5:渚の魔女
心地よい潮風が吹き、小気味好いさざ波の音が響いてくる真っ白な砂浜を歩く。
傾いてきた陽光による朱が混じり、紫色にも見える海と鬱蒼と茂る森に挟まれた砂浜は、人が滅多に足を踏み入れないのか荒らされた様子はなく、淡い橙色に彩られた美しい景色を作り出している。
シオンが裸足でサクサクと粒子の細かい砂を踏むと浅く足跡が残り、波によってさらわれて足の裏をくすぐられ思わず笑みがこぼれる。歓声をあげてはしゃぎたくなるのを我慢し、シオンは黙々と先を進むアザミの後を追って小走りになった。
「師匠…もう随分街から離れちゃったけど、まだかかるの…?」
師の後ろに追いついたシオンは、一度だけはるか後方に見える街に目を向けて尋ねる。調査の途中で寄るところがあると告げた魔女は、行き先を告げることなく歩き始めてしまった。
慌ててシオンはそれについてきたが、次第にあたりに人気がなくなって行くことに徐々に訝しげな表情を浮かべていた。アザミの言葉を思い出すと、何か今回の一件に関わる情報を持っている人物がいるらしいが、今歩いているのはどう見ても未開発の自然の中であり、誰かいるようには思えなかった。
「……別にあんたまで来る必要はなかったんだけどね。単なる時間を潰すために行くだけなんだし…大人しく待っていてくれればその方がよかったんだけど」
「それはいや。師匠の行くところに私は行く。置いてけぼりにされるのは我慢できない」
「……堪え性のない馬鹿弟子が」
なぜか年齢不相応に育った胸を張り、フンット鼻息荒く誇る弟子に呆れたため息をつく魔女は、軽く肩をすくめると半目で視線をそらす。
師の行くところにはいつもついて行きたがる、そして目につくあらゆるものに興味を惹かれる落ち着きのない弟子を、アザミは常に呆れながらも好きにさせている。しかし今回に限ってはその好奇心を本気で鬱陶しがっているようで、口からこぼれた言葉にはわずかに棘が混じっていた。
常人では気づかない変化に気づいたシオンは流石にばつが悪そうに首を縮め、話題を変えねばと必死に頭を回転させた。
「こ、こんなところに住んでるなんて……師匠の知り合いは随分偏屈な人なんだね」
「……私並みに人嫌いだからね。生活のためなら必要最低限顔を合わせるぐらいはするけど、それ以外じゃ口を聞くこともしない子よ。……せいぜい機嫌を損ねないようにしなさい」
面倒臭そうに答えるアザミに、シオンは師が自分を連れて行きたがらなかった理由を察して納得する。
自分に対しては、そして町中などではそんな素振りを見せないが、アザミは必要以上に人と関わることを嫌う。どういう理由かは聞いてはいないが、生活費目的の仕事などでも極限まで人と会話することを疎い、用が済めばさっさと相手の前から姿を消してばかりいる。
そんな市と同じくらい人を嫌っているのであれば、初めて顔を見せるシオンが訪れれば、確かに何かしらの良くない反応を見せるだろう。
そこまで考え、無理を言ってついてきたことが申し訳なくなったシオンだったが、ふと聞こえてきた「音」に思考を切り替えさせられた。
「…? 今の音は…?」
つい立ち止まり、空気を咲くように聞こえてきた甲高いその音の元を探してしまう。辺りをキョロキョロと見渡し、一体どこから聞こえてきたのかと眉間にしわを寄せる。
しかしその間に、アザミがシオンを放置して先に行ってしまったため、やむなく捜索を中断して後を追いかける。小走りでアザミの後ろに追いつくと、シオンは知らぬ間にすぐ目の前に一軒の小屋が立っていることに気がついた。
先ほど見渡していたときは気づかなかったのに、と不思議そうに目を丸くするシオンをよそに、アザミが小屋に近づきとに手をかけようとした時だった。
