04:ヴァイオレット妃にまつわる、あくまでも噂話
だからもうそれほど心配しなくても構わないのだが、エマは人気の無い場所での単独行動は避けていた。
女性陣と連れだって行ければ良いのだが、この時は、人手が足りず、一人で行かなくてはいけなかった。
どうしよう。
愚図愚図してはいけない。
用向きは洗濯だった。街はずれに水が湧いていると聞いた。
ヴァイオレットは常に衛生状態に気をつけていて、汚れた包帯は許されない。なのに、包帯は汚れる一方で、洗っても洗っても足りないのだ。川の水は兵士たちの遺体が浮き濁っていた。井戸の水位も浅く、飲み水としての使用が優先される。雨は降らない。
洗濯かごを小脇に抱え、当たりを見回していると、マクシミリアンが駆けて来た。
「どこに行かれるのですか? 危ないですよ」
「マクシミリアンさま?」
「あなたがまた一人で何かしそうだと、連絡がありました」
渋い顔をされ、エマは恥ずかしくなった。
自分が危なっかしいせいで、マクシミリアンに余計な心配と、仕事を増やしてしまっている。
けれども、これは必要なことだ。エマは彼に訴えた。
「包帯を洗わないと。もう明日の分もありません。なのに水も人も足りないんです」
「そうでしたか。
では……お供しましょう」
「マクシミリアンさまが?」
「そう。私が……です」
たじろぐエマに、マクシミリアンは自嘲気味に言った。
「兵士たちは忙しいのです。それに私の部下たちに使う包帯です」
士官たちだってやることはあるはずだ。一人の娘に構っているのは、外聞にだって悪い。彼の評判と信頼を落とすことになる。
そんなエマの戸惑いを余所に、マクシミリアンはやや強引に連れ出す。
「急ぎましょう。明日の分に間に合わせるには、陽がまだある内に洗い終わらなければ、乾きませんよ」
エマは空を仰ぎ見た。その通りだ。
二人は並んで歩いた。こうなると、人目がないのがありがたいくらいだ。
これは仕事だから。エマは楽しげに見えないように、黙って歩いた。
マクシミリアンも周囲を警戒して歩く。曲がり角で、その彼が、止まった。
「マクシミリアンさま?」
「エマ、今は駄目だ。戻ろう」
「わ……分かりました」
何か恐ろしいことが起きようとしているのだ。マクシミリアンの表情を見て、エマは従った。肩を抱かれて元来た道を戻ろうとした時、行こうとした方向に、青い軍服の一団がいるのが見えた。
エンブレア王国海軍とサイマイル王国海軍のものだ。似たような色と形だが、エマはすっかり見分けがつくようになっていた。
その彼らが守るのは――頭を湧き水の中に突っ込んでいる女性。
「え?」
まさか溺死……と思いきや、その人間は顔を上げた。
遠目で見ても分かる美しい女性。ヴァイオレットだった。
「もう最低!」
ただし、普段とは全く別人のような乱暴な口調と、不機嫌そうな顔だった。
驚いて足が止まるエマと、天を仰ぐマクシミリアン。ああ、今日は空が青い――。
「い、いかがされたのですか?」
エマはヴァイオレットとマクシミリアンを交互に見た。
ヴァイオレットは「あの男は殺す!」と叫んでから、また頭を水の中に突っ込んだ。
息が続かなくなって、顔を上げたところで、エマの方を見た。
「エマ……そこにいるのは、エマ・ジレね」
「来い」と呼ばれた。エマは引き寄せられるように側に行った。
「ヴァイオレットさま?」
手を握られた。
「……エマ……頭に虱がわいたの……」
幼子が、母親に泣きつくような言い方だった。
「虱よ! この私の頭に! 信じられない! 私、王妃なのに!」
頭がかゆいのか、ヴァイオレットは掻きむしった。
「いけません、頭皮が傷つきますよ。
それに水では虱はしがみつくばかりで、落ちたりはしません」
妙に冷静になってしまったエマの言葉を、ヴァイオレットは頭と一緒に振り払った。水滴と髪の毛がエマの顔を打つ。
「許せない! もう我慢出来ない!
エンブレアに帰りたい! 私を嫁がせまくった、あの王妃は失脚したらしいし、もうエンブレアに帰っても全く問題はないわ!
