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陸のくじら侍  作者: 陸 理明
第二話 「くじら侍と河童騒動」
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二人の酒盛り



 青碕伯之進は、岡っ引きの徳一と一通り死体の発見現場である祠の周囲を改めると、もう一度、死んだ夜鷹の傍にしゃがみこんだ。

 女のものと間違えかねない白い指で死体の着物の裾をめくる。

 徳一は止めなかった。

 不埒な目的でやっている訳ではないことはわかっている。

 この美しい若者に死体を玩ぶ趣味はない。

 裾をめくり、太ももを軽く押し開く。

 女が男を受け入れる箇所が顕わになる。

 襦袢はまとっていないこともあり死後の硬直があったとしても容易くできた。

 一切の感情が排除された冷徹な金物の目で、伯之進は死体の陰部を確認してから、


「徳一は、女を買ったことはあるの?」

「若い頃に何度か。所帯を持ってからは、お上の御用以外では岡場所に足を踏み入れもしませんがね。当然、夜鷹もですや。あっしは女房がいれば満足でさ」

「へえ、でも十分かな。これを見てくれないか」


 促されて、徳一は顕わになった死体の女陰に視線を落とした。

 すでに死んで濡れることもない性器を見て欲情する悪趣味さはない。

 それほど数を見た訳ではないが、ごく普通の女人のものに相違なかった。


「こんなものを見て何かあるんですかい」

「徳一はどう思う?」

「……いや、これといって……死人のあそこをみても……まあ、普通のものじゃねえですかね。横に裂けているとかいうんなら別ですが」

「そう、普通だよね」

「あ」


 そこで気が付いた。

 確かに、この死人の女陰は普通だ。

 彼の恋女房のものの方がくたびれてはいるが、それでも市井のどこにでもいる女の陰部だ。

 この死体のものとしては本来あり得ない。


「夜鷹のものにしては綺麗すぎますぜ」

「そうだよね」


 夜鷹というのは、歳や病いのせいで岡場所で働けなくなった女郎などが堕ちた先である。

 日々の暮らしのための銭がなくて仕方なく夜鷹となるものもいるが、一人当たりの単価が安いために一晩で何人もの客をとらなければとてもではないが生きていけない最下級の商売女だ。

 人並みに稼ぎたければただの女郎以上に男を迎え入れなければならない以上、どうなるのかは想像に難くない。

 つまり、夜鷹として生きているのならば女の命である性器はもっと爛れるほどに擦り切れ使いこまれてるのが普通であるということだった。

 それなのにこの死体の女陰は、未通女のものではないが、奇麗な色を保っていた。


「おそらくこの女は夜鷹ではないね。商売女でさえないだろう」

「……じゃあ、この黒い着物は?」

「さっきから探してみたけれどどこにも筵がないし、それらしい古着物を着ているか着させられたんだろうさ。つまり、夜鷹のふりをしているだけだ」

「なんで夜鷹のふりなんぞを」

「それはわからない」


 この頃になると、他の岡っ引きや下っ端たちが続々と集まってきた。

 もうすぐ伯之進の同僚の同心もやってくるだろう。


「そろそろ私は行くよ。休みの日によけいなことをして皆に色々言われるのも嫌だしね。徳一も奉行所のものたちには内緒で頼むよ」

「わかりやした。何か、あっしにできることはございませんか」

「徳一は、このあたりを縄張りにしている夜鷹たちに首実検をしてこの女の素性を確認してくれないか。たぶん、誰もしらないだろうけど。それから、夜鷹屋にいって女衒の頭にも裏を取ってくれ。この着物を誰かに貸したかどうかを」

