8 竜の少年
ひっそりと静まり返った森に、ゆるやかな光が差し込んでいた。
深い緑色の葉は日を受けて透明に輝き、合わせ鏡のように重なり合って、その身を風にゆだねるたびに細かな音を立てる。
ささやかな虫の音、子守唄のような鳥の声、獣の息づかいや葉を踏む足音、小さな命たちの気配。
森のすべてをまといながら、少年はそこにいた。
あぐらをかき、大きな岩に背を預けて目を閉じている。木々の隙間からこぼれてくる日光がゆりかごのようだった。
がさり、と草が左右に割れる。一匹の獣が姿を現した。
尋常な獣ではない。体毛は針のように天空に向かって突きあがっており、四肢は異様に短く小さかった。一目で魔獣に分類されるものだと分かる。
魔獣は獰猛そうな目を輝かせ、油断なく周囲を観察した。獲物を探しているのだろう。その目が一瞬少年を捉えたが、魔獣は卑屈そうに頭をさげ、やせ細った体を縮ませると、唸り声一つ上げずに彼の横を通り過ぎる。
すぐそばを恐ろしい魔獣が通過しても、少年はぴくりとも動かなかった。
ゆっくりと静寂の時間は流れ、そして唐突に破られる。
――シャール。
かすれた声が、深閑たる森に変化を告げた。
石と石をこすり合わせたような、低くしわがれた声。だが腹の底に響く重みをもっていた。
――シャールディ。
二度目の呼びかけで、少年の耳がわずかに動いた。彼は瞼を開き、顎を上げる。不思議な紅い色の瞳が虚空を見つめた。
「呼んだか?」
――もうすぐ別れだ。
少年は不機嫌そうに眉をひそめた。
――もはや、ここにおまえを繋ぎ止めている必要はなくなった。
「……俺は」
細い虹彩の目が苛立ちに染まる。
「自分の意思でここにいるんだ」
――分かっている、シャールディ。我らの子よ。だがおまえは進むだろう。我らの屍を守る意味などないのだから。
その時、少年の苛立ちは明確な怒りへと変わった。立ち上がり、反論しようとしたのか口を動かしたが、結局何も言わずに唇を噛む。
――シャール、我らの滅びを嘆くな。止められぬ己を呪うな。これは我らの選択なのだ。
「俺には選ばせてくれないんだな」
――おまえはそのために生まれた。
「……………」
――おまえだけは生き残らねばならぬ。シャールディ、おまえは最後の、ただ一人の――
そのとき強い風が吹き、木の葉と言葉をさらった。
揺らいだ声が波のように告げる。
――竜なのだから。
「世界樹に行くには、一度海に出る必要があるわ」
そう言ってイオリが地図を取り出したのは、町を出た直後、街道を歩いている時だった。
どこまでも続く草原を、一本の街道が走っている。左側には山脈が前方へと伸びていた。
「本当は、この山脈をぐるっとまわって西に行かなきゃならないわ。だけど、迂回している時間はない」
「まさか、山を越えていくつもりですか?」
全身緑に覆われた山々は、雲まで貫くほど高い。
「そっちの方が時間かかりそうですよ? それに」
アスレイは法衣の袖をちょんとつまんでいる赤い髪の少女――ラスを見やった。見るからに山登りなどできそうにない。
「抜け道があるのよ。洞窟」
それまで興味なさそうに聞き流していたクエンが、複雑な顔をした。
「〈竜の巣〉を通るのか?」
「……何かの比喩ですよね?」
「そのままの意味よ。竜の棲み処」
竜。地上には存在しない生物だ。魔界に居るもっとも魔性の強い種族だと、神殿で学んではいたが。
「危険はないんですか?」
「さあね。竜なんて滅多に会わないし、会いたくもないわ。だけど洞窟は向こう側に繋がっているはず。何人かは無事に通り抜けているから」
「無事? 竜と闘って満身創痍だったって話……」
「うるさい」
ばちんっ、とクエンが扇子ではたかれた。
もの言いたげなアスレイを強い視線で制し、イオリは〈竜の巣〉へ向かう。
どうやら反論の余地はないらしいと悟った男二人は、顔を見合わせると、おとなしく彼女に従った。
光の剣が虚空を奔る。
飛び掛かってきた魔獣は、空中で真っ二つに裂けて地に落ちた。
アスレイは視線をめぐらせ、気配を探る。残りがいないことを確かめると、息をついて振り返った。
「大丈夫?」
「うん」
ラスは微笑んでうなずいた。普通の少女ならば、魔獣が現れた時点でパニックに陥るだろう。やはり霊獣は人と感性が違うのかも知れない。
