1:東への道
暖かい春の風が吹き抜ける、心地のいい天気だった。
見渡す限りの草原、先日振った雨粒が陽光をキラキラと反射するそのど真ん中を突っ切る長い長い道を、一台の馬車が進んでいた。幌が取り付けられた横幅の広いその馬車の中には、向かい合うように二列の座席が設けられている。
隙間なく腰を下ろす乗客たちは、時々隣に座ったものと語り合いながら、ゆっくりと進む馬車が目的の場所へ到着するのを待っていた。
彼らは決して友人や同業者というわけではない。道の途中に設けられた停留所から乗り込んだものが座席を譲り合い、馬車が勤め先や自宅の最寄りの停留所に着くのを待っているのだ。
つまりこの馬車は、決められたルートを毎日くり返し通って人を運ぶ公共の乗り物であり、その中でも国と国の間の長距離を運ぶ大変貴重で重要な移動手段であった。
「気持ちいいねぇ……師匠?」
「……そうね」
その馬車のうち二つの席に、魔女とその弟子は座っていた。
シオンは荷台の出口に一番近い席に座り、髪を撫でる風に心地よさそうに目を細めている。
ゴトゴトと多少の揺れが気にはなるものの、バネを使った特殊な造りになっているためにかなりマシにはなっている。サスペンションと呼ばれるそれがない馬車に乗ったときは、降りたときに非常に臀部が痛んで歩行が困難になったくらいだ。
「こんなのんびりした旅は久しぶりだねぇ……このところ結構バタバタしてたから」
「……色々と、面倒なことに巻き込まれていたものね」
「この先もこんな調子だったらいいのにねぇ」
「……気を抜きすぎよ、馬鹿弟子」
あまりの心地よさに半分寝かけている弟子の頬をつつき、アザミは半目で視線を逸らす。
ラルフィント共和国で起きた一件から数日、商業の為に整備された道に沿って歩き続け、ほとんど当てもなく東へ向かう二人であったが、ふいにアザミが馬車を使うことを提案したのだ。
「でも師匠が乗合馬車を使うなんて思わなかった。もっとこう……旅費の無駄だとか言ってケチるとばかり」
「……さすがにヤマトまで歩き続けるのは面倒だもの。たまには楽ぐらいするわ」
「ふーん……まぁでも、ちょっと疲れてたし、ちょうどいいかもね」
特に意味はないといったふうを見せるが、シオンはアザミに何か考えがある気がした。適当に答えて煙に巻こうとしているような、答えにくい話題を振った時のようなそんな雰囲気を感じたのだ。
現にアザミは気だるげに頬杖を突き、ぼんやりした様子で虚空を眺めているようだが、視線以外の感覚器官を働かせているように全く動かない。この近くで何かがあるのだろうかとシオンは勘ぐったが、見えるのはただただ広い草原に青空、そして乗合馬車の中で聞こえてくる騒がしいくらいの話し声だけ。
もはやだれが何の話をしているのかもわからないほど雑多な話声を聞きながら、シオンはアザミに訝しげな視線を向けていた。
「……師匠」
アザミが抱えている何かを知りたいと、腰を浮かせて距離を詰めようとしたシオン。
しかしその瞬間、がくんと馬車が大きく揺れ、中にいた乗客たちがドミノ倒しのように倒れこんだ。
腰を浮かせていたシオンは急な負荷にバランスを崩し、ズルッと座席からずれて床に尻をぶつけてしまった。
「ふぎゃっ⁉」
「……どうしたの?」
異変を察知し、とっさに体を支えたアザミは、したたかに尻を打って悶絶するシオンを放置して御者の方に確認を取る。
御者はやや狼狽しながらも、馬車を引く馬をどうにか落ち着かせてから御者台から降りる。どたどたと忙しなく馬車の後ろ側に回った彼を待っていると、しばらくして顔を出した御者は申し訳なさそうに眉尻を下げて馬車の中にいる乗客たちに頭を下げた。
「す……すいやせんお客さん。どうにも、先日の雨でぬかるんでいたところに車輪が嵌っちまったようで…ちっとばかり、待ってもらえやせんか?」
「……手伝うわ。見せて」
「え⁉ いやいや、ただでさえお客さんに迷惑かけてるってのに、そんなの気が引けやすって‼」
「……ここで時間を浪費する方が迷惑よ。いいからどいて」
「私もやる」
ぬかるんだ場所を見つけられなかった自分のせいだと責任を感じている御者を押し、アザミはこきこきと首を鳴らして馬車を降りる。慌ててシオンも痛む尻を押さえながらアザミの後を追い、ぬかるみにはまったという車輪の方に回った。
見れば車輪が嵌っているのは細長い溝のようで、見た目以上に深い泥だまりになっているようで、アザミは面倒くさそうにため息をついた。
「……これはまた、ずいぶん深く嵌ったものね」
「これは大変そう」
