プロローグ:彷徨う亡霊
「―――荒れる波乗る海の漢が、ひとつ網放りゃ魚も惚れる……、村さ自慢の浜人よ…♪」
穏やかな波、一定の周期で聞こえてくるさざめきの音を間隔を測る振り子代わりにしながら、小舟に乗った男が網を引く。海中の奥底に沈められ、様々な物体が付着してずっしりと重くなったそれを、逞しく引き締まった両腕で引き揚げていくが、その横顔に微塵も披露する様子はなかった。
小舟に乗るもう一人、後方で舵を操る男は船がいつの間にかその場所を離れないように、または他の船や生物とぶつからないよう細心の注意を払い、卓越した感覚で船を停留させる。
「浜で夫待つ熟れた海女の、滴る髪の艶やかさ……雄の目引いちゃあ嬶が怒るぅ…♪」
男が網を引くたびにぎしぎしと小舟は軋みを上げ、備え付けられた明かりの火がゆらゆらと揺れる。硝子の器の中に大きめの蝋燭を立てただけという簡易な作りだが、多少の揺れや風があろうとも簡単には消えないようにできていて、水場で働く漁師たちの間では重宝される。
いくら慣れた男たちとは言え月明かりや星の光だけで網を上げるのは難しい。今の男たちのように、朝陽も顔を覗かせていない深夜や早朝に仕事をするなら猶更であった。
「ハア ドッコイショ ドッコイショ……ん?」
上機嫌に仕事を続けていた漁師の男だったが、ふと何かが視界の端に映った気がして手を止める。
舵を操り海の様子を見ていた相棒は、男の様子が変わったことに気づき訝しげな視線を向ける。さっきまで暢気に歌っていた男は、見失った何かを探すようにあたりを見渡しては、不思議そうに首を傾げていた。
仕事の手が止まっていることに眉を顰め、男の相棒は少しだけ咎めるように視線をきつくし、ため息交じりに男に話しかけた。
「おい、どうした? 手ぇ止めてねぇで網引け。陽ぃ昇っちまうぞ」
「お、おう、すまん……だがさっきそこらでなんか光らんかったか? 人の目のようにも見えた気がするんじゃが…」
「あ? お前…若ぇ者でもあるまいし、何をびびっとるんじゃ」
かすかに不安をはらんだ眼で辺りを見渡す男に相棒の男は苦笑し、いい年をして怪談話などに弱い男に呆れる。波の音や己の息遣い以外聞こえない真っ暗な夜の海は確かに不気味な印象を抱かせるが、いまとなっては何年何十年と漕ぎ出してきたもはや庭のような場所である。恐れる理由などあるはずもない。
確かに最近、沖に奇妙な光る何かが現れては、漁師に取り憑いて悪さをしたり、正気を失わせたりするという噂話を聞くようになったが、詳しく聞いても曖昧な情報しか伝わってこない。端から聞けば、悪戯好きな子供が好んで流行らせるような大したことのない話であった。
「ユンのところのヒヨっ子がそんなことを言って、漁に出なくなったと言っとったがのぅ。お前は何年漁師をしとる」
「誰もびびったなんぞ言うとらん! だが最近、この辺りの海で得体の知れん何かが現れては人を襲うと言う話じゃ……備えとっても罰は当たらん」
「ばかちんが! 若もんの言うことに踊らされてどうする! しっかりせぇ!」
相棒に肩を叩かれ、激励されても男の表情が晴れる様子はない。やはり視界に何か映ったことが気になるようで、頻りに辺りを見渡しては眉間にしわを寄せていく。月明かりでわかりづらいが、顔色も見る見るうちに悪くなっているようだ。息もやや乱れ始めている。
網を引く手も止まったままで、掛かった獲物がまだ船の上に上がっていない。このままでは自由に動けず呼吸もできず、窒息してせっかくの獲物の質があっという間に落ちてしまう。鮮度が命である魚介類の狩猟を生業とする男たちにとっては、あってはならない失態に繋がるところである。
もう一度叱りつけようとした相棒の男は、ふと己の視界の端にも何かが映り始めたことで動きを止め、辺りを見渡した。