「…今日は店は開いてないよ。出直してきな」
叩こうとしていた戸の奥から、しわがれた老婆の声が聞こえてきた。ややガラガラだが、医師ときの強さを表しているかのような力強さがあるその声に、シオンは思わず背筋をピンと伸ばしてしまう。
アザミはわずかに眉間にしわを寄せただけで、声の主のいる方に向けて少し厳し目の視線を送る。やがて小さくため息をつくと、相手の了解を得ないままに遠慮なく扉を開き、小屋の中へ入室して行った。
「……随分でかい口を叩くようになったね、小娘が」
口汚くも、どこか親しみを感じさせる言葉を吐きながら入室したアザミの後に続き、シオンは恐る恐る小屋の中を覗き込む。
最初に感じたのは何十もの薬草が混ざった独特の匂いで、嗅覚に襲いかかる強い衝撃にシオンの顔がくしゃっと歪む。鼻を手で覆ったシオンはそれ以上小屋の中に足を踏み入れられず、ずんずんと先に進むアザミの背中を目で追うことしかできなかった。
すると先に進んだアザミが向かう先で、窓際の椅子の上に乗った毛布の塊がもぞりと動いたことに気がついた。
「……来たわよ、メルヴェ」
「これはこれは先生……ここへ来るのは何十年ぶりでしょうね」
アザミが毛布に向けて話しかけると毛布が中からかき分けられ、しわだらけの老婆の顔が覗き、目の前に立つアザミを見上げて不敵な笑みを浮かべた。
妙に鋭い眼光を放つ、メルヴェと呼ばれた老婆は、自分が座っている車椅子の車輪を億劫そうに動かし、アザミの正面を見られる位置に移動する。アザミはそれに特に手を貸そうとはせず、壁に背中を預けると煙管を咥えて相手に断る事なく勝手に燻らせ始めた。
老婆はハッと鼻で笑うと、車椅子の上で頬杖をつき、皮肉じみた笑みを深めた。
「こんな、体の自由も碌にきかない婆の元へ何の用でしょう?」
「……大した用事じゃないわよ。あんたの様子見と世間話、そのくらいよ」
「はっ…! 魔女殿も随分お暇なようで。大戦が終結して以来、世の人間は大抵腑抜けたか平和ボケしたと思っておったが、ついにあんたまで螺子が緩んだかぇ!」
「……そうねぇ、いっそのことそうなれたらいいんだけどね」
フゥッと煙を吐いたアザミは、表情をいつもの無表情よりも数段冷たい凍りついたものへと変化させ、半目で虚空を見据える。
吐いた煙が冬場の息のように見えるほど、アザミの纏う雰囲気は言い表しがたい冷たさを有し、何もない底に忌々しい何かがあるような錯覚を起こさせる。
それを見たメルヴェの笑みはすぐに消え、ややばつが悪そうにアザミから目をそらしてため息をついた。
「……私の仕事はまだ終わらないわ。あのクソガキを完全に仕留めるまでは」
「厄介なものを背負ったものだ……わかったよ、少しだけ愚痴に付き合ってやろうじゃないか」
やれやれとでも言いたげに肩をすくめたメルヴェは、気怠げに車椅子を動かして部屋の奥の方に向かう。
メルヴェが飲み物を淹れるためのポットやカップなどの道具を引っ張り出し始めると、時期を測っていたシオンが恐る恐る小屋の中に顔を覗かせ、抜き足でアザミのそばに近寄っていく。
先ほどから師が黙り込んでしまい、妙に居心地の悪い空気になったために口を挟めなかったが、やがてシオンは意を決してアザミに振り向いた。
「あの……師匠」
遠慮がちに溢れたその声に、簡易制のランタンに火を入れようとしていたメルヴェがピクリと反応し、シオンの方に振り向いてギロリと睨み付ける。
思わずビクリと背筋を伸ばしたシオンは、老婆がまじまじと自分を観察してくるとますます身を強張らせ、冷や汗を流して立ち尽くしてしまう。しばらくしてメルヴェは、探るような鋭い目つきをやめてフッと笑みを浮かべ、先ほどよりも少しだけ柔らかい視線をシオンによこした。
