05:王都解放後のエマ・ジレの活動
王都は奪還され、ベルトカーン軍は撤退を開始した。
ヴァイオレットは華々しく王都に凱旋した。
後世、彼女が王都に入った時、長い黒髪が風になびいていた……という表現が使われているが、それは事実ではない。彼女の髪も服も薄汚れ、お世辞にも綺麗とは言えない有り様だった。もっとも、”花麗国”の人々の目には何よりも美しく見えたのかもしれない。それほど彼女の帰還は劇的なものだったのだ。
彼女のベルトカーン国王を殺す、という願いは叶えられなかった。
温暖な地域であるサイマイル王国の軍は、本格的な冬を前に停戦を主張した。そろそろ決着をつけた方がいいとの機運が高る。戦いは”花麗国”がやや優勢といった程度だ。徹底的にやり合うよりも、ここで手を打つのが得策だった。
ベルトカーン軍も雪で国境の山脈が閉ざされれば兵站の輸送が困難になってくる。海上輸送を使わせない為に、”花麗国”の主要な港、及び、周辺海域はエンブレア海軍を主体とする連合軍艦隊が戦闘を繰り返していた。
初期からヴァイオレットを守ってきた海軍士官たちは、ようやく自分たちの得手である戦場に戻ったと言う訳だ。
けれどもなぜか、神聖イルタリア帝国の海軍艦長であるはずのマクシミリアンはヴァイオレットの側を離れなかった。馬の首を並べ、一緒に入城していく彼を見送ったエマは、寂しい気持ちに襲われた。
王城では「可哀想な小さな王さま」が亡骸となって、ヴァイオレットを待っていたという。
エマはその日の夜、ヴァイオレットが王の側で眠ったこと、夜半過ぎに、その王の遺体ごと寝台が燃えたことを聞き知った。
何があったのかは知らない。心無い人たちは、ヴァイオレットが王城を脱出した時に、動けない王を手にかけていったのだと噂した。その証拠が残っているから、見つかる前に燃やし尽くさないといけなかったのだ――と。
あの優しく完璧な王妃がそんなことをするだろうか。
城内は略奪を受けていた。何人もの人が寝台に横たわる王の姿を見たことだろう。中には身ぐるみを剥がそうとした者もいたらしい。しかし、そこに奪うべき物が何もなかったことから、幼い王は放置され、次第に近寄る者はいなくなった。
略奪に加わった者たちは、自らの罪にまつわることもあり、多くは語らなかったが、幼い王は、自分たちが見た限り、すでに亡くなっており、その身には、病の痕跡はあっても、外傷はなかったと話した。もっとも、それも信用は出来なかった。もしかしたら、略奪者の中に王を殺した者がいて、嘘を言っているかもしれないからだ。
ただ、事実として、この革命と戦争の間に、王妃が多くの人を殺してきたことは皆が知っていた。理由があってのものだが、ならば、足手まといの王を殺すのだって、理由がある。
その声は、ひそやかなものだった。
どちらにしろ病気の王は亡くなっただろう。そうしなければヴァイオレットは逃げられなかっただろう。そうなった場合、”花麗国”はベルトカーン王国の属国になったのだ。
恐ろしい噂を打ち消すように、民衆は殊更、ヴァイオレットを褒め称えた。それは自分たちの後ろめたさを打ち消す為のものでもあった。
そして同じ理由で、新しい”花麗国”を作り上げるのに協力し始めた。
義勇軍は解体された。
エマは皆とお別れをした。多くの人が彼女との別れを惜しんだ。あの息子をベルトカーン人に殺された女性も、最後には力強い握手をしてくれた。彼女はベルトカーン捕虜の中で、息子によく似た少年兵に会った。本当は似ていなかったのかもしれないが、そんなことは関係ない。「私はこの子を親元に帰してあげたくなったわ」と面倒を見た。その少年はついに家に帰れることになった。雪に閉ざされかけているベルトカーン国境を避け、彼らは海軍によって移送されることになる。ベルトカーンの捕虜たちは、エマたちの親切に心から謝意を述べ、帰って行った。