「……何じゃ、霧が出てきよったの」
まるで漁師の男たちの周りを取り囲むように、うっすらとした霧が立ち込めてくる。最初は単なる靄のようだったそれが徐々に深まり、薄い髪を重ねたように見る見るうちに周囲を白く染めていく。
月明かりに照らされ、青白く光るそれは非常に不気味であり、いつの間にか目にできるのは船の上の光源が及ぶ範囲内にいる自分たちだけになってしまっていた。
長年漁師を続ける彼らだが、このような現象はそれほど覚えがない。あってもせいぜい、薄い霧の中に包まれ方向を見失うというようなもの。閉じ込められるような現象は聞いたことがなかった。
「こういう霧の時は……ばっちゃから教わった昔話を思い出すのぅ」
「お前のばっちゃといえば…ああ、迷信だの言い伝えだのによう詳しかったとかいう」
「そうじゃそうじゃ。どんな話だったかのぅ……おお、そうじゃ」
先ほど以上に顔色を悪くする男とは対照的に、相棒の男は懐かしいと笑みを浮かべて男の祖母の話を思い浮かべる。
数年前に大往生した祖母は、自分達の住む港ができる前からこの海を泳いでいたらしく、いろいろな話を知っていた。時化や津波に関する情報や量に関する知識、そして海に纏わる怪談や言い伝えなど、子供ながら思わず感心させられるほどに豊富な知識を有した女性だった。
男は頷き、祖母が語ってくれた伝説の中にある今のような霧に纏わるものを思い浮かべた。
「漁に出ておった船乗りがの、沖で突然霧に包まれてしもうて、岸に戻ることもできんようになってしまうんよ。そいでの、だんだん心細くなって涙目になっておると……出るんじゃ」
自身の恐怖を滲ませ、語り部のように話す男の脳裏に、この話を聞かせてくれた祖母の表情が蘇る。
常に海に対して強い思いを抱いていた祖母は、あらゆる言い伝えを聞かせてくれる時にはいつも厳しい表情を浮かべていた。自分の経験したものを絶やしてはならぬと追い詰められているような、必死さを感じさせる形相で語っていた。
決して忘れるな、胸に留めておけと、祖母は子供達に耳に胼胝ができるほどに聞かせ続けていた。
「青白い火を纏った骸骨姿の船乗りがの、『こっちゃこ〜いこっちゃこ〜い』っちゅうて生きとる船乗りを連れてこうとするんだと」
「はぁ…子供騙しな怪談じゃの」
本気で不安そうな目を向ける男に対して、相棒はまったく気にしていない様子で薄い笑みを浮かべる。
子供の頃は、男の祖母の話に脅かされたものだが、年を取った今では聞かされた話のほとんどが迷信や嘘、子供を躾けるための作り話であることを理解していた。なにせ、何十年も漁をしてきたが、一度もそういった怪奇現象や幽霊など見たことがなかったからだ。
「どうせならもっとこう……色っぽい女子が出てくる話が流行ればええもんじゃがの!」
「そりゃそうじゃな……はっはっはっは!」
静かな夜の海ではいささか耳障りなほどの暢気な笑い声を上げる相棒に、男もいつしか緊張がほぐれたのか笑みを浮かべ、二人してゲラゲラと笑い声をあげる。本当に何かいるのならぜひその姿を拝ませろ、そんな風にも聞こえるような豪快な笑い声が、真っ暗な海に響き渡っていた。
そうして笑い合っていた時、それは現れた。
「はは…」
「へへ…」
肩を揺らして声上げていた漁師達は、不意に頭上に刺してきた影に声を途切れさせる。
陽気な笑みを浮かべていた表情は見る見るうちに引き攣り、大きく目を見開いた真顔に変わっていく。顔色は二人とも、先ほどの男と同じくらい白く染まり、ぴくぴくと頬の筋肉が痙攣する。
顔を見合わせた男たちは、ギギギと壊れた人形のようにぎこちなく顔を動かし、自分たちに影を差しているそれを見上げ、さらに表情を引きつらせた。
「……おい、ありゃあ」
