1:鴎の鳴く朝
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青々とした葉を生やした木々が立ち並ぶ、ほとんど崖のようにも見える傾斜の急な坂道が延々に続く獣道。当然人が通れるような整備などされてはおらず、大樹の根や岩がそこかしこから張り出して歩行を妨げ、非常に歩きづらい道となっている。
そんな誰も通りたがらない山道を、さほど息を荒げることなく軽々と進んでいた物好きな黒衣の魔女は、ふと立ち止まって後ろの道を振り返る。自分が登って来たばかりの険しくきつい道を歩く弟子の様子を見ながら、ある程度追いつくまで少しだけ待ってやる。
だが弟子は数歩足を踏み出しては休み、荒い呼吸を繰り返しては大量の汗を滴らせるということを繰り返し、一向に魔女に追いつく様子を見せない。なんとか置いて行かれないようにと懸命に足を動かしているが、彼女の体は脳の指示を受け付けず、ふらふらとおぼつかない足取りになってしまっていた。
眼帯の魔女アザミはじっと弟子であるシオンを見つめ、気遣わしげな視線を向けて佇む。しかしその感情を表情に出すことはせず、内心を隠すように目を伏せると小さくため息をついてやや冷たく告げた。
「……歩調が乱れてるわよ。だらしがない」
がくがくと震え、いまにも崩れ落ちそうなほどに疲弊しているシオンに、アザミは厳しい評価を下す。非常に辛辣な一言だが、少なくとも虐待や悪意があってそのような言葉をぶつけているわけではなく、弟子であるシオンに対する愛の鞭としての物。
魔術という武器にも凶器にもなりうる力を持つものとして、精神的にも肉体的にも強く鍛え上げるためにあえて冷たく突き放すような物言いをしているのだと、シオンは苦痛の中でも考えていた。
しかしそれでも、少しぐらいは労ってくれてもいいのではないかと物申したいのは確かだった。
「ハァッ……ハァッ……こんなに…切り立った山道を……休みもなしに歩いて、…それで平気な顔…してる師匠が……げほっ…おかしい」
「……体力とかそういう問題じゃないわ。山道に合わせた歩き方をしているだけ……せっかく手本を見せてるんだから、自分の眼で見て盗む努力をしなさい」
「む~…」
いつの間にか取り出した煙管を咥え、紫煙をくゆらせている師を見てシオンは半目で唇を尖らせる。
確かに、山道を登り始めた当初に張り切りすぎ、ペース配分を間違えて途中から完全に失速してしまった自分が悪いのは確かだし、師は師で手本を見せるようにゆっくりと歩いていた。それに気づかなかった自分が抜けているのはわかっているものの、一言でも「頑張れ」といってくれればいいものを、と思ってしまうのだ。
師がそんな優しさを投げかけてくれないのはもはや承知のことだが、不満をこぼさなければ今にも破裂してしまいそうだった。
「だいたい…何でこんな山道を通るの…? 獣道だし急勾配だし、人が通る道じゃないと思うんだけど」
「……そりゃあ、これから向かう国はその方が都合がいいからよ」
「こっちはいい迷惑だよ…」
アザミが視線で示す先、まだまだ続く急勾配の坂道を見上げてシオンはがっくりと肩を落とす。
朝早く、それもまだ日が昇らないうちから宿を出て、数時間歩き続けたというのにまだ頂上に着かないのかと、今までの努力が全く報われないような気がして嫌になる。
アザミは陰鬱な表情のシオンに小さく嘆息すると、先ほどとはまた違う方向に向かって歩き始めた。
「……そんなに不満げな顔するんじゃないの。ほら、こっちよ」
「? こっちじゃないの?」
「……山を越えるのに、頂上まで行く必要なんてないわよ。ここまで登ってきたのは、地質的に滑りやすい道を避けるため」
呆れたように答えるアザミを、シオンは訝しげに見つめながら後を追う。
新たに選んだ道は、これまでに比べれば傾斜も緩くなだらかで格段に歩きやすい道で、シオンは疲労で死にそうになっていたことも忘れて上機嫌で山道を進む。山の獣も多く利用している道なのか、道のあちこちに転がっている糞や食べ残しなどを避けながら、アザミの先導のもと深い森の中を進んでいく。
ふと、シオンの耳が水音を拾い、興味を引かれたシオンは音のする方に寄っていく。木々の間から目を凝らしてみれば、山道の下の方に幅の広い川が流れていて大きな音が響いてくるのがわかる。さらに詳しく眺めてみると、岩場が多いためか非常に速く激しい流れに乗る大き目の船の影が見えた。