「…おや、最後の弟子はあたしだと思ってたが、また性懲りも無く連れ回してんのかい。物好きなお人だよまったく…」
「……別に希望者を募ったわけじゃないわよ。単に捨てるに捨てられなかっただけ、此奴を一人で放り出したら何するかわかったもんじゃないのよね」
「…なんかものすごく貶されてるんですけど」
シオンが情けない声で応えると、アザミは呆れたため息をつき、メルヴェはさもおかしそうに笑い声をあげる。
火をつけたランタンの上に金属製のやかんを置き、水を入れて沸騰するのを待つ間に、シオンがアザミの耳元に口を寄せた。メルヴェがシオンを見ながら呟いていた言葉が気になったからだ。
「師匠…今さっき最後の弟子って」
「……あぁ、あんたには話したことはなかったっけ」
ふぅっと煙を吐き、自前の灰皿に煙管の先端をカンッと軽く叩きつけたアザミは、虚空を見上げてため息をつく。
老婆は魔女が物思いに耽る姿に横目を向け、遠い目を浮かべながら茶を淹れる作業を続けている。どことなくその横顔からは、懐古の念のような切なげな様子が感じられる。
アザミもメルヴェをじっと見つめながら、どこか遠い過去に想いを寄せているような眼差しを浮かべていた。
「……あんたと会うよりもずっと前、何十年前になるかしらねぇ。この辺りに滞在していた時期に術を教えていた娘がいたの」
老婆を見つめる魔女の目が、やがて呆れたような半目に変わっていく。かつて教えを授けていた頃のことでも思い出し、現在の彼女とと比較でもしているのか、残念そうなため息が溢れていた。
「……あの頃はもっと可愛げがあって、素直な子だったのにねぇ」
「はっ…! 何者にも見下されない強い女になれと言ったのはあんたですよ、先生」
どうしてこんなことになった、とでも言いたげなアザミの態度にメルヴェは威勢のいい声で応える。請われてもお前の望むような人間になどなってたまるか、というような気の強さを感じさせる返事に、アザミはますます残念そうに重い息を吐く。
シオンは初めて見る師の反応に目を見開きながら、続いて茶葉を入れたポットに湯を注いでいるメルヴェに視線を移す。
まだ十代の年端もいかない自分よりも、何十年も長く時を経てきた女、今の自分がいる場所にいたという老婆から、シオンは目を離せなくなっていた。
「……私の、姉弟子」
「いつの間にやら、随分年の離れた妹弟子ができたもんだ……おぉ、小生意気そうな目をしてること」
湯に茶葉の味が染み渡るのを待つ間に、メルヴェがシオンの元に近寄って再度顔を覗き込んでくる。少女の頬を両手で挟み、グッと半強制的に視線を合わせたメルヴェの目が、シオンの瞳の奥を探るように凝視する。
シオンは思わず息を呑み、されるがままに姉弟子と見つめ合う。何故か恐怖はない、しかし動いてはならないという強迫観念のようなものが生まれ、少女は無言のまましばらくの間不安定な姿勢を保たされた。
「名は、何と言うんだい?」
「し、シオン……です」
「シオン……あぁ紫苑か。なるほど…覚えたよ」
シオン自身もよくわかっていない、不思議な響きを持つ名を聞き、メルヴェは勝手に納得したように頷く。
ニヤリと笑みを浮かべると老婆は手を離し、車椅子を動かしてポットの方に戻る。相手の意図が見えず困惑の表情を浮かべていたシオンは、首を傾げながら人数分のカップを用意するメルヴェに一歩近寄ってみた。
「メル…ヴェ…さん、でいいよね。さっき呼ばれてるの聞いたけど」
「ああ…好きに呼ぶといいよ。なんなら呼び捨てでも構わない」
「う、うん」
言葉こそ優しいが、老婆が発する声はどこか凄みを感じる近寄りがたいものだ。言われた通りに呼び捨てにしていいものかと一瞬悩んだが、本人がいいというのだからかまうまいと自分を納得させる。
作業の邪魔をしないように注意し、一定の距離を保ってメルヴェに向き直ると、ちらりと少しだけアザミに視線を向けてから囁くように問いかけた。
「師匠に教わってたのって、いつのこと……?」
「ちょうど今のあんたと同じくらいの年頃さ、ひひひ…!」
老婆の返答に、シオンは目を丸くしながらもう一度振り向き、まじまじとアザミを凝視する。
老婆が言う自分と同じ年頃の姿を想像してみるが、自分の想像力が貧困なのかうまくいかず、少女の格好をした老婆というかなり不気味なものを脳裏に浮かべてしまう。
横から見える微妙な表情で、弟子が非常に失礼なことを考えていることを察し、アザミが咎めるような鋭い視線を送ると、シオンはそれに訝しむような懐疑的な視線を返してきた。
「前々から気になってたんだけど師匠……あんた一体幾つなの? 」
「……んなもんどうだっていいのよ、馬鹿弟子。淑女の年齢聞きたがるなんてデリカシーがなさすぎるわよ」
「いや…聞くからに支障はもう淑女って年齢じゃーーーうっ⁉︎」
余計なことを口に仕掛けたシオンの脇腹に、アザミの苛立ち混じりの肘鉄が食らいつく。思ったよりも急所に入ったのか、シオンは文句を言う暇さえ与えられずその場にうずくまり、涙目で師を睨み付けることしかできなくなった。
魔女とその弟子の愉快な戯れ合いに小さく笑みをこぼし、老婆は湯と茶葉を入れたポットを両手で持って揺らし始める。いい香りが辺りに広がり始めると、そこでようやくアザミは視線をメルヴェの方に戻し、やや厳しめの視線を向けた。
「……茶はそれぐらいでいいからあんたもさっさと話しなさいよ」
「せっかちな師匠だよ、まったく……時間は有り余ってるくせに」
呆れたため息をついたメルヴェは一度ポットを置き、車椅子を動かすと小屋の奥へ移動していく。
そこには本の山や紙の束、インク瓶や羽根ペン、ビーカーや試験官といった様々な用途の道具が乱雑に積み上げられ、埃をかぶっている。それが何を取り扱っているのかわからない不気味さに一役買っていて、いかにも魔女の弟子らしい雰囲気を醸し出している。
メルヴェはそこに向かい、ばさばさと埃を巻き上げながら物をかき分け、何かを探し始めた。
「話題はわかってるよ……例の化け物騒ぎだろう。うちにも何度か相談を持ちかけてきた奴がいるよ」
「……関連しそうな情報はわかる? できれば漁師に連中が何に怯えてるのかわかるようなもの」
「さぁてね……関係があるとすりゃあ…アレかね」
ようやく引っ張り出したのは、装飾も字も何も施されていない、単なる紙の束のような一冊の書物。読むためではなく、情報を記録し保存することを目的としたそれを、メルヴェはアザミに手渡した。
かなり年季が入っているように見える紙の擦り切れ具合に、ふと興味を抱いたシオンがアザミの横から覗き込んだ。
「……知ってるの?」
「こいつは怪談だの昔話というよりも……過去の事件をもとにした都市伝説のようなもんだがね、これが一番関わりが深そうな話だよ」
メルヴェはアザミに書物を預けたまま、またポットに近づいて揺らし始める。香りの強さから十分味が染み込んだと判断した老婆は、先に用意しておいた人数分のカップに出来立ての茶を注いでいく。
芳醇な香りに、美しい赤茶色の液体が注がれていくと、シオンはそちらにも興味を惹かれて、思わず差し出されるのを待ってしまう。
メルヴェは茶を適量注ぎ終えると、両手でカップの持ち手を掴んでアザミとシオンにそれぞれ差し出す。アザミはそれを受け取り、代わりに預かっていた書物を返して足を組んだ。
全員に飲み物が渡ったことを確認すると、メルヴェは少しだけ背筋を伸ばし、手元に戻ってきた書物の一項目を開き、読み聞かせ始めた。
「ーーー今から40年ほど前の話さ」