「まったく、これで何組目?」
狐色の髪を整えながら、イオリが足元に転がった黒コゲの魔獣を見下ろした。
「五組目だな」
と、クエン。
「随分魔獣が多いんですね……」
「住み心地がいいんじゃないの? 人が踏み込まない場所だしね」
イオリは言葉の端々がとがっている。
苛立っているらしい彼女とさりげなく距離をとりながら、アスレイは先へ進んだ。
「方向はこっちでいいんですね?」
「多分ね」
歩きながら、ラスが遠慮がちにアスレイを引っ張った。
「竜に会うの?」
「会うのが目的ではないんだけどね。通らせてもらうんだ」
ラスは少し顔をしかめた。拗ねたような表情。
「竜は、キライ」
「なぜ?」
「だって魔獣の王の子どもたちだもの」
霊獣にとっては敵。そんな思いがあるのだろう。だが、あどけない少女が口をとがらせるさまは、食べ物の好き嫌いでもしているかのようである。
「さて。情報が正しければ、もうすぐ〈竜の巣〉の洞窟に着くはずだけど……」
前を行くクエンが足を止めた。金の目がちらりと動く。
何気ないその仕草に、しかしイオリは緊張感をまとった。
ひっそりとした森。何も異常はない。鳥のさえずり、虫の音、小動物の気配――
それらが唐突に消えた。
氷原のように、ぴいんと空気が張る。その時点になって、ようやくアスレイは何者かがやってきたのを察知した。彼が鈍いのではない。クエンが非常識なほど鋭いのだ。
下草を踏む足音に、ラスが背後に隠れる。
現れたのは黒髪の少年だった。痩せぎすで、ほっそりとしている。だが軟弱な印象とは程遠い。豹のような、しなやかで強靭なふてぶてしさを備えていた。
アスレイと同じ年頃だろうが、少年らしい幼さは残っていない。表情は厳しく、大人びていた。
「――ここから先は竜の棲み処だ」
見据えてくる血の瞳、その虹彩は爬虫類のように細い。耳の先がわずかにとがっているのも不思議だった。
少年は全身から敵意を発散させながら、腰に提げた剣に手を触れた。
「死にたくなければ去れ」
「〈竜の巣〉を通るために来たのよ」
イオリの言葉に、少年は不愉快そうに眉を上げる。
「竜以外は入ることを許されない」
「誰の許可も要らないわ」
殺気さえほとばしりそうな雰囲気になったため、アスレイは慌てて二人の間に割って入った。
「急いでいるんだ」
できるだけ穏やかに、ゆっくりと話す。
「棲み処に踏みこむことが無礼なのは分かる。通らせてもらえればいい。荒らす気はないんだ、だから……」
「そっちの事情なんか知ったことじゃない」
イオリの口元が怒りで引きつる。
アスレイは焦って早口になった。
「なら、誰の許可があればいい?」
「じじいが許せば」
少年は急に口をつぐんだ。咳払いをし、言い直す。
「……竜の、長老が許可をすれば」
「どうすれば許可をもらえるんだ?」
「知らない。今まで許された事例がない」
「君は〈竜の巣〉に入れるんだろう? それなら、聞いてきてくれないか。どうすれば通してくれる?」
「知らない」
だんだんと少年の感情が昂ってきたことに、アスレイは気づかなかった。
「僕らは争う気はないんだ。せめて話だけでもさせてくれ」
「……知らねえ、って――」
少年の霊力が一気に上昇する。アスレイは反射的に唱えていた。
『殻を張れ、高速の主!』
「――言ってんだろうが!」
瞬時に展開された防御膜が、少年から放出された破壊的な霊力を押しとどめた。
周囲の草花が勢いよく引きちぎられ、木の枝はまとめてそぎ取られる。少年のすぐそばの木々がめきめきと音を立てて根元から倒れた。
術ではない。ただ霊力を解放しただけでこの威力なのだ。
「〈竜の巣〉には誰もいれねえ。西側に行きたきゃ山を避けていけ!」
問答無用とばかりに抜剣する少年。
説得がきく気性ではなかったようだ。
アスレイは不安げなラスから離れると、光剣を出現させて前に進み出た。
「アスレイ」
「大丈夫。一人で充分だよ」
心配そうなクエンにそう宣言し、少年の視線を正面から受ける。真紅のその目に、かたくなな敵愾心以外の色はなかった。
無駄だと思いつつも、アスレイはもう一度だけ話しかける。
「僕らは、争いに来たんじゃない」
答えは刃となって返ってきた。
剣が交差し、かみ合う。押し負けたアスレイは、光剣の角度を変えて力を受け流した。
(重い……!)