「川? …って船があるのに⁉」
「……よく見なさい。あれは人が乗るようにできてないのよ。大量の荷物を運ぶためだけの特別な船……人が乗れる方は高いのよ」
「ケチ…」
言われて船の方を見てみれば、川を進む船には多くの荷物が積み込まれ、太い縄と布で頑丈に縛り付けてあるのが見える。激流が起こす揺れで吹き飛ばされないように、細心の注意を払って処置がなされているらしい。
それを操る船頭も熟練者でなくてはならないのだろう。表情こそ見えないが、船の前方を凝視して激しい揺れの上で微動だにしていなかった。
「……今さらあれに乗らなくても、もうすぐ見えるわよ」
激流と戦う船頭を見つめ、どこか羨ましそうな眼差しを送っている弟子に一言注意し、アザミはさっさと先へ進んでしまう。ハッと我に返ったシオンが慌てて追いかけ、二人で静かな森の道を黙々と進んでいく。
すると、師弟のもとに軽く風が吹き抜け、それが運んできた匂いにシオンがわずかに目を見開いた。どことなく湿っぽい、奇妙な匂いを孕んだ初めての匂いに、シオンは強く好奇心を刺激され、思わず歩く速度を上げていた。
アザミを追い抜き、匂いが強くなる方へと急いだシオンは、少しだけ木々が開けて生えている場所に辿り着いて停止する。そして木々の間から覗いて見える光景に、大きく目を見開いて満面の笑みを浮かべた。
遠く地平の彼方まで広がる青い輝き、陽光を反射させて眩しく光る水面。どこまでも大きく広がる空とは異なる深い色のそれは、一瞬呆けてしまうほどに雄大で、美しく見える。
シオンは思わずそれ、師匠からの話や人の噂でしか聞いたことがない海を目の当たりにして、言葉もなく立ち尽くしてしまっていた。湖や川とは比較にならないほどに大きく広い、世界の七割を占めるという水の宝庫に、感動のため息をついていた。
「師匠…! これが海⁉ これ全部⁉」
「……そうよ。ずっと内陸しか旅してこなかったものね……そんなに新鮮?」
「うん! すごく…奇麗」
絵画や想像などでは決して味わえない、本物を目にすることができたシオンは、師の呆れた視線も気にした様子を見せず海を凝視し続ける。鮮やかな色彩という視覚への刺激だけではない、塩分と水分を含んだ潮の香り、湿り気を帯びた風の感触、遠く聞こえてくる波のさざめきの音、五官の全てにじかに伝わってくる情報の全てに、シオンは圧倒され魅了されていた。
アザミはしばらくの間、頬を紅潮させキラキラと目を輝かせて棒立ちになっている弟子を見つめていたが、いつまでたっても動き出そうとしないことにため息をつき、ぽんとシオンの頭を撫でて歩き始めた。
「……さて、じゃああとは降るだけだから、今度はちゃんと私のやり方を見ておきなさい。上るよりはましなように思えるけど、降りでも体力を使うんだから」
「…はーい」
もう少し感動に浸っていたかった、そんな感情がありありと見て取れる不満げな視線を感じたが、アザミ自身も多少の疲労を感じていることもあり気付かないふりをする。初めての光景に興奮する弟子には悪いが、海など長い時間の中で数えきれないほど見てきた彼女にとっては退屈な時間でしかない上、限られた時間を無駄にしたくもない。
半目で見つめてくる弟子を無視し、アザミは今度は山を降る坂道に足を踏み入れた。
「はひぃ……はひぃ……」
「……ほら、しゃんとしな。もうすぐ着くよ」
それから約一時間、上りと同じく整備されていない獣道を降り続けたアザミとシオンは、ようやく人影がちらほらと見えてくる広い場所に辿り着く。案の定シオンは体力を大きく削られて息も絶え絶えになり、アザミから借りた杖を支えにしながらようやく立っている状態になっている。
ぼたぼた滴り落ちる汗をぬぐうと、シオンは濡れた前髪の向こうに見えた光景に目を奪われ、荒い呼吸のまま、またその場に立ち尽くしていた。
「……山道が整備されてない理由がわかった?」
アザミが尋ねると、シオンは少しだけ考えるように沈黙してから頷く。
目を丸くして固まるシオンの前を、幾人もの大荷物を抱えた身なりのいい人々が、または大量の箱を積んだ荷馬車を引く馬や獣が通り過ぎていく。誰一人として、驚愕で固まっているシオンに注意を向けるものは折らず、誰もが忙しそうに踏み固められ整備された広い道路を走る。
