第1話〈目覚め〉
(…………)
闇、そして静寂。
自分以外の存在以外、何一つとして認識できない空間。
暗い水の底を、自分1人だけが永遠に、永久に漂っている空間。
(あぁ……)
初めに感じたのは諦めの感情であった。別に現在の自らの状況を理解して絶望したわけでも、ただ孤独な意識で存在している事に不安を覚えたわけでもない。
それは、明らかに眠りにつく前の余韻であった。
焦燥、怒り、悲しみ……そして、諦観。
思考は記憶を辿り、記憶は感情を辿る。この言葉を言ったのは果たして誰だっただろう。これを聞いた時、なるほど至言だと思った記憶が朧げにある。だがしかし、もはやそれすらも記憶の果てに置いてきてしまった。
思考は記憶を辿ろうとするが、深い眠りの代償であるのか、揺蕩う水がそれを許さなかった。記憶は辿れず、しかし感情のみが深い哀愁をもって彷徨っている。
(あぁ……)
これはきっと、まだ夢の中。何年、何十年と重ねてきた思考の残滓。もはや再び目覚められるか、そして何より自らに再び目覚める意思があるのか、それすらももう判別がつかない。
(っ…………)
だけど。
だからこそ。
この頬に流れる涙は、きっと本物なのだ。
△△△△ △△△△ △△△△ △△△△
ボコッ……
(…………?)
ふと自身をくすぐる空気の泡と、耳元で聞こえる機械の振動音に目を覚ます。
液体に浸かり、浮力を感じ、重量を感じる。長らく感じていなかった感覚になんとも言えない心持ちになる。
暫くそうして何をするでもなくただ惚けていると、ぼやけていた視界も徐々にクリアになり、やがて自らの思考体が肉体を掌握するのを感じた。そしてそれと同時に、霞みがかったようになっていた思考の渦から意識が解放され、ようやく自己の認識がはじまった。
馴染みたての肉体がリンクした事を確認したところで、王夜は自身のおかれた状況を調査する。
これは、培養槽の中だ。今自分がいるのは、一切外界の光を通さない白銀の培養槽の中。
満たされた液体、自身に繋がれた無数の生命維持装置、縦長の円筒状の形状。幾千、幾万回も目にした光景。間違いない。
しかし、だからこそ分からない。何故自分は培養槽の中で目覚めたのか。
(うっ……⁉︎)
記憶を辿ろうとし、そして失敗する。金槌で殴打されたかのような鈍い頭痛。確かに思考体はこの肉体を掌握したはずなのに、これは一体どういう事か。こんな事は今までに一度もなかった。明らかに異常事態だ。何度も試すか、上手くいかない。“マザー”とリンクしていない事も原因だろうが、どうやらこの肉体には記憶は保存されていないらしい。そういうわけで、眠りにつく前の状況は一切分からない。
(ぐぅ……クソ……)
あまりの鈍痛に思わず悪態をつきながら、王夜は周りにいるはずの仲間、或いはAIへと語りかける。
『あー誰かいるかー? もし聞こえてたら現状報告を頼む』
…………。
…………。
暫しの沈黙。しかし、待てども待てども返事は来ない。
『誰かいないのか? クソ、ごほん。漣 王夜の名において命じる。俺に現状報告をしろ』
…………。
…………。
(マジ? マジで誰もいないの?)
こんな事は予想外、いや、まさしく初体験であったので王夜は軽く焦る。久しく感じる事のなかった独りであるという感覚。それをまざまざと見せつけられているようだ。
(いや、落ち着け……一旦外に出るか……)
この培養槽がどこに設置されているものかは不明だが、培養槽から出さえすれば端末と自身を直接接続して少なくとも現状くらいは把握できるだろう。そう思い、王夜は緊急脱出用の出口に手をかけ、操作を始める。
(えーっと、ここをこうだったっけか? クソ、分かりづらいな……なんでこんなアナログなんだよ……誰だこれ設計したやつ)
とにかくあちこちのレバーをガチャガチャし、ようやくお目当のボタンを見つけ出す。これを押せばめでたく脱出できるというわけだ。
と、今になってボタンを押す事に躊躇し始める。そもそも、こうして脱出口を使わなければならないのは王夜の問いかけに誰も答えないからだ。
通常、王夜を含めたメンバーの全員は統括システム“マザー”の下束ねられ、そしてAIの情報と分割され、脳とリンクしている。
だが今、王夜は脳との接続がなされていない。
皆はどうなってしまったのか、外の世界は、地上はどうなったのか。記憶が吹き飛んでいる王夜には想像することすらできないのだ。
(結局、外に出てみるしかない、か)
しかし、リンクが無いだけで培養槽から出る事がこんなに怖いとは。王夜は自身の滑稽さを笑い、脱出の準備を始める。
レバーを引くと、培養液が抜け、生命維持が徐々に停止を始める。それまで薄緑がかった液体で満たされていた培養槽は、今や新鮮な空気で満たされた。
思いっきり息を吸い込むと、久々の空気呼吸に肺が悲鳴をあげる。浮力が失われ、完全に自力で立つと足がふらつき、バランスを取るのも難しい。
しかし、この肉体の感覚。素晴らしい。自分はまだ、生きているのだ。
「ごほっ、ごほっ……、うぐ……」
まだ少し声を出すのはキツイが、それでも肉体の感触を確かめた事で少しは恐怖感も減った。外へ出るのだ。何年、何十年眠っていたかは分からない。だが、少しでも、地上の、世界の変化を目にする事ができるだろう。
「よし……行くか!」
ガチャン!
嗄れた声で自らに号令をかけ、ボタンに拳を叩きつける。
こうして、外界への扉は開かれたのだ。
と、思ったのだが。
「あ」
扉が勢いよく開かれ、威勢良く一歩足を前に踏み出した途端。
「ああぁぁぁだぁぁぁ⁉︎」
体は虚空へと投げ出された。何故か? その答えは単純。そこに地面が無かったからだ。
落下時間、実に数秒。そして、何とも都合よく用意されていた水場に思い切りダイブする事となる。
「おぼぉっ⁉︎」
水深くまで沈み上がり、王夜はその水のあまりの透明度に一瞬目を奪われる。が、すぐに培養槽と違って呼吸できない事に気がつき、水を大量に飲み込みながら、必死に浮き上がり、泳ぎ、岸へと辿り着く。
「ぐふぅー、うげぇっ……なんなんだこのトラップは……」
凄まじい疲労感で寝転びながら、しかし目に入ってきた光景を全く受け入れる事もできず、落下のショックで放心しながら落ちてきた方を眺めた。
「どうなってんだ……」
そこには、培養槽で埋め尽くされていたであろう艦の部屋の一部と、どこか神秘さえ感じるような木々の生えた湖の畔の崖と同化した、王夜が率いたサファロスの母艦の変わり果てた姿があったのだ。
久々の投稿です。これからボチボチ更新しますのでよろしくお願いします。