「へい。青碕さまはこれからどうなされるんで?」


 伯之進は何事もなかったかのように歩きだした。


「私はおまえが教えてくれた河童の夜鷹について探ってみるよ」


 去っていく伯之進の後ろ姿は闇をまとった夜の化身のようであった。

 ただ歩いているだけなのにそう感じる。

 思わず安堵の吐息が漏れた。

 ほんのわずかな間だけ共にいるだけで緊張してしまうのだ。

 徳一はいつまでたってもあの若い同心には馴染めそうにないと改めて思い直した。



                   ◇◆◇



 柳橋には夜になっても開いている飯屋がいくつか存在していた。

 庶民の間に食べ歩きが定着するのは、安永年間以降のことだったが、それまでにも独りものの男が気楽に立ち寄れる食い物屋はあった。

 店の外で調理して、桟敷になっている店内で煮魚や芋の煮っ転がしを食べさせて酒も飲ませる煮売り屋の前身ともいえる店だった。

 煮売り屋のように軒先に魚や鳥をさげておくという特徴はまだない。

 元禄時代ではまだまだ武士階級は出入りしないものだったが、世間の目を気にしない少数のものたちはよく利用していた。

 食い詰め浪人の権藤伊佐馬などは、釣り上げた魚をそういった食い物屋に卸すことでそくばくかの金を稼ぎ、ついでに飯を食っていくのが日常となっている。

「あかみねや」も、そんな伊佐馬がよく利用する店であった。

 伯之進が店内に入ると、何組かの客がそちらを向いた。

 侍がやってくることもあるが、基本的に夜は屋敷にいなければならない。

 奉行所の同心のように夜も勤めに励むのが奨励されるものは例外だ。

 ただし、店の客たちは伯之進の素性をよく知っていたし、御成り先着流し御免を着ていない今でいう非番だということもわかっていたので、すぐに目を逸らした。

 楽しく酒を飲んでいるときに八丁堀の同心にかかわりあうのは風情があるとは言えない。

 もっとも一人だけ伯之進にむけて手を振るものがいた。


「おお、伯之進。こっちで一緒に呑まんか」


 探していた伊佐馬だった。

 一件目で見つけられたのは行幸と言っていいかもしれない。

 この気まぐれすぎる男を見失うと江戸で探し出すのは容易ではない。

 たいていは隅田川の川沿いで釣りをしているが、夜釣りはしないらしいので陽が落ちてからはこういった食い物屋を当たるのが、一番確率が高かった。

 

「いいですね」


 伊佐馬の対面に腰掛ける。

 いかつく頑丈な赤銅色に日焼けした大男と、柳枝のような色白の美青年とでは、あまりに似つかわしくない。

 ただし、この二人が酒を酌み交わしはじめるとなんともいえない落ち着いた空気に変わる。

 同席していない、同じ店にいるだけの他の客でさえ、その雰囲気を感じ取っていい気分になるほどだった。

 何故だかはよくわからない。

 相性というものだろうか。

 それだけ伊佐馬と伯之進がひとかどの男ということかもしれない。

 この空気をとくに好んでいるのは誰であろう伯之進である。

 彼は自分が距離を置かれやすい性質だとわかっていた。

 奉行所のものたちは世襲ということもあり彼のことを幼少の頃からよく知るものが多いせいで、さほど壁を感じないが、町民たち、特に岡っ引きなどからは随分とおそれられているのも。

 だからといって、伯之進が自分の有り様をやめることはできない。今更、無理なものは無理だからだ。

 それゆえ、一緒に酒を飲んでいるだけで周囲まで安らかになってくる伊佐馬との酒盛りが好きだったのだ。


「珍しいのお、同心の格好でないとは」

「道場に出稽古に行った帰りですよ」

「わいつ、確か柳生新陰流だったな。……江戸にもまだあるのか」


 伯之進は苦笑した。

 

「柳陰斎さまが亡くなられて、宗在、俊方さまの代になってからは将軍家指南役からも外れたとはいえ、いまだ新陰流の剣力は健在です。下目黒の増上寺のそばに正木道場というのがありましてね、私も子供の頃から通っていました」

「そういえば三学圓之太刀から、合撃がっしを打っておったな。いい腕だと見惚れたものだ」

「権藤さん、新陰流に詳しいですね」

「わしは紀州の産まれだからの。徳川頼宣さまが木村助九郎どのを指南役に招いたことで、わしを含め、武士はみな新陰流を学んだものよ」

「紀州藩の武士は武芸百般に優れているときいてますね。確かに、権藤さんも強かった」

「なに、わしなんぞは嗜み程度の力任せの介者剣術よ。まともな剣士には歯が立たん」


 そんなことはないでしょう、と伯之進は思った。

 少なくとも今の江戸でこの漢を真っ向から仕留められるものはほとんどいないはずだ。

 もちろん、伯之進自身は例外にあたるが。


「……では、組み打ちはいかがですか。使えますか?」

「柔術か?  新心流四代目の関口氏暁せきぐちうじときどのに指導されたというものが知人におったが、わしは知らんな。ずっと鯨を獲ってばかりいたからな」


 二言目には鯨の話をしだすこの大男のいうことに嘘はないようだった。


(権藤さんならわかるかと思ったが、やはり実物をみないと駄目かな)


 友である男ならと思ったが、空振りに終わったようである。


「―――そういえば権藤さん。河童の夜鷹という、変わった夜鷹のことをご存知ですか?」


 思わず、酒の肴にいいかもしれないと徳一に伝え聞いた話を口にしたとき、伊佐馬の目つきが変わった。

 鋭敏すぎる伯之進でなくとも、誰であってもわかるだろう変化だった。


「なるほど、今日の私はついているようです」


 馬喰町で死体を発見して、数刻しか経っていないのに手がかりに辿り着いたかもしれない。

 運がいいとはその日の伯之進のためにあるような言葉かも知れなかった。


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