帰る! 家に帰るの!」
駄々をこねている。
そうとしか言えなかった。
エマは途中までは微笑ましい気持ちで聞いていた。
しかし、ヴァイオレットの不平不満は、どんどん加速していき、子どもの我が儘だとしても聞き捨てられない領域に入っていく。
「こんな汚くて野蛮な所、冗談じゃないわ! 私は王妃なのよ! 綺麗なドレスを着て、美味しいものを食べて、皆にちやほやされるのが王妃じゃないの!? なんでこんな目に合わなくちゃいけないのよ!! こんな国、滅んじゃえばいい――」
最後まで言わせずに、エマがヴァイオレットの頬を打った。
「皆、家に帰りたいんですよ! あなたが皆を家に帰すんです!」
「分かってるわよ! ただ言ってみたかっただけじゃないの!」
ヴァイオレットはぶたれた頬に手を当てながら、叫んだ。
「申し訳ありません……でも……」
エマは一国の王妃を平手打ちしたことに気が付いた。しかし、これではまるで聞き分けのない子どもだ。これが王妃と言えるのか?
――いいえ、王妃だわ。
ヴァイオレットの長い髪の毛は皮脂と汚れで薄汚い毛束になっていた。水が弾く。そこに白い点が跳ねている。服も汚い。彼女は王妃の特権で、清潔な熱いお湯を用意されても良かったのに、「一人だけ使う訳にはいかない」と手足と顔を洗う分しか求めなかった。
彼女は完璧じゃなかった。いつも逃げたくてたまらなかったのを、人前では懸命に堪えていたのだ。
一時期流れた噂の通り、彼女は国を捨てて逃げたのかもしれない。実際、逃げたのだろう。
しかし、こうして戻って来て戦っているじゃないか。
それが演技であろうと、偽善であろうと、人々は彼女を王妃と信じてついてきている。
ここまで来たらヴァイオレットはもう逃げられない。逃げてはいけない。戦い続けなければいけない。
「それ以上、おっしゃられたら、頑張っている皆が報われません。
ヴァイオレットさまだって、ご自身の行いを不意にしてしまいます」
「あなたは他の人には優しいのに、なぜ、私には冷たいの?
私だって、愚痴くらいこぼすわよ」
「ヴァイオレットさまはなぜ、戦っているのですか?」
エマは問うた。そんなに嫌なら、誰かに任せて後方にいてもいいのに。
「ベルトカーン国王をこの手で殺す! あいつだけは許さない!」
一切の迷いの無い返事が返って来た。
「あいつは”花麗国”の人々を裏で扇動して、革命を起こさせた。
ええ、確かに、”花麗国”はそうなってもおかしくないほど堕落していた。だけど、ベルトカーン国王は”花麗国”を欲するために、それを敢えて促進させた。真に国を案ずる人間を殺し、役に立つ人間を潰し、あるいは洗脳し、自分たちに都合のいいように操った。
人々が革命という名の暴力に飽き、憎むように仕向けた。そして、ベルトカーン王国の支配にたやすく従うように画策したのよ」
怒りと共に、ヴァイオレットは幼子から大人の顔に変わっていった。
「そのせいで本当の自由と平等が手に入らないばかりか、どれだけの人々が理由なく死んでいったか。
私も、どれだけ殺したことか。
――あいつは私を人殺しにした! だから絶対に許さない」
最後にぽつりと付け加えた。「あの可哀想な小さな王さまは、一人で王城に残ると言った――迎えに行ってあげないと」
ヴァイオレットの心が虚無になったような気がした。エマは恐ろしくなって、声を掛ける。
「ヴァイオレットさま」
「負けたって、私は殺されないわ。
ベルトカーン国王は私を妻にしたいと望んでいる。私が求婚を受ければ、軍を退いてくれる。
とても簡単な話だわ。
でも、私はもう――」
幼い頃から三つの国の花嫁になった王妃は、それ以上、言葉を続けなかった。
剣を佩き、銃を担ぎ、人を殺すだけが戦いではない。女には、女の平和の作り方がある。そう諭されて、三か国の君主妃となった。四か国目だって同じことだ。
同じことのはずなのだ――。
ヴァイオレットではなく、エマが泣いた。
「なんであなたが泣くのよ」
「だって……可哀想で」
「止めてよ。私、可哀想じゃないわ」
なんのてらいもなくヴァイオレットが言うので、エマは笑ってしまった。
「あなたはいい娘ね。だから今見たことは忘れなさい。
心配しなくても、最後まできっちりやり遂げるわ。
私がベルトカーン国王と結婚すれば済む話でもないのよ。結婚すれば、私を通じて、エンブレア王国や神聖イルタリア帝国にもちょっかいを出すに違いないわ。あの男の野心には際限がない。そうは思い通りにならないって、きっちりと教えてやらないと。
いざとなったら、新婚の床が、あの男の棺桶になることでしょう。だけどそれは本当に最後の手段よ。
”花麗国”はベルトカーンの属国にはならない」
「はい」
「あ、あと、あなたのこと、利用しまくってるけど、ごめんね」
