五日屋の仕業じゃない
「夏彦先生はいらっしゃいますかい」
そんな夏彦さんの元を、この辺りでは見ないおじいさんが訪れたのは、ある夏の夕方のことだ。わたしは宿直に付き添っていたから、事務室でそのおじいさんを見た。こざッぱりした身なりと言うのだろう、黒いカンカン帽に、柄帯を締めた明るい灰色の着流しだった。
「先生は、運動場だよ」
わたしは帰る生徒のふりをして、おじいさんの跡をつけることにした。だってこんな時間に、お客にしても不自然だ。あんなに綺麗な洗いざらしの着物のおじいさんは、この辺りで見たことがない。しゃべり方も歯切れのいい江戸弁で、東京の人みたいだ。
夏彦さんはいつものように、運動場で物置の片づけをしていた。
「先生、お初にお目にかかりやす」
おじいさんは、折り目正しく帽子をとってお辞儀をした。
「どちらさまですか?」
夏彦さんが聞くと、びっくりするような答えが返ってきた。
「あたしは、五日屋って言うケチな狐の物の怪でさ。実はちッと、先生にお願いがあって来たンで」
わたしはお茶を出してあげた。夏彦さんは少し迷惑そうだったが、あまり面白い話だからしょうがない。
「世間様ではねェ、このあたしが例の『くるくる』だッてんですよ」
冗談じゃない、と、化け狐の五日屋は、熱いお茶に舌を巻きながら、まくしたてた。
「それで今度、猟師を連れてきて鉄砲撃つそうなんです」
五日屋には、五十匹からのひ孫がいて、あの森には目に入れても痛くない、と言うひ孫の夫婦ものが棲んでいて、難儀しているそうな。
「あたしは元は、江戸ものですよ。化かすにしても、あんな野暮な化かし方はしやしません」
頑固そうな江戸の古狐は、自慢とも言えないことを大威張りで並べ立てた。
「で、どうして私に相談するんですか」
「おたく、ここらの木魂に添われて歩いてらッしゃったでしょう」
木魂とは、森の精霊のようなものだそうな。もちろん、普通の人間にはそんなことは出来ない。この古狐は、わたしと同じだ。すぐ夏彦さんがただものでない、と気づいたのだ。
「何とか、頼まれてくれませんかねえ。この五日屋、受けた恩は忘れません」
「仕方ないですね」
夏彦さんは、しぶしぶ引き受けた。
木魂は、森の中で起きたことならすべて知っている。
五日屋が夏彦さんに頼んだのは、木魂と話せるからだったんだと思う。
「そう簡単にはいかないよ」
しかし夏彦さんは、浮かない顔をしていた。
「木魂が皆、知ってるわけじゃない」
次の休みの日、夏彦さんはわたしを連れて『兵隊さんのお堀』に行った。いつも静かな森の中は犬を連れた猟師たちが村の助役を連れて動き回っていた。
「連中がいなくなるまで待とう」
夏彦さんは言うと、辺りの草むらをほじくりだした。何をしているのかと思ったら、動物のフンを探していたんだそうな。
「確かに、狸や狐の仕業じゃないみたいだね」
そこで夏彦さんは、刑事さんみたいにはらはらと革手帳をはぐった。
「被害に遭ったのは、秀坊のお父さんとあの助役さんだ。二人とも家に帰る途中で、化かされてる」
それからわたしたちは、砲台跡の大きな目玉の上に立った。
「どうして『くるくる?』って聞くのかな」
「くるくるしてるから?」
わたしはすぐに答えたが、夏彦さんは、うん、と言わなかった。
「…ここには、誰もいないな」
と、言うと夏彦さんは、草むらの中かから何かを拾い上げた。それは布で作った小さな女の子の人形だった。
「正体が分かったかもしれない」
夏彦さんが言ったのは、そのときだ。
「正体?」
「うん、少し話をしてみるよ」
と、言う夏彦さんの周りには、すでに木魂が群れている。