店の若旦那にも思えるかもしれないが、それでは岡っ引きたちの緊張の説明がつかない。

 つまりは見た目だけで判断してはいけない人物ということだ。


「さっきのは誰だい?」


 野次馬の方を指さすが、先ほどの赤銅色の男はもう姿を消していた。

 あれだけの巨躯だというのに鈍重な印象は欠片もない素早さである。


「―――さあ、ここらでは見かけんお武家でしたが」

「源三は浅草が縄張りだっけ。じゃあ、この辺の人じゃないようだね」

「へい」

「徳一はどう?」

「いや、おれも……知らねえお人でした」

「そっか……」


 伯之進はじっとそちらを見続けたまま、


「あのひと、海の匂いがしたな」


 とだけ、小さく呟いた。






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