「……お前の目にも、見えとるのか」
ガタガタと全身が震え、目の焦点が次第に合わなくなっていく。目の前にあるものが夢や幻であることを願い隣にいる相棒に確かめるが、帰ってくるのは望まぬ答えだった。
影は漁師達に向かって徐々に近づいて行き、その異様な姿を切りの向こう側から見せつける。全貌を目の当たりにした男達はまともな呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのように、大きく目を見開いてその場で固まってしまっていた。
「ありゃあ……ありゃあ…‼︎」
男が譫言のように呟いた時だった。
影の上に立った人影が、薄らとした二つの緑色の火を灯し男達の方を向く。深い深い穴の奥のような不気味な黒い窪みの奥から見える光は、この世のものとは思えない冷たさと不気味さを有していた。
その直後、暗い夜の海に漁師達の断末魔のような悲鳴が響き渡るのだった。
◇ ◆ ◇
微かに塩気を孕んだ湿った風が吹き抜ける、港町の早朝。
街の中心に位置する、最も大きく広い屋敷の最上階の一室で、一人の女性が大量の書類の山と格闘していた。
青を基調とした、男性用韓服に似た衣服を纏ったその女性は、目の前に積まれた書類の束に目を通して自身の筆で署名をしては隣に置き、また次の書類を片付けに入るという作業に没頭している。
時折手を止めては、別の机にも載せられている大量の紙の束を見やって大きなため息をつき、また作業を再開させるということを繰り返していた。
「頭領!」
それ故に、部屋の扉が乱暴に開かれ、慌てた様子の男が入室してくると、女性の表情は苦いものでも口にしたかのように刺々しいものへと変わる。
しかし入室した男はそれを気にしている暇などないようで、ずんずんと急足で女性の元へと近づいて行く。女性が咎めるような視線を向けるのにも一切怯むこともなく。
「騒々しいのぅ。わしは見ての通り忙しいんじゃ。用事があるならもっと静かに手短に……」
「また出やしたぜ! これで5件目だ! どこの船乗りたちもビビっちまって商売にならねぇよ!」
鬱陶しそうな口調で追い出そうとした女性の言葉を遮り、男は机をバンッと叩いて女性に詰め寄る。
その際、積み上げられた書類の束がどさどさと雪崩のように崩れてしまい、女性がやっちまったというように天井を仰いで座布団から立ち上がる。
床に落ちてしまった書類を拾い集めながら、男が伝えようとしている話についてだいたいの検討をつける。
「…まさかおまんまで、あの下らん噂を鵜呑みにして吹聴して回っちょるんやなかか?」
「あ、いや……そんなつもりは…!」
「もうよかもうよか。わかったからおまんはもう下がりぃ。……手は考えゆう。おまんはできゆう限り向こうと話をしちょれ」
「分かりやした……」
突き放すようにしながらも、自身を見せるように告げてから指示を与えて男の不安を取り払わせる。長たる自分が戸惑う姿を見せることは、組織の運営において最もやってはならないことであり、混乱を招きかねない愚行である。
男がすぐさま退出すると、女性はカクンと顔を俯かせて机の上に項垂れる。またしても書類が飛び散る羽目になったが、もう自分から拾いに行く気力は残っていなかった。
「……はぁ。こりゃ、まっことめった話ねや。このいにことうちゅうに面倒ごとが湧くんは、やれんぜよ」
毎日毎日、終わる気配のない書類の片付けに奮闘し、百何十人もいる部下達に細かな指示を与え、さらに何百人もいる漁師についても管理しなければならない。
街の全ての民、数万人の生活を背負っている女性は、そのあまりの重さに泣き出したくなるのを必死にこらえ続けていた。
「まったく面倒事っちゅうもんは、こうも立て続けに起こりゆうもんなんかのぅ?」