「もう二度と戻って来るんじゃないぞー!」
誰かがそう叫ぶと、両軍からなんとも言えない笑いが起きた。
捕虜の移送をもって、ベルトカーン軍の撤退は完了した。
エマは王都に取り残された。どうしようか。迷った彼女のエプロンの裾を小さな子どもが引っ張る。その子の後ろには多くの子どもたちが、エマと同じように途方にくれた顔をしていた。
彼らは義勇軍の後を付いてきた孤児であった。食料のおこぼれをもらい、時には伝令として走った。だが、今はただの孤児だ。
エマは自分のなすべきことを見つける。
この小さな存在を守る為ならば、どんなこともしよう。
ヴァイオレットから学んだことを活かし、エマはヴァイオレットを脅迫した。「お金を下さい。でないと、あのこと、ばらしますよ」
脅されたヴァイオレットは笑いながら孤児院を作る場所と資金の提供を惜しまなかった。「困ったことがあれば、また脅しに来なさい」
おかげで、飢えた子どもたちとエマは、温かい部屋で冬を越すことが出来た。いつしか、王都の孤児も集まってきた。彼女はその全てを受け入れた。ヴァイオレットにだけ頼るのではなく……彼女のお金は”花麗国”の予算であるのだ……自立出来るように寄付を求め、また、子どもを引き取ってくれる里親探しもはじめた。子どもたちには自ら文字を教えた。
エマは新しい家を得た。
だがヴァイオレットは、エマが居心地の良い小さな家で幸せに暮らすことを許さなかった。
そろそろ頃合いね――。
それは雪が降った日だった。
エマは王城から呼び出しを受ける。
ヴァイオレットの自室に入ると、唐突に名を呼ばれた。
「ねぇ、エマ・ジレ」
「はい、ヴァイオレットさま」
「エマ・ジレ」
「はい」
なんだろうか、と思っていると、ヴァイオレットは机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「シャンヌ伯爵令嬢、エマ・ド・マルフィ」
「――はい、ヴァイオレットさま」
その名を呼ばれるのは、何年ぶりだろうか。
「なぜご存知なのですか?」
彼女は伯爵令嬢の罪で断頭台に引き出されたが、どこの誰かまでは知られていなかった。それほどあの時の取り調べは適当で、名ばかりだった。
「アラン・ド・マルフィに聞いたから」
それはエマの従兄の名だった。芸術家になると言って、家を飛び出して帰ってこなかった青年。家族や周りからは変わり者と言われていたが、エマには優しいお兄さんだった。
ヴァイオレットはアランと、サイマイル王国で顔を会わせていた。神聖イルタリア帝国でも会っていて、”花麗国”でも再会を果たしていた。”腐れ縁”というものらしい。
「我が従妹・エマは、それはそれは優しく親切な娘だった――と聞いたわ」
ヴァイオレットが差し出した紙はアランが描いた彼女の肖像画だった。
「あの男が素直に人を褒めるなんて、珍いわよね」
アラン・ド・マルフィという男は、肖像画家として致命的な欠点を抱いていた。それは対象人物の内面までも見抜いて絵描きだすと言うものだった。それは称賛すべき技術だったが、誰しも清廉潔白な人間ではない。自分の醜い精神を描かれ、激怒するものが相次ぐ。
そんな中で、アランが描いた従妹のエマという少女は、まだ幼いといっても、それこそ清純さと慈愛に満ちた姿で描かれていた。
「だからすごく記憶に残っていたの」
「そうでしたか」
エマはヴァイオレットが何を言いたいのか量りかねていた。
「確かシャンヌ伯爵は”花麗国”の王族に連なる血統だったわね」
「そのようです」
姉のサビーナは、それに誇りと拘りをもっていたが、エマはとんと興味がなかった。
「だから、あなた、この国の王妃にならない?」
エマは困惑した。
「何をおっしゃっているか分かりません。
確かに私の家には、王家の血が流れているかもしれません。ですが、それで王妃だなんて」
「むしろ血は関係ないわ。あなたを”花麗国”の王妃にしたいの。