「ど、どうでしょうかね?」
「……押すっきゃないわね。ちょっと、他にも手伝ってくれる奴がいないか聞いてくれない?」
「へ、へい!」
恐る恐るといった様子で訪ねてきた御者に命じ、アザミは衣服の裾を汚れないようにまくり上げて絞る。
シオンも思った以上にひどい状態に眉をひそめ、腕を組んで唸る。試しに少し押してみたが、思った通りピクリとも動く様子がない。
「師匠? こういう時に役に立ちそうな魔術ってなんだったっけ? 身体強化? 重力操作?」
「……いの一番に魔術に頼ろうとするんじゃないわよ。ありがたみが薄れるでしょ」
「え―……」
早速といった様子で、以前師から借りたままの長杖を持ち出そうとしたシオンであったが、ざっくり却下されて不満げな声を上げた。せっかく全力で魔術を遣える道具があるのにと、実に物申したげな目でアザミを睨みつける。
しかしアザミは冷たい氷のような眼差しを向けてきて、シオンは思わず頬を引きつらせて後退した。あまりわがままを言うと、そのうち道端のごみを見るような目で見られる気がした。
するとそこへ、乗客に他に手伝ってくれるものがいないか確かめに行った御者が、実に申し訳なさそうな表情で戻ってきた。
「すいやせん……どうにもみなさん、汚れたくないとか疲れるとかの一点張りでして……」
御者からの返答に、アザミもシオンも似たような半目で馬車の荷台を見つめた。
確かにあの馬車に乗っていたのは、東の国に商談に行く商人や旅行に行く裕福な人物が多く、アザミとシオンのような一介の冒険者はあまり乗っていなかった。もちろん丸腰ということはなく、雇われた冒険者や護衛も一緒に乗っていたが、彼らの表情を見るに同じ意見のようだ。
気弱そうな御者一人と冒険者とはいえ女二人に任せ、自分たちは汚れ仕事などしたくないとへそを曲げている姿を見ると、アザミたちの胸中に何とも言えないイラっとした感情が沸き上がった。
「……モヤシ共が」
「え?」
「……何でもないわ。しょうがない、三人だけでやるわよ。あんた、先にアイツら降ろして。シオンも手伝いなさい
「え~…?」
「……文句あるの?」
「……は~い」
正直シオンも汚れたくはない。しかし師がやると言っているのだから弟子の自分も手伝わなければ、と謎の義務感を抱き、覚悟を決める。
せめて重さが軽減されるように乗客に全員降りてもらってから、馬車の後方にアザミとシオンが、御者台の方で御者が待機した。馬にも引いてもらい、一気にぬかるみの中から押し出すためだ。
降りるだけでも文句を言う輩が意外にいたが、アザミが冷めた目で告げたために渋々地面に足をつけ、じれったそうに遠くから見守る。
「…乗合馬車なんか乗らなきゃよかった」
一時は楽だとのんきなことを言っていた自分をはり倒したい、そんな考えを抱いたシオン。
人助けをしているはずなのに文句を言われているという状況が実に不満で、恐ろしい勢いで遣る気が低下していくが、やはり師匠にばかり手を煩わせるのはいかがなものかと義務感を抱いて身構える。
アザミも大体同じような考えのようだが、表情は馬車に乗っているときとほぼ変わらない無表情の為に苛立っているのかもわからない。なんにせよ、さっさとこの面倒な状態を何とかしたいという思いは一貫していた。
「……行くわよ、タイミング合わせて」
「はい!」
「……せー、のっ」
アザミの気だるげな音頭で、二人は思いっきり馬車を押す。同時に御者が鞭を振り、暇そうに待っていた馬荷馬車を引くように命じる。
ググッ、と溝にはまった馬車に力が働くが、車輪はわずかに浮いただけで溝から抜け出す気配がない。
乗客たちはまだかまだかと苛立たし気に解決を待つが、誰一人として手伝おうと向かってくるものはいない。時間がかかればかかるほど、彼らの視線は険しくなり、冒険者たちに鋭く突き刺さった。
「んんっ…‼ 師匠、やっぱこれ三人じゃどうしようもないんじゃ……⁉」
「……そうねぇ。もう少しばかり楽させてもらおうかしら?」
「お、お客さん…⁉ そんな方法があるなら最初から使っていただけませんかねぇ…⁉」
背後から突き刺さる視線にさすがに我慢の限界に達したシオンが提案すると、徐々に目を死んだ魚のように濁らせ始めたアザミも意外と早く賛同した。咎めるような困り顔を向けてきた御者のシオンが鋭く睨みつけると、いったん作業を止めて杖を取ってこようと力を弱める。
しかしその瞬間、一向に動く気配のなかった馬車が浮き上がり、そのままゴロゴロと進み始めた。
「わおぅ‼」
