7 不安
お祭り騒ぎのようなレースから一日。
結局、賭けは〈梟〉側の勝利に終わった。イオリやクエンの乱入はあったものの、箱を持って戻ったのがジェオらだったこと、全身に火傷を負った〈白鼠〉達が丸一日経っても意識回復しなかったこと、何より住民達のごり押しがその理由である。
〈白鼠〉のメンバーは全員追い出してやった、とジェオが勝ち誇っていた。
平穏が訪れるのなら、それがいい。アスレイはそう思う。
〈梟〉を勝利に導いた赤い髪の少女は、病院の寝台に横たわったまま深く眠っていた。遺跡で倒れてから、一向に目覚める気配がない。
じっと少女を見つめていると、扉がきしみ、イオリがやってきた。
「まだ起きないの?」
「ええ」
イオリは並ぶ寝台の一つに腰掛けた。
「もう、勘弁してよ。世界樹に急がなきゃならないってのに……」
「放ってはおけませんよ」
「だから、バカ犬に背負わせるって言ってんじゃない」
「でも、どんな状態かも分からないですから」
そんな理由から、アスレイ達は少女を小さな病院に運んだ後も、町にとどまっていた。
医者は何も異常はないと診断したが、相手が幼い女の子ということもあり、このまま連れて行くのは気が引けた。置き去りにするのは尚更である。
「イオリさん、クエンは?」
「さあね。ふらふらするのが好きな奴だから、その辺散歩してるんじゃない?」
イオリは寝台から腰を上げ、棚に置かれたメダルを爪でもてあそびはじめる。キークという男が落としたものだ。
「総霊院ってどんなところなんです?」
「……………」
チィン、と指で弾かれたメダルは、アスレイの足元に飛んだ。
「霊獣信仰を要として、術師の登録、管理なんかを行っている機関よ。有料で霊術を教えたりもしてるわね」
「巫女を目の敵にしていたようでしたけど……」
「巫女の管理も役目の一つだからよ。巫女がそこから逃げ出して、いまだに捕まえられないから危険視しているんでしょ」
「逃げ出した?」
イオリは答えなかった。知らないのか、答えたくないのか。
アスレイは詮索せず、足元のメダルを拾った。表面には四種の獣の姿が彫られている。
「予想はしていたけどね。総霊院が魔性狂いを作ってるって噂は聞いてたから」
「魔性狂いというのは、あの獣達のことですよね?」
イオリは不機嫌そうな細目のまま、腕を組んだ。
「魔族はね、本来そう簡単に獣化できやしないのよ。獣化して魔性が強くなれば、魔獣の王の因子に支配されて自我を失うから」
「――え? でもクエンは?」
「あいつは特別」
何がどう特別なのか聞きたかったが、機嫌が悪いらしいイオリにそれ以上突っ込むことはできなかった。
「魔性狂いを作って、どうするつもりなんでしょう」
「さあね。建前は魔性を否定してるんだけどね。魔性狂いは精霊の敗北、すなわち信仰している霊獣の敗北になるから。なんにせよ、巫女の邪魔をするならあたしの敵よ」
アスレイはメダルを見つめる。ぼんやりと呟いた。
「総霊院……か」
「――総霊院がどうしたって?」
扉が開いた。ジェオである。
即座にイオリが噛みついた。
「何しに来たのよ、誘拐犯」
「つれないことを言うなよ、姉ちゃん。〈梟〉の恩人に礼を言いにきちゃいけねえか?」
「あんたからの礼なんていらないわよ」
「おいおい、ここの代金、俺が払ってやってんだぜ?」
「それくらいするのは当然でしょ」
彼女はとことん冷たかった。扇子を開き、しっしっと虫でも払うかのような仕草をする。
「でも、本当に何しに来たんだ?」
「随分と冷たいじゃねえか。言ったろ、礼をしにきたって」
ジェオが持ってきたのはたくさんの果物だった。
似合わない、と思わず顔をしかめたアスレイに、彼は不本意そうな表情を返す。
「エリクがうるせえんだよ。ちゃんと礼をしろだのなんだのと」
「その坊やは来ていないようだけど?」
「傷心中だ」
「傷心?」
と、アスレイ。
ジェオは笑いをこらえながら言った。
「真実ってのは残酷だよなぁ」
「……………」
イオリは意味が分からず眉をひそめたが、アスレイは察して呆れた。
「やっぱり面白がってただけじゃないか」
「誰しも傷ついて大人になってくもんだろ。それを手伝ってやっただけだ」
悪びれる風もなくにやつくと、ジェオは小さなものをアスレイに放った。短剣の形をしたペンダントだった。
「何かやばいことに関わったら、それと同じ紋章をかかげた店に行ってみな。運が良けりゃ手を貸してくれるだろうぜ」
ぱちり、とイオリが扇子をたたむ。
「ギルドの会員証ね?」
「ギルド?」
「盗賊の組合みたいなもんだ。うまく使えば役に立つ」
「だけど、あんたが困るんじゃないのか?」
背を向けたジェオは、片手をひらひらと振ってみせた。
「俺は顔パスさ」
そして去り際に余計な一言を飛ばしてくる。
「さて、可哀相な青少年の気晴らしにでも行ってくるか」