でも、対外的にも国内的にも、王家の血が入っていた方が都合がいいのも確かだわ。
つまり、あなたは王妃となるべき全てを兼ね備えている。絶好の人材と言う訳ね」
「そんな……」
都合のいい人間。それじゃあまるで、便利な道具みたいじゃないか。エマは泣きそうになった。
「シャンヌ伯爵家よりも王家に近い家はたくさんあります」
「でも、全員、逃げたか殺された。
国を捨てた家の令嬢よりも、初期から義勇軍に参加し、生き残ったあなたは、民衆の支持を受けられる。
今でも、あなたは皆に敬愛されているじゃないの。私みたいな偽善じゃなく、真実の姿をね」
「最初からそのつもりだったのですか……?」
ヴァイオレットはエマに親切だった。彼女がベルトカーンの兵士を助けたいと望んだ時も許してくれた。自分を襲った男を見逃して欲しいと望んだ時も、そうした。皆の前でだ。そうすることによって、エマと言う少女がいかに優しく親切かを、他者に知らしめることにした。
彼女を自分の代わりにすることを思いついてからずっと、ヴァイオレットはエマが自分よりも”美しく”見えるように仕向けた。
自分は最前線に立ち、敵味方共に命を奪ったが、エマには命を守らせた。
エマはヴァイオレットの身代わりであり、ヴァイオレットがエマの身代わりだった。
それが「あなたを利用している――」の意味。
「そうよ。
私は”花麗国”の女王になんてならない。
新しい国王を迎えるわ。”花麗国”の王族に連なる男を。目星はついているの。神聖イルタリア帝国皇太子の第三皇子よ。
それがあなたの結婚相手」
「嫌です!」
「嫌なの?」
「だって、そんなの酷いです……私、王妃なんて無理です。無理に決まっています!」
そう言って、エマはヴァイオレットの元を逃げ出した。
だが、すぐに捕まってしまう。
「いや! 離して!」
「エマ!」
「マクシミリアンさま!」
彼女を捕まえたのは、マクシミリアンだった。
「エマ? どうしたの?」
「私……私……」
泣きじゃくるエマを、彼はヴァイオレットの部屋に連れ戻した。
「私、王妃になんてなりたくない!」
「ヴァイオレットさまに言われたの?」
「はい。でも無理です。そんなの……無理です!」
マクシミリアンはエマを抱きしめたまま、しばらく何も言わなかった。
「マクシミリアンさま?」
「分かった……ヴァイオレットさまには私から話そう」
「すみません。動揺してしまって」
「――いいえ、気持ちは分かります」
そう言いつつもマクシミリアンの顔は暗かった。
そして、一部始終を目の前で見ていたヴァイオレットに向かって、彼女を自由にするように訴えた。
「あなたがそれでいいのなら」
ヴァイオレットはあっさりと許した。それはいつもの手だった。彼女が引き下がる時、それはエマに何か罠を仕掛けている時なのだ。
何度も騙されたと言うのに、エマは気付かなかった。ヴァイオレットの寛大さに感謝すらして、王城を辞した。
もしかすると、孤児院の運営費が減らされるも知れないと恐れたが、ヴァイオレットはそれをしなかった。むしろ増額した。
それもまた、ヴァイオレットの思惑だった。
エマの名声が彼女の知らない間に大きくなっていった。
”花麗国”奪還を陰で支えた少女。多くの兵士たちの命を救った少女。敵味方関係なく慈愛を注いだ少女。親をなくした子どもたちを母親のような愛情をもって接する少女。
なんて素晴らしいのだろうか。彼女こそ、自由と平等の女神だ――。
人々に褒めそやされるほどエマは困った。寄付金がたくさんくるのはありがたいが、過大評価もいいところだ。けれども、そんなことはありませんよ、といくら言っても納得してもらえない。
それどころか、無私無欲の人と、ますます称えられてしまう。
これがヴァイオレットの気持ちなのかもしれない。あの人も、いつも皆に褒め称えられていた。便利な道具として、いくつもの国に嫁がされた。彼女を再び”花麗国”の王妃にという話が聞こえてくる。
