10:生物の痕跡
風になぶられる自分の前髪を見つめる慎二は今、自分がどのような状況にあるのか理解できていなかった。
以前遭遇した巨大熊が目の前に現れたと思ったら、何の前触れもなく襲われた―――と思ったら、今度は巨大熊を真下に見ている自分がいる。一瞬幽体離脱でもしたのかと思ったが、けだるさや擦り傷の痛みなど体の感覚がはっきりしている。
そして同時に、襟首をつかまれて持ち上げられているという、親猫に咥えられる子猫のような浮遊感に困惑するほかになかった。
「……だから帰れって言ったのに」
頭上から聞こえる声にハッと振り返る。しかし目の前には大きな黒い塊があって、声の主が誰なのか全くわからない。
首を伸ばして覗き込んでようやく、先ほど見失った魔女が自分を抱えて宙を舞っているのだと理解した。
「うわああああ……うぎっ⁉」
「……うるさい」
思わず悲鳴を上げる慎二だったが、アザミにくいっと襟首を引っ張られて息が詰まる。
かろうじて重力を感じる方、つまりは自分の真下に視線を向ければ、先ほどの巨大熊が腕を振り下ろした体勢のまま、頭上にいる慎二の方に怒りの目を向けて咆哮を上げている。標的はいまだ慎二に向けられているようで、むき出しになった牙が唾液でてらてら光っている様が見せつけられる。
しかし、アザミはそれに一切注意を向けず、慎二の襟首をつかんだまま空を舞い、大樹の枝を足場にして再び跳躍する。その音は実に静かで、風で枝が揺らされる程度のかすかな音しか聞こえない。
アザミは重力をほとんど感じさせないほど軽やかな跳躍で森の上を飛び跳ね、巨大熊のもとから慎二を引きはがしていく。すると、しばらくその後姿を睨みつけていた巨大熊は不満げに鼻を鳴らしたかと思うと、急におとなしくなって慎二から視線を離した。
やがてアザミは、少し木々の間が開いて広場のようになった空間で降り立ち、慎二をゴミ袋でも捨てるようにポイっと落とした。尻もちをついていたがる慎二はしばらくの間その場で転がっていたが、やがて痛みが治まったころに涙目でアザミの方に振り向いた。
「なんで、あいつ帰って……?」
「……あの種は縄張り意識が強いのよ。縄張りさえ出れば、もうこちらに向かってくることもなくなるの」
「縄張りなんて……なんでわかるんだよ」
「……あれ、見える?」
アザミは慎二にわかりやすいように移動し、その視線の延長上にある大樹の幹を顎で示す。
慎二には目をよく凝らさなければならないほど距離はあったが、確かにほかの木々とは違う特徴がある気がする。詳しく言えば、大きな傷跡が刻まれていることだ。
斜めに走る、三本の長く太い裂傷に慎二は恐怖で青くなりながら、アザミに問いかける。
「な、なんだよあの深い傷跡……?」
「……あれは、熊が自分の縄張りを示すときに木につける傷跡よ。森を歩くときは、常にああいう生物の痕跡を確認しながら歩くのが基本なの」
アザミは面倒くさそうにため息をつきながらも、慎二に丁寧に説明する。
ただの親切で教えているのではなく、今後同じような間違いを起こす前にしっかり学ばせる必要があるという意味のような、そんな態度であった。
「……あんたみたいな素人は、自分の目の前ばかり見てそれに気づかない。野に生きる生物は皆、自分の存在を示すためのしるしをまわりに刻む。彼らの縄張りに好き勝手侵入しているのは、人間の方よ」
「あ、あんただって森に入ってんじゃねェか! どう違うんだよ⁉」
「……ここは、どの獣の縄張りでも無い公共の場所……、ちゃんとそういう道を探して、選んで、私は探索をしてる。あんたと一緒にするんじゃないわよ」
心底いやだというように、無表情だったアザミの眉間にしわが寄る。生理的嫌悪感にも見えるその表情に慎二は怒りを覚えるが、ごみ溜めを見るような冷たく乾いた目に息をのみ、返す言葉が見つからない。
実際、慎二はこれまでアザミに迷惑ばかりをかけているが、自分ならうまくできるという妙な矜持と根拠のないない自信が邪魔をして非を認められない。それでも、今逆らったら不利になるという事は理解しているようで、それ以上口答えをすることはなかった。
「……それに、生物の痕跡は何も動物だけが残すものじゃないわ。あんた、ここまで何も考えずに歩いてきたでしょ。足跡がずっと残ってたわよ」
「そ、そんなの……気にするのは人間ぐらいなもんだろ」