一転して、力強い宣言に、エマも決意を新たに返事をしたのに、何やら不穏なことを現在進行形で言われた。
「どういう……」
「それはまた後で」
じゃあね、とヴァイオレットは濡れた髪の毛を絞って、立ち上がった。
「虱ってすぐにはいなくならないわよね?」
「え? はい! 毎日、丁寧に梳って、卵を除去して下さい」
「やっぱり? ああ、面倒くさい! だから衛生管理はしっかりしなさいって言ったでしょう! 虱は移るのよ! 男どもの髪の毛はみんな短く刈っちゃいなさい! 私、虫は嫌いなのよー!」
頭を掻きむしって、完璧な王妃さまは行ってしまった。あれでよく兵士の傷口にわいたウジ虫を摘まみ取れたものだ。恐ろしいほどの外面の良さ。
エマが呆気にとられている内に、士官たちも苦笑のような励ますような笑みを与えて、いなくなった。
残ったのは、エマとマクシミリアンだけとなった。
「驚いたでしょう……」
マクシミリアンが心配そうにエマの顔色をうかがった。あの完璧なるヴァイオレット王妃の本性がこれとは……失望したに違いない。
「えっと……そうですね」
ヴァイオレットが策略家なのを、エマはその身でもって実感させられていた。なので驚いた部分もあったが、どこか納得出来た。
「あなたを平気で酷い目に合わせた」
マクシミリアンは悔いたような口調だ。彼は望まないながらも、共犯者であった。
囮にされ、命だけでなく真心も裏切られた形だったが、そうしなければならなかったヴァイオレットの気持ちを思うと、エマは恨めなかった。
「あのお方は”花麗国”の為に、最善の方法を選ばなければならないあまり、苦しんでいるに違いありません。あんな風に追い詰められていた人の頬を、どうして打ったりなんかしてしまったのかしら」
あくまでヴァイオレットを案じるエマに、マクシミリアンは「あなたは優しすぎるくらい、優しいですよ。あの人にはあれくらいがちょうどいいのです」と答えた。
「それに、マクシミリアンさまはヴァイオレットさまを信じているのですよね?
そうでなかったら、一緒に戦ったり出来ないはずです。
マクシミリアンさまが信じているお方なら、私も、信じます」
「ええ……」
やっとのことで声を絞り出したマクシミリアンに、追い打ちをかけるようにエマの無垢な瞳が向けられた。
「あの……マクシミリアンさま?」
「な……なんでしょう?」
「マクシミリアンさまはどうして戦っているのですか?」
マクシミリアンは困った。
軍人である彼は戦うのが仕事だ。だが、それだけで砲弾の雨を駆け抜け、敵を殺し、仲間を死なせる理由にはならない。
「以前にも言ったかもしれませんが、人の真価が試されるような非常事態は出来れば無い方がいいのです。
ですが日常に戻すためには、もはやこの国は、ベルトカーン軍を退けなければいけません。
本来ならば、為政者がそうなる前に防がなくてはいけなかったのです。それが出来なかった以上、我々が責任をもって戦わねばなりません」
「皆、家に帰れますか?」
「きっと……そうしてみせます」
マクシミリアンはそう言って、さらに彼らしくもない小さな声で付け加えた。
「――あなたが幸せで、いつでも心からの笑顔でいられるような世界を……作りたいのです」
それを聞いたエマは、悲しそうな顔になった。
自分の為に、マクシミリアンまで傷ついたり、死んだりしたら、耐えられない。でも、「私の為に傷つかないで下さい」なんて、おこがましい考え方だ。きっと「あなた」は不特定多数のエマなのだ。エマのような弱い女子どもを守りたいと言いたいだけだ。
彼女はそう納得させた。
その後は、二人で黙々と包帯を洗った。エマはたまにマクシミリアンの様子を伺った。手慣れている。マクシミリアンがエマに視線を向ける。
「すみません!」
「なぜ謝るのですか?」
「いえ……あの……」
冷たい湧き水に手足を晒しているのに、顔が熱い。
性懲りも無く、エマはそれから何度もマクシミリアンの方を見てしまった。その度に、マクシミリアンも彼女の方を向いた。
微笑みを交わすと、元の作業に戻る。
そうこうしている内に、包帯は全部洗い終わっていた。エマにしてみれば、いつの間に、だ。もっと包帯の数があればいいと思って、恥じた。それは怪我人の数の多さを示すからだ。
そんな考え方をしていると気付かれてはいないかと、マクシミリアンの方を見れば、彼は最後の包帯を絞っていた。
「さぁ、これで終わりです。干すのはお手伝い出来ませんが宜しいですか?」
「はい! ありがとうございます」
「どういたしまして」
それからは互いに忙しく、姿を垣間見ることはあっても、言葉を交わす暇はなかった。
マクシミリアンはエマの患者にはならなかったということでもある。