突然の事態に、わずかに馬車を押し続けていたシオンは前のめりに倒れこみ、泥水の中にバシャンと顔を突っ込んでしまう。アザミは寸前で手を引いたのかバランスを崩すことはなく、突然馬車が動いた原因に対してわずかに目を見開いていた。
一人だけ泥まみれになってしまったシオンは、ぶるぶると顔を振って泥を落としてから、さっきから不運ばかり続く今日の運の悪さに不満げに唇を尖らせた。
「……厄日だ」
「大事はござらぬか?」
「……え?」
半目で誰にともなく恨み言をこぼすシオンに、ふいに声がかけられる。
見上げたシオンの目にまず入ってきたのは、黒く尖った三角形の耳。外側は黒く内側は白い、やや縦に長いピンと立った犬人の耳だった。
その下にあるのは、白が模様の様に混ざった長い黒髪。腰まで続くつややかなそれが、後頭部で一房だけまとめられて垂れ下がっている。
切りそろえられた前髪の下にあるのは、ぱっちりと開かれた青い瞳。長いまつ毛に縁どられたそれはどこか愛嬌を抱かせ、人懐っこさも感じさせる明るい輝きであふれていた。
身に纏っているのは藍色を基本とした着物であり、その上に陣羽織のような外套を重ねている。袴は黒く、動きやすいようにか脛当てらしきもので裾をまとめられている。さらに言えば袴の臀部には穴が開けられ、そこから丸まった黒い尻尾が飛び出していた。
そして腰には、物々しい装飾が施された一振りの刀が提げられていた。柄や鞘には使い込まれた跡が見受けられる、不思議な雰囲気を持つ湾曲した剣だった。
「どうやらお困りの様子であったため、不肖ながら某もお手伝いさせていただいた。これでもう、馬車も進むでござろうか?」
「へ…へい! ありがてぇ!」
溝にはまった馬車を難なく押し出した人物、声の高さからしてシオンとそう変わらない年齢の女性の剣士は、手助けについて驕る様子もなくただお人好しそうな笑みを浮かべていた。御者は剣士の人の好さに戸惑いながら、何度も頭を下げて感謝を表す。
乗客たちの方に向かう彼を見送ると、剣士はうつぶせに倒れたままのシオンに手を差し出す。シオンは目をしばたかせるもその厚意に甘え、助けてくれなかったアザミに不満げな目を向けてから見せつけるように立ち上がる。
弟子の咎める視線も全く気にした様子はなく、アザミは道のど真ん中に急に現れた剣士をじっと見つめた。馬車の中にいた記憶はない、ということは馬車の後、もしくは前から歩いてきたか、もしくは草原の中を突っ切ってきたということになる。
「……こんなところまで歩き旅?」
「うむ。この辺りは空気が良いでござるからな、ただ楽をして過ぎるのはもったいなく思え、徒歩にて国まで目指していたところでござるよ」
「……モノ好きね」
「よく言われるでござる」
見渡す限り続く草原に目をやりながら言うと、剣士はどこか照れ臭そうに頭をかいた。近くの国屋町でも十数キロ、集落などもない子の無駄に広い場所を徒歩で歩き続けたという話に、あきれるばかりであった。
剣士も無謀さを自覚しているのか、じとっとしたアザミの目から逃れたそうに目をそらしている。
すると、待っていた乗客が全員乗り込んだことを確認した御者がアザミたちの方に近づき、剣士に視線を向けてきた。
「お客さん、どうでしょう? お礼に一緒にヤマトまでお乗りになっては?」
「む? よろしいのでござるか?」
「構いませんよ! お礼もできなきゃ、俺ぁ上の奴に叱られちまいやすから!」
「……では、ご厚意に甘えさせていただくでござる」
不慮の事故で、乗客から損害賠償されるかもしれないと戦々恐々としていた御者にとって、アザミや剣士はまさに救いの神に等しかった。多少他の客には詰めてもらうことにはなるが、それもこれも汚れるのが嫌だからと手伝いを拒否した自業自得だと無理を言わせるつもりらしい。
苦笑する剣士は、御者がほかの乗客たちに説明しに行ったタイミングでアザミの方に振り向いた。
「隣に失礼してもよろしいか?」
「……ええ、ちょうど、あんたと話してみたくなったもの」
「歓迎する」
「これはありがたい。……と、そういえばまだ名乗っておらなんだ」
うっかりしていた、という風に手を叩き、剣士は姿勢を正して向き直る。
フリフリと揺れていた尻尾をピンと地面と平行にし、よく見ればかなり大きいふくらみが見える胸に手を当てて真っ直ぐに二人の目を見つめ返す。キリッと人のよさそうな表情を改めると、どこか威厳を感じさせる雰囲気を醸し出し始めた。
「某の名はセツナ……旅の武芸者でござるよ」
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