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陸のくじら侍  作者: 陸 理明
第一話 「くじら侍と青碕伯之進」
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海より如来る



「庄吉! 庄吉!」


 女の金切り声が響き渡る。

 その女のことを知らずとも、何が起きているのかを誰であっても察することができる必死な叫びだった。

 我が子を呼ぶ母の悲痛そのものな叫び。

 女は海の彼方へと、腹を痛めて産んだ愛し子の名前を呼び続けている。


「どうしたい? 流されたんか?」


 事情を悟った漁師たちが駆け寄った。

 もう夕方だ。

 漁はとっくの昔に終わって、一通り明日の支度を終えてから酒をかっくらっていた浜の漁師たちであった。

 ほとんどのものがもう出来上がっている。

 呂律が回らないものがほとんどであった。

 それでも我が子を探す女の声を無視できなかったのだ。

 彼らも親であり、子であったこともあるからである。


「わかんないのよ! でも、ついさっきまでは岩場で遊んでいたの!」


 女の指差す先には、潮の引いた岩場がある。

 満潮時は沈んでいるが、潮が引いた後ならば小魚や海老などがとれるぐらいの岩場だった。

 子供たちの遊び場としてはちょうどいい。

 波が強ければ別だが、今日は風もなく、雲もない快晴の一日だったので、母親がわずかな間だけ放っておいたとしてもさほど問題はなかったはずだ。

 だが、女が少しだけ目を離したすきに子供は消えていた。

 最初は海に落ちたのかと思った。

 白い波間のどこにも見当たらないので岩場に接する道を探した。

 子供が歩いていくとしたらそこしかない。

 しかし、そこにも息子の姿はなかった。

 本当に波に攫われてしまったのか。

 女は叫んだ。

 声の限りに我が子を呼ぶ。

 それでも返事がどこからか聞こえてくることはなく、恐慌状態になりながらも女は漁の船が並べられている浜辺へと向かった。

 息子がいるのではないかというありえない期待を抱いて。


「悪いが、さっきからガキはみなかったぜ」

「ああ。ここらにやってきたら、いくらなんでも目に付かねえはずがねえ。おい、誰か見かけたか?」


 酔っ払っているものたちは必死に記憶の重箱をつついたが、まったくでてこなかった。

 つまり、女の子供はこの浜辺には来ていないということであった。


「やっぱり流されたんじゃねえのか。浜辺ここは岩場のあたりの足元がすぐに深くなる。ちいせえ童だと海に落ちたときに運が悪いと派手な波に巻き込まれて、ぐるりと回ってすぐに気を失っちまうんだ。そうなったら、いつもはどんなに河童な野郎でもあっというまに沖にいっちまう」