その道は一つではなかった。大小さまざまな建物が並ぶ向こう側にも同規模の道が広がり、溢れそうなほどの数の人々が荷物を抱えて歩き去っていく。シオンの視界には入っていないが、横だけではなく縦方向にも広い道が通り、互いにぶつからないように注意しながら速足で人々が歩き去っていた。
シオンはそんな、人が何かの塊のように沢山集まって動く光景を前に、言葉を失っていた。これまで見てきたどんな国とも比較にならない、凄まじい人通りであった。
「……この国は元々、小さな漁村が商売に携わるようになってできた場所。ある一人の女商人が代表となり、あちこちに分散していた漁師や商人、職人達を一つに纏め上げたことによって成立した国家。大国となるうえで障害となる他国からの干渉を、険しい山々や激流、海によって防いできたの」
険しい山道を通ってきた時には考えられない、あまりにも多すぎる人の出入り。
魔女たちがただ道の端で立っていても邪魔になりそうなほどに、道行く人は忙しそうに動き回り、微塵も足を止める様子を見せない。
アザミはそれを見やり、若干引いたようにため息をついた。
「……それがこの港国、ライデリカよ」
◇ ◆ ◇
「そこのお嬢さん! 見てってくれよ、西の王国から届いた王族御用達の装飾品だよ‼ ここでなきゃ買えない良い品物ばかりだ! 一目でも見てかなきゃ損するよ‼」
「そこの魔術師様? お嬢さんの新しいおべべにこの布なんかどうだい? 蓬華国で織られた最高級の反物さ‼ 女の子なんだからもっとお洒落させなきゃ!」
「業物が揃ってるよぉ~‼ 海の向こうの名匠が打った武器の数々がうちには揃ってるよぉ~‼ 覗いてってくれよ~‼」
ライデリカの最も広い道から外れ、数多くの店が立ち並ぶ通りに入ってみれば、さすがは商人たちの国と評価すべき熱気が訪問者たちを迎える。
商品の運搬用に広く作られた表の通りとは異なり、外国からの観光者や買い物目的の客のための通りはぎっしりと人で溢れかえっていて、常に気をつけていなければ互いの足を踏んでしまいそうな賑わいとなっている。
アザミとシオンも他の客に倣うように、通行の邪魔にならないように早足でやや狭い道を歩いて行った。
「……必死ね、みんな」
「おぉ…やっぱり大きな街は人通りもすごい…ヤマトと同じくらい」
あちこちの店から聞こえてくる、通りが買っただけの客やみるからによそ者とわかる人を呼び止める声に、アザミは呆れシオンは簡単の声をあげる。
時折シオンが珍しいものや興味を惹かれるものに注意を削がれ、歩く速度を落としているのを目ざとく見つけ、半目になったアザミは弟子の腕を軽く引きながら黙々と進む。
しかしその間、なぜか魔女の視線は訝しげに人通りに向けられ、考え込むように眉間にしわを寄せ続けていた。
「……妙ねぇ」
「? 何が?」
「……いや、何でもないわ」
何か気になっている様子の師に気づき、シオンが不思議そうに問いかけるも、アザミは誤魔化すように視線をそらして先を急ぐ。それでも弟子の目に入らないように、周囲の人々の様子を注意深く観察することはやめなかった。
シオンは何か自分が適当にあしらわれていることに不満げな目を向けるが、アザミがそれに対して反応を返すことはない。あくまで関係がないことだと言われているようだったが、シオンもわざわざ文句をいうほどの不満は持っていなかった。
シオンは店先に置かれている、非常に成功な装飾が施された魔術行使用の杖や魔術道具に目を惹かれ、一切足を止める様子のないアザミに思わず問いかけた。
「買っていかないの?」
「……遊びにきたわけじゃないからね。用事が済むまでしばらく滞在するだけよ。路銀もそんなに余裕はないし…」
「そこの魔女さん! 見てってくれるだけでもいいんだよ⁉︎」
「……間に合ってるわ」
店の商人たちもアザミが高名な魔女であることに気づいたのか、先程からひっきりなしに気を引こうと声をかけてくる。
しかしアザミは視線を向けることもせずに店の前を通り過ぎ、徹頭徹尾無関心を貫き続けた。
シオンは軽く店のものに頭を下げ、やや興味を引かれた魔術道具のことを思い出しながら咎めるような視線を師に向けた。まだ一人前と認められてはいないが、いつか持つべき杖などを見るぐらいは許されてもいいだろう、と。
「杖欲しかったのに……」
「……いい品なのは確かだけど、店先に目立つように置かれたものを選ぶより、自分で苦心して選んだ品の方が愛着がわくし、長持ちするわ」