たいして大柄でもないのに、とんでもない力の強さである。
怯みは隙を生み、二度目の攻撃を許した。横からの斬撃をしりぞいて避けると、体の前になびいた髪が先端を切り取られる。
アスレイは低く踏みこみ、剣を一閃した。防ぎにくい足元へ、少年の攻撃後の硬直を狙った一撃である。
しかし、確実に捉えたと思った瞬間、彼は高く跳び上がって後退していた。
驚くべき身体能力、反応速度だ。
着地した少年が剣を構える。二人は再び対峙した。
強い敵意と警戒心。アスレイは奇妙な既視感を覚えた。この目を知っている。必死さの中にある焦りや恐れ。
巫女を護る時の自分だ。
「……君は……」
そうだ。いつもいつも、巫女を背後に庇う時は、こんな思いに捕らわれる。
「君は、何を護っているんだ?」
「――――!」
逆上して打ちかかってくる少年。
アスレイはそれを光剣で受け止めた。
「知った風なこと、言ってんじゃねえよ……!」
純粋に興味が湧いただけだったのだが、どうやら逆鱗だったらしい。
少年の剣を押さえきれなくなり、アスレイはその力を逃がしていったん離れた。
改めて少年を見つめ、後悔する。完全に怒らせた。今更何をしても退いてくれそうにない。
(……こっちも、退くわけにはいかない)
巫女。あまり長くそばを離れているわけにはいかないのだ。
張りつめた空気に、風さえもが怯えて呼吸を止める。
じりじりと時が間延びして過ぎていった。
――その時。
少し離れた梢で、鳥達が喚きながら飛び立った。
地を蹴りかけたアスレイは、少年がはっと視線を外したため思いとどまる。
濁った声を上げながら、次々と逃げ去っていく鳥達。にわかに森が騒々しくなる。
「魔性狂いか……!」
少年は舌打ちした。逡巡するように視線をさまよわせる。が、すぐにアスレイらを呪い殺しそうな形相で睨むと、騒ぎの中心へと駆けていった。
「魔性狂い? まさか総霊院が……?」
「いや、違う。一頭だけだ。おそらく自然になったものだろう」
「自然になるものなのか?」
「最近はそうなるものもいるらしいな」
「竜がいるから、魔性もつよく満ちているの」
ラスがそっと教えてくれた。
「丁度いいわ。今のうちに進みましょ」
「でも、彼が……」
「あんたね。敵の心配までしてどうするの?」
「別に敵じゃないですよ。僕らが侵入者なのは事実だし――」
再び鳥が大群ではばたいた。騒ぎは収まるどころか加熱していっている。
「ふえてる」
ぴったりとアスレイにくっつきながら、ラスが呟く。
「増えてるって、魔性狂いが?」
「魔性狂いが撒き散らす魔性に影響されて、周りのものも狂うことが多いんだ」
クエンの言葉を聞いて、アスレイは少年が消えた方を見た。
どれだけの速度で、どのように増えていくかは分からない。だが、一人では手が足りなくなる可能性もある。
「ちょっとアスレイ!」
走り出したアスレイを、ラスが迷わず追った。その後にクエンが続く。
「あ・ん・た・ら・ねえ……」
イオリは低音で呻く。
「急いでるって言ってんでしょうがっ!」
声は、誰にも届かなかったようだ。