 この土地で産まれ、漁を生業として生きている男たちはすぐに見当をつけた。

 彼らは目の前の海を知り尽くしている。

 だからこそ、怖さもわかっていた。


「庄吉……っ」


 女は崩れ落ちた。

 さめざめと泣き続けている。

 同情心がわいた漁師たちは顔を見合わせた。

 一人が小舟の方に走り出すと、すぐに他のものも続いた。

 あまりにも酔っているものは母親に声をかける役として残し、海に出て泳げる程度の酔いのものは沖に出て、庄吉を探すことにしたのだ。

 肚さえ据われば男というものは勇敢な生き物である。

 運が良ければ波間に漂っているのを見つけられるかもしれないし、溺れたときに海水を飲んでいなければ蘇生の可能性もある。

 泣き叫ぶ女のために一肌脱いでやろうじゃないか。

 男たちは自分たちが思う以上に情に篤いものたちであった。

 母子の情愛に動かされたのである。

 大勢で砂の上に小舟を走らせて海面に乗り出そうとしたとき、一人が目をすがめた。

 進行方向、つまり海上に黒い点を認めたからである。

 漁師だからこそわかる。

 大きさから船ではない。


「どうした?」

「おい、あれ」

「あれ?」


 小舟を浮かべようと手を動かしながら仲間たちも沖をみる。

 確かに何かが見えた。

 夕日に照らされ、表面が輝いているようにさえ感じられた。

 しかも、それは浜辺に近づいてくる。


「なんだ?」

「もしかして勇魚いさなじゃねえか。ちょい昔に見たことがある」

「馬鹿なこというな。江戸の海に鯨なんぞやってくるもんか。ありゃあ、黒潮がこん海にゃあ来ねえやつらだ」

「―――鯨じゃねえなぞ。人だ、きっと。泳いでこっちにきている!!」

「まさか」


 当初、海の最大級の生き物である鯨と間違えられた黒い点は徐々に大きくなっていき、そのうちにはっきりと海原を悠然と泳ぐ人であることがわかってきた。

 だが、近づいて来れば来るほど眺めている漁師たちは、あれは人ではなくて鯨なのではないかという奇妙な想いに囚われてしまう。

 時折、水をかく腕が伸ばされたとき、鯨の手鰭(手羽)に思えてならないぐらいだ。


(人が鯨にみえるはずはないのに)


 やってくる泳ぎ手は足が付く位置を見極めると悠然と立ち上った。

 黒い陽に焼けた肌を持つ逞しい男だった。

 襦袢らしいものもつけず、腰の周りに革紐らしいものを回しただけの素っ裸である。

 鯨の中でも最も恐れられている抹香鯨が二本の脚で立っているような大男であった。

 漁師たちの目が丸くなる。

 異様なまでに盛り上がったいかり肩をして、逆三角形の逞しい筋肉の塊を見せつけられたことだけでなく、男の背中に担ぎあげられた子供の姿を発見したからだった。

 幾人かは見覚えのある子供だった。

 それは庄吉であった。


「おい、あんた……」

「それ……」


 漁師たちが呆然としながら指を差すと、


「おう、こん童子か。沖に浮いておったんが目に入ったゆえ、思わず拾っておいた。ゆがらの村の子か?」

「あ、ああ、波にさらわれたらしくてよ。助けに舟を出すところだった」

「ならば拾っておいてよかったな。溺れたときに気を失っていたおかげだろうが、水は呑んでないはずだ。早よ、介抱してやれ」


 粗野そのものの見た目には似つかわしくない優しい手つきで肩から子供を降ろすと、漁師たちに手渡そうとする。

 その様子を見て母親が駆け寄ってきた。

 ほとんど半狂乱だった。

 息子の名前を喉が枯れてしまうぐらいに連呼する。

 男というものは湿った光景は苦手なものだが、この時ばかりはなんともいえない温かい気持ちになれた。


「―――運が良かったのお」


 目じりを細めてにっこりと笑うと、男はゆっくりと歩き出した。

 このときになって初めて漁師たちは男の腰の革紐に短い刀らしきものがくくりつけられているのに気が付いた。

 立ち居ふるまいからして、間違いなく武士の様であったが、漁師たちの誰もこんなおかしな侍は知らない。


「あんた、いったいどこから来たんだよ。なにもんなんだよ?」


 この場にいたすべてのものが聞きたいと願う問いだった。

 自分たちと同じように海を生業としているものであろうことはわかる。

 しかし、確実に自分たちとは違う。

 漁師でも、水夫でも、ましてや武士というものとは根本的に違う生き物にしか見えない。

 まるで補陀落まで渡っていた仏が海から帰ってきたかのようにさえ思えたのだから。

 海からやってきた男は顎をしゃくっていった。


「わしはこの海の果てで鯨魚いおを獲っておった。ただそれだけの男よ」


 本人にとっては心底どうでもよいことという風な返答をしてから、男は一瞬だけ無表情になり、バツが悪そうに遠くを見た。

 それから、漁師たちに気まずそうに、


「あーものは相談というが、ゆがら、わしに着るものを一枚くれぬか。なに、決して、童を助けた恩を返せと言うてるわけではないのだぞ。ここから江戸まで歩いていくとなると、さすがに必要となるだろうから仕方ないのだ」


 と、剥き出しになった股間のものを困ったように見下ろしていた……





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