「……大きな間違いよ、それ。この森の生き物は賢いからね、自分以外の足跡を見つけて、それが同族のものか他の群れのものか、または獲物かどうかを判別するの。同時に、その痕跡の経過具合を見ていつ頃ついたものかとか、どの方向に向かったとか、何匹いるのかとかもわかるのよ」
「嘘だろ……? たかが、獣が……?」
「……あんたは、そのたかが獣より劣っているってことに気づくべきよ。このど素人が」
アザミはもう慎二の方を見ない。目を合わせるのも面倒になったのか、そのまま座り込む慎二を置いて歩き始めてしまう。
また放置されるのかと慌てる慎二に、アザミは背を向けたまま告げた。
「……仕方がないから、あんたついてきなさい。別に死んでも自己責任だからどうでもいいけど、これ以上森を荒らされるとこっちが困るのよ」
行っている間に、アザミはどんどん森の奥に進んでいき、木々の間に隠れていってしまう。
今度見失ったらまたさっきのような目に遭うと気付いた慎二は渋い顔のまま腰を上げ、前よりもややゆっくりな歩調のアザミの後を追いかけていった。
「……ついでに言うと、あんたの採集はなってないわ。手当たり次第に実を摘み取ってたみたいだけど、あれじゃダメ。身をつぶしちゃって種が酸化してるし、熟れてない実も熟れ過ぎな実もまとめて一緒にしてるから」
「…………そんなに俺をバカにして楽しいかよ」
「……そう思うんなら、今後私たちの邪魔をしないでほしいわね。私も、あんたに関わるつもりなんてないんだから」
アザミは言いたいことをまとめて言うと、それ以降は慎二に意識を向けることはなかった。
足場が悪い中必死に追いすがる慎二は何度か恨みがましげな視線を向けるが、アザミは柳に風といった様子で気にも留める様子はなかった。
◇ ◆ ◇
アザミと慎二がしばらく進んだ先には、先ほどの大熊の縄張りに似た雰囲気の空間が広がっていて、そこよりも広くフウセンカズラが生えていた。
その一角にはすでにシオンがいて、真剣な表情でフウセンカズラを摘み取っては腕に下げたかごの中に入れている。額に流れる汗や肌に張り付いた衣服の様子から見て、相当長い時間ここで作業をしていたのか、見た目以上の集中力が必要なのか、あるいは両方の経緯を想像させた。
「……ン。師匠、おかえり」
「……どう? コツは掴んだ?」
「何とか……五回に一回ぐらい失敗するけど」
アザミがシオンのそばに寄り、採集の出来栄えを確認する。籠の半分くらいまで集まったフウセンカズラは確かに慎二とは違って実がつぶれておらず、破れたりもしていない。熟しているかどうかは素人の慎二には判断がつかなかったが、知識のあるアザミやシオンには適当な時期になったものだとわかっていた。
放置される慎二は、ただその様子を歯を食いしばりながら見ているほかにない。本当に冒険者に、アザミたちと同じ仕事につきたいと思っているならば、近くに寄って作業の様子を観察したり、質問して知識を深めたりするべきなのだろうが、今さら教えを乞うなどと妙な自尊心が邪魔して行動に移せない。
異世界に迷い込んだ主人公の自分が、ベテラン冒険者たちをしのいで華々しい活躍を遂げるといったような、都合のいい想像しかしてこなかった彼はそこまで考えが及ばなかった。
だから彼は思いもよらなかった。
冒険者という職業が、常に命の危機と隣り合わせであるという事に。
「……‼」
唯一その変化に気づいたのは、シオンにさらに深いアドバイスをしていたアザミだけだった。
森の中のわずかな風の音の変化に、覇気の乏しい怠惰な表情が途端に引き締まっていた。
「……妙ね」
「ん?」
「……獣の姿が見えない。この辺はどの肉食獣の縄張りに属していない、公共の場のはずなのに」
アザミの一言に、シオンはハッとなって周囲に視線を巡らせる。
ここにくるまでは、確かに獣の鳴き声や足音、または草木を揺らす音などが聞こえていたはずだった。その音を聞き分け、危険な存在であるかどうかなども判断していたぐらいだったのに、今は何も聞こえない。
風が草木や枝を揺らす音だけが響き渡り、何とも言えない不気味な雰囲気を醸し出していた。
「……シオン、先にこいつを連れて森を出なさい」
「! 師匠は?」
「……ちょっと向こうを見てくるわ。あんた達は早くここから離れなさい、いいわね?」
シオンがうなずくのも見届けず、アザミは大樹の枝を足場に空中へと飛び上がり、状況を把握すべく高所の枝の上を跳んでいく。