自分の意志とは関係なく、四度も結婚を強いられるのは嫌だろう。誰かに代わって欲しいだろう。
だけど――。
エマは王城を見上げてため息を吐いた。
「お疲れですか?」
いつかのように、マクシミリアンが現れた。
季節は春だった。ようやく街に、花の色が戻ってきた頃である。
「マクシミリアンさま?」
すでに同盟国の軍は”花麗国”を後にし始めていた。サイマイル軍は冬の足音に追いかけられるようにいなくなっていた。神聖イルタリア帝国は、その国の皇子が王座に就いたことから、しばらくは駐留するらしい。が、マクシミリアンは海軍の艦長だったはずだ。いつまでも陸にいるべき人間ではないのではないか。
エマの疑問を余所に、マクシミリアンは彼女の隣に座った。
「何か欲しい物はある?」
「あの……」
「遠慮しなくてもいいよ。子どもたちの為だ」
エマは控え目に「出来れば花の種を下さい」と望んだ。
彼女はマクシミリアンに関しては経験で学ぶことが出来た。彼の申し出を拒絶することは出来ない。ならば、小さいお願いごとをすればいい。
「花の種? そうだね、この国は”花麗国”と呼ばれている。
花は人の気持ちを穏やかにさせる。ここも花でたくさん彩ろう。
とてもいい思い付きだね」
「すぐに持ってくるよ」とマクシミリアンは笑った。エマの心の中に、花が咲いた気持ちになった。マクシミリアンもふんわりと笑ったエマに、花が咲いたようだと思った。
それからも彼はエマを訪ねてくるようになった。
撒いた種は芽を出し、葉を伸ばした。
「マクシミリアンさま!」
彼の姿を見ると、エマはつい駆け寄ってしまう。
「やぁ、こんにちは。今日はお菓子を持ってきたよ」
要望を聞いても無駄なことを知って、マクシミリアンは勝手に品物を持ってくるようになった。
「忙しいのに、邪魔してごめんね」
「いいえ! そんなこと! ……ありません」
エプロンの皺を意味も無く伸ばす。マクシミリアンはもう、あの艦長の制服を着ていなかった。こざっぱりとした服を着て、髪も綺麗に整えてある。
「あ……」
「何?」
エマはあたりを憚り、マクシミリアンの耳元に口を寄せた。マクシミリアンは膝を曲げて、彼女の身長に合わせる。
「ヴァイオレットさまの虱、どうなりましたか?」
「しばらくは痒がっていたけど、どうやらもういなくなったみたいだよ」
「それは良かったです」
「ベルトカーン国王に移してたけどね……」
今度はマクシミリアンがエマの耳元に囁いた。
ベルトカーン王国の和平交渉に、なんとこっそり国王自らが来たらしい。ヴァイオレットは和平の成立を祝して、憎き男を抱きしめたという。
「頭と頭をくっつけてね」
「……」
「虱がベルトカーン国王に飛び移れるように、たっぷりと」
ベルトカーン国王はヴァイオレット妃に懸想しているという噂があった。彼女を手に入れる為に、戦争を起こしたとも囁かれている。
迷惑な話である。
ヴァイオレットは「これくらいしか復讐出来ないの」と憤っていたらしい。せめてもの嫌がらせが、それだったのだ。結構な額の賠償金もふんだくっていたが、それは当然の償いなので、数には入らないらしい。
「ベルトカーン国王は怒ってませんでしたか?」
「いいや……聞くに、ヴァイオレットさまから頂いた虱を、ずっと飼っていたいとのたまったらしいよ……」
エマは心根の優しい少女だった。だが、そのエマにしてベルトカーン国王はこう言われた。
「気色の悪い人ですね」
「本当に……厄介な男だ」
二人は顔を見合わせた。マクシミリアンの顔が近くにあるのに気づいて、エマは身を引いた。
「ごめんなさい」
「――いいえ、こちらこそ。あの……」
マクシミリアンは何か言いたそうだったが、集まってきた子どもたちの群れに埋もれてしまい、二人は引き離されてしまった。