「ん…」
師の言うことも一理ある、とシオンは後ろ髪を引かれる思いのまま納得する。確かに今のこの衝動のまま高価な道具を買ってしまうよりは、じっくりと時間をかけて自分に最適な相棒を探した方がいいだろう。
今すぐに戻って数々の道具類を見て回りたい衝動を必死に押さえつけ、誘惑を断ち切ったシオンは表情を引き締めながら歩く。
その時、少女の腹が不意に大きな唸り声をあげ、少女の顔が切なげに歪められた。
「師匠…朝はどこで食べる? お腹が空いてあまり頭働かない…」
「……そうね、路銀もそんなに余裕がないわけでもないし、急ぐ理由もないし、宿探しの前に適当な店で済ませようかしら」
「やった…! 魚が食べられる!」
「……いつもよりやたら気分がよさげだったのはそれでか」
日の高さを確かめ、食事にちょうどいい時間帯であることを確認したアザミは、瞳だけを歓喜で輝かせてはしゃぐ弟子に呆れたため息をつく。
さてどこで腹を満たそうかと考え込んだアザミは、ふと脳裏に浮かんだ顔について思い出し、店の並ぶ通りから少し離れた方向へ視線を移した。
「……じゃあ、顔を見るついでにあそこに行くか」
ライデリカの東南、商業区域から数キロ離れた臨海区域。そこは国の中心とは大きく異なり、しんと静まり返ったやや不気味な雰囲気が漂っている異様な街並みが続いていた。
店自体が汚れていたり、廃れて見た目が悪くなっているわけではない。表の通りを歩く人の姿が一切見受けられず、現実離れした静けさが支配しているために、その雰囲気が視界にも影響を及ぼしているのだ。
ある一件の食事処の軒下から顔を出した一人の女性も、目の前に広がっている陰鬱な光景に大きくため息をついた。
「今日も今日とて閑古鳥が泣いてるねぇ……いつまでこんな調子が続くんだか」
潮風でやや傷んでしまった髪を適当に後頭部でまとめた、化粧こそしていないがそれなりに艶のある肌を持つその女性は、人影ひとつ見えない通りに憂いを帯びた視線を向ける。
かつては看板女将として人気だった彼女だが、客足が遠のくと好評だった笑顔を浮かべる機会も減り、日に日に疲弊した表情ばかり浮かべるようになった。当時はもう少しふくよかだったのだが、収入が減ったことでかなり痩せてしまっていた。
「ちょっとあんた! 新聞なんか読んでる暇があったら呼び込みでも仕込みでもなんでもいいから仕事しとくれよ! このままじゃうちは干上がっちまうよ!」
「…うるせぇな、毎日毎日」
「何言ってんだい⁉︎ 私は店のことを思ってだね……って聞きなさいよ!」
女将は店の奥の厨房で黙り込んでいる夫の方に怒鳴るが、彼は鬱陶しそうに返すだけで知恵を絞ろうとする様子はない。
何をすればいいのかわからなくても、とにかくなんとかしようと努力だけでもしてくれと女将が促していると、店主である夫は逆に妻に対して呆れるような視線を向けた。
「…人を呼んだところで、こんな状態の店でもてなすつもりか。俺たちがどんだけ騒いだところで、あの腰抜け共が腰を上げなきゃ話は進まねぇだろ」
「そりゃあ……そうかもしれないけどさ」
店主の有無を言わさぬ正論での指摘に、女将はバツが悪そうに視線をそらす。
動こうとしない夫に腹が立って色々と口が出てしまったが、店主もこれまで何もしてこなかった訳ではないことは分かっている。どうにかしようとして、それでもどうにもならないから何もできないのだと、納得はできなくとも理解はしていた。
また黙ってしまった夫を、気まずげに見やっていた女将は、ふと視界の端に人影が映ったことに気づき、すぐさま表情を変えて店の中に飛び込んだ。
「…! ほら、あんた! 久々のお客だよ! ちゃんと挨拶して!」
女将にバシバシと肩を叩かれ、店主は眉間に深いしわを寄せながら立ち上がる。客が来ること自体はありがたいことだが、嬉しいかどうかで言えばそうとは言い難い。
もてなすなら全力でもてなしたいものだが、満足できるほどのものが用意できないために申し訳なさの方が強く感じられてしまうからだ。
しかし店主は、店の前に現れた二人組の片割れの顔をみると、口元に小さく笑みを浮かべた。
「……ああ、あんたかい。婆さん」
「……世話になるわよ、千次郎」
一人の弟子を連れた眼帯の魔女は、帽子を外しながら不敵な笑みを店主に見せ、肩をすくめたのだった。