師の背中を見送ったシオンは目を細め、自身も警戒を深めながら残った作業を手早く終わらせていく。収穫したフウセンカズラを入れた籠に特殊な布をかけ、できるだけ空気に触れないように密閉すると、それをさらに自分の持つリュックの中にしまい込む。
二重に包んだ目的のものを大事に背負うと、いまだに不満げな顔でぶつぶつとぼやいている慎二を一瞥する。
そこでようやく彼は、アザミの姿が消えていることに気が付いたらしい。
「お、おい。あいつどこ行ったんだよ……まさか、またこんなところで置き去りにするつもりなんじゃ……っておい‼」
シオンは傲慢な青年の横を通り抜け、さっさともと来た道へ向かって歩き出す。
しかし獣道に入る前に一度立ち止まると、シオンは面倒くさそうな表情で慎二の方に振り返り、くいっと顎で示した。
「さっさとして。……また襲われても今度は助けない」
けだるげな眼でそう言われ、慎二は言い返しそうになるのをぐっとこらえる。仮にも自分の好みに遭った異世界の美少女なのだ、癇癪を起して怒鳴りつけるのは避けたい、などという下品な理性がいまだに働いていた。
しかしやはり言われっぱなしなのは腹が立った。仕事を手伝ってやったのに真っ向から駄目だしされたり、戦力外通告されたり、あげくの果てにはほぼ完全に無視されたりと、慎二のプライドはすでにズタズタにされている。
「……こいつ、絶対いつか痛い目に遭わせてやる」
言いながら、そうなったときの妄想を膨らませる慎二は口元を醜くゆがめる。
自分に対する下卑た視線に気づきながら、シオンはたいして懸念することなく獣道を歩く。後ろにいる性欲の塊よりも、師匠が探しに行った異常事態の正体の方が気にかかるからだ。
シオンが知る限り、アザミがあれほど真剣な表情になるのは珍しかった。たいていの事態に陥っても狼狽することなどなく、面倒くさそうにため息をつきながらそれなりに対処できるのっがいつもの彼女で、あれほどまでに気を張らせた彼女はそうそうお目にはかかれない。
そこまでの事態が起こりつつあるなら、自分は言われたとおりに早く森を出るのが賢明な行動であった。
「…………ん?」
だが、急ぎ足で動いていたシオンの足がふいに止まる。自分が向かう先にあった「それ」を目にし、半目気味だった瞼が大きく見開かれ、冷や汗が頬を伝った。
慎二は目前のシオンの後姿を見つめながら、だらしのない表情で後をついていくだけであったが、立ち止まったシオンに気づいてようやく訝しげな表情を浮かべた。
「なんだ? どうし……」
その場から動かない、そして何よりぶるぶると震えているシオンの様子に不穏なものを感じた慎二が、シオンの肩越しからそれを目にした瞬間、彼の思考は一瞬停止した。
獣道を遮るようにして、その大きな体を横たえらせる毛むくじゃらの物体。大きく見開かれた眼をこちらに向け、威嚇するように大きく口を開けたそれは、つい数分前に慎二が遭遇したばかりの巨大熊だった。
「う、うわああああ‼」
悲鳴を上げ、その場にしりもちをつく慎二だが、なぜか巨大熊はすさまじい形相のままピクリとも動かない。よく見ればガラス玉のようなつぶらな瞳を開ききったまま、慎二とシオンを睨みつけているだけであった。
しばらくガタガタ震え、涙や鼻水を垂らしながら巨大熊から離れようとずりずりと後ずさっていた慎二だったが、そこでようやく気付く。慎二がどんなに騒ぎ立てても、その無防備な姿をさらしても、あんなに共謀立った巨大熊が一向に襲ってくる様子がないことに。
「……え、あ、え? なん、何で……?」
汚く汚れた自分の顔を拭くことも忘れ、慎二は恐る恐るといった様子で抜けかけた腰で立ち上がる。そろりそろりと近づき、情けなくもシオンを盾にしながら動かない巨大熊を見下ろす。
よくよく見れば、先ほどよりも巨大熊は小さく見えた。立ち上がっていないのもあるが、それよりも大きな要因として、その体の半分以上が失われていることが挙げられた。普通の熊よりも発達した巨大な腕も、その巨体を支えていた足も、筋肉の塊で会った下半身も、そのほとんどがえぐられたかのように消えていたのだ。
冷静になってみると、巨大熊の方からは思わず顔をしかめるほどの悪臭が漂ってくる。鉄くさいそれは巨大熊の体の下にたまっていき、周りの草木を汚しながらより広く臭いを広げて言っているのだと気付いた。