「それは僕のせいじゃ――」
アスレイの反論は、わざとらしい扉の開閉音によって遮られた。
「鉄鎖に随分と気に入られたみたいね? 何をしたの?」
「何もしていませんよ」
「色仕掛け?」
「……イオリさん、本気で怒りますよ」
イオリは素知らぬ顔で再び扇子を開き、自らをあおぎはじめた。
ジェオは扉にもたれかかる。ちらりと後ろの扉に――それを隔てた向こう側に、視線をやった。
「総霊院、ね……」
腰に巻いた鎖をいじり、おかしそうに笑うと、エリクら仲間の元へ戻っていった。
赤い髪の少女が目覚めたのは、ジェオが去ってすぐだった。
少女は静かに身を起こし、賢そうな瞳で辺りを見回す。イオリを見て、アスレイを見て、首をかしげた。
「……あなたはだれ?」
「箱を開けて、君を出したのが僕だよ」
きょとんとした少女は、やがて笑顔になった。子供らしい無邪気なものではない。穏やかに喜びが広がっていくような、不思議な幸福感を受ける表情だ。
「ありがとう……」
「こっちこそ助かったよ。君は――」
アスレイの声に緊張がにじんだ。
「君は、レイヴァラスなのか?」
「……それが、わたしの名前……?」
みるみる表情を曇らせていく少女。
「……レイ、ヴァラス……わたしは……レイヴァラス……そう呼ばれていたような――ううん」
少女は激しくかぶりを振った。
「ううん……わからない。本当のすがたも忘れてしまった……」
「なぜ箱に封印されていたんだ?」
「巫女が……」
その言葉に、イオリは強い反応を示した。雰囲気が強張る。
「あれは巫女、だった。巫女がわたしをふうじたの……」
「百年前に?」
イオリの口調は厳しかった。少女はアスレイに身を寄せながら、わからない、と小さく答える。
「どれだけ時が経ったのか、わからない」
「どんな巫女だったの。髪は? 目の色は? 外見の特徴は?」
「……………」
少女が泣きそうになったため、さすがにアスレイは間に入った。
「イオリさん、そんなに問い詰めたら可哀相ですよ」
「霊獣に可哀相も何もないでしょう」
腕を組んでつんと横を向くイオリ。彼女に代わって、アスレイは少女に優しく笑いかけた。
「その巫女の髪や目の色は、覚えてる?」
「稲穂よりずっとうすい髪の色をしてた。瞳は――湖の……そう、澄んだ湖底のひとしずくをかけらにしたような、きれいな緑」
「……………」
「イオリさん、似たような人ならたくさんいますよ」
「――百年前なら」
慰めを拒むように、イオリは絞り出した。
「間違いなく今の巫女よ……」
巫女は長命だ。魔族の寿命がどれほどかは知らないが、地上の巫女でさえ二百年を生きると言われている。
しかし、あの弱々しい少女が霊獣を封じたとは信じがたかった。
神聖なる獣。世界の調和を保つもの。澄んだ精霊を生み出す存在。
霊獣を縛すれば、世界に満ちる精霊も弱まるというのに。
「なぜ、巫女はレイヴァラスを封印なんて……?」
「かなしそうな顔してた」
少女がおずおずと告げる。
「ごめんなさいってわたしに謝ったの……」
「他には何か言ってたかい?」
「わからない……」
アスレイはイオリの強気な目に不安の色がにじんだのを捉えた。
「イオリさん、城に戻ってちゃんと巫女に聞きましょう」
イオリはきゅっと唇を締め、瞼を閉じる。
再び目が開いた時、その中に迷いは見受けられなかった。
「言ったでしょう、巫女はもう命が少ないの。地上の巫女を連れてきていないのに、起こすわけにはいかないわ」
「でも」
「今は一刻も早く世界樹へ行って地上の巫女を見つけるの」
説得も通用しそうにない頑なさであった。
「……分かりました、行きましょう」
諦めたアスレイがうなずくと、少女が毛布から這いでてくる。
「……どこへ行くの?」
「世界樹だよ」
少女はアスレイの法衣の袖を遠慮がちにつまんだ。
「わたしも行く……」
「体は大丈夫?」
「これのせいで力は入らないけど、へいき」
どうやら少女の体に巻きついた帯も、封印の役割を果たしているようだった。きつく体を締めているわけでもないのに、アスレイがどれだけ引っ張っても外れない。
「そういえば、名前はどうしよう?」
「どうするも何も、レイヴァラスでしょ?」
「違うよ」
イオリの言葉を、少女は即座に否定した。
「わたしは、自分のすがたが分からないもの……」
「じゃあ、とりあえずラスでいいんじゃない」
「ラス?」
いかにも適当な発言だが、少女はその名をいたく気に入ったらしい。ぱあっと表情を輝かせ、自分を指差しながらアスレイを見る。
「わたし、ラス?」
「君がそれでいいなら」
少女はラス、ラス、と弾むように繰り返した。つられて口元をほころばせるアスレイ。
イオリは一人、苛立たしげに扇を寝台の端に打ちつけた。
「どうでもいいけど、あのバカ犬はいつまでほっつき歩いてんのよ!」