「なに……そいつ。死んでんの?」
「………ありえない」
「え?」
ほっと安心しながら、慎二はシオンのこぼした一言に不安な目を向ける。
無表情を貫いていたシオンの表情は、今初めて戦慄のものに変わっている。アザミよりは未熟ながらシオンもある程度経験を積んだ冒険者、多少の予想外の事態に遭遇しても冷静に対処できる程度の実力はあった。
それくらいは察していた慎二は、実力者であろう彼女がここまでの反応を示したことに、例えようのない恐怖と不安を味わった。
「この森での頂点であるこの種の熊が……こんな無残な殺され方されるはずがない。そんなことができる生物なんて、今まで聞いたことがない」
「そ……それって……」
森で最強の手である巨大熊があっさりやられるほどの力を持つ存在をほのめかすシオンに、慎二はその表情を真っ青にさせる。
今感じる恐怖は、最初に巨大熊に遭遇した時とは比べ物にならないほどの感情だった。ベテラン冒険者や実力者が表情を変えるほどの事態と言えば、アニメや小説では山場として描かれるシーンに登場するやばい相手が現れたぐらいのもの。
その時主人公は、チート能力やご都合主義の偶然によってかろうじて難を逃れることはできるが、ベテラン冒険者たちは何人か確実に命を落とすこととなるのが、お約束だった。
だが慎二は違う。何の前触れもなく異世界に迷い込んだ一般人で、何の力も武器も持たないただの子供。全滅フラグからは、逃げられるとは思えなかった。
青い顔で固まる慎二をかばうように、シオンは腰のホルスターから自分の杖を抜いて構える。
正直邪魔なため放っていきたいが、師匠からは連れて行けという指示を受けているために放置はできない。本当にいるだけで迷惑にしかならないやつだと、シオンは内心で慎二の評価を下げた。
「……お願いだから、今度は邪魔しないで。勝手に動いたら、死ぬよ」
「ヒィッ……」
情けない悲鳴をこぼす慎二を放置し、シオンは辺りに視線を巡らせ、耳を傾ける。
これほど無残な殺され方をしている巨大熊だが、断末魔の悲鳴はシオンでさえも聞き取れなかった。襲われたときに声帯をやられたのか、もしくは気づいた時にはすでにやられていたのか、とにかく相手は隠密性に長けている存在。そしてこの巨体をそこまで素早く仕留められる速くてデカい相手だと判断する。
役に立たない慎二を背に庇いながら、シオンはじりじりと大樹の幹の方へと後退する。こうすれば背後を気にする必要はなく、もしもの時は慎二をかばいながら戦える。遅れは取るまい、そうシオンは思っていた。
彼女のすぐ目の前に、ぼとりと毛むくじゃらの手が落ちてくるまでは。
「…………⁉」
それが、食いちぎられた巨大熊の手首から先だと気付いた時には、〝それ〟はもうシオンたちに迫っていた。
前からでも、横からでもなく―――上から。
「うげっ⁉」
とっさにシオンは慎二の襟首を掴み、渾身の力で投げ飛ばす。上手く受け身をとれなかった慎二はそのまま放置し、シオンは頭上から迫ってきた巨大な咢に杖の線端を向けた。
一瞬で貼られた強固な障壁に、シオンを丸ごと呑み込めそうなほど巨大な咢は何とか止められた。
大小さまざまな牙が並んでいるその顎は鰐や竜を思わせたが、骨格や顔のまわりに生えている体毛は肉食の哺乳類を思わせるもの、しかし手足は猛禽類の鋭さを持ち、しかもそれが複数の手足として生えている。
普通ではありえない、巨大な異形。それが巨大熊やシオンを襲ったものの正体であった。
「くっ……」
シオンは自身の全ての魔力を障壁に回し、空中に盾をとどまらせる。巨大熊の数倍はありそうな巨体はどう見てもシオンの魔法では支えきれず、シオンの足元の地面がめりめりと沈んでいく。それでもシオンがただ潰されずにすんでいるのは、障壁を自分の身を守る鎧としても展開しているためだった。
それほど多くは放出できないシオンの魔力がどんどん削られていくが、一度止められた異形の体は徐々に押し返されつつあった。異形の体重と大樹の上から飛び降りた時の加速に耐えきった以上、あとはその真下から逃れられれば良かった。
だが、シオンよりも先にその重さに耐えかねたものがあった。
「……あ」
ぼきりと、鴉の杖が半ばからへし折